宴1
一番驚いたのは、当の沈慧である。思わず顔を上げ、口を半開きにしている。ずっと不愛想だった沈慧の初めて感情をむき出しにした表情に、夏瑚は手にした扇で口元を隠し、それでも足りずに視線を逸らして笑いを噛み殺した。
他の面々はどうかと、盗み見ると、昇陽王子は使者の方を見ていた。
使者の方も負けず劣らず驚愕の様だ。顎が落ちている。
沈の両脇の護衛が、「礼をしろ」と囁き、肘でつつく。我に返った沈慧が慌てて頭を下げ、もごもごと感謝の意を述べる。
「私もお前のような有能な人材を得ることができて嬉しい」と、乗月王子が優しく言う。「沈男爵は宇州侯と親しいそうだな」
沈男爵は一応宇州侯の派閥に属していることになっている。末端の末端なので、直接の繋がりがあるわけではない。
しかし沈慧を保護するにしても昇陽王子よりも乗月王子のほうが摩擦が少なくなるのだ。昇陽王子としては、余計な波紋を避けた形だ。
乗月王子としても、形だけであっても自分の派閥から人材を奪われたような印象を持たれたくはない。そう考えたから、扶奏も手を貸すことを勧めたのだ。
昇陽王子は当初沈慧も商会の一員として保護することを考えていたが、実際に沈慧が商会に馴染んでいないこと、剣の腕があることを見て、剣士として召し抱えることにしたほうがよいことに気づいた。
護衛たちの鍛錬に興味を示していた沈慧を、鍛錬につき合わせた碧天と盛容がそう進言したのだ。「まだ足りないところはあるが」盛容は断言した。「ちょっと揉んでやれば、護衛兵並にはすぐなるさ。学園で任務に就くにはちょうどいい」「そうだな。卒業するころにまたどうするか決めればいい。本当に近衛に編入してもいいし、男爵家に戻っても、不名誉なことではないだろう。惜しまれても実家に戻るという者は珍しくないしな」昇陽王子はにっこり笑って言った。段々王子の性格を掴んできた面々にとっては、ちょっと気味の悪い笑顔だった。
王子直々の要望を、男爵当主ならともかく、子息では断ることは難しい。名誉なことでもあるし、それを足掛かりにもっと出世するかもしれないのだ。例え後継ぎでも、数年仕えるくらいは問題ない。増してや、沈慧は廃嫡こそされていないが、他に跡取りと公表された者がいるのだ。
「これは名誉なこと。沈慧、任務に励め」盛容が言い放って豪快な笑い声を響かせる。
昇陽王子は皆を立たせ、田爵が宴会の用意を告げる。それに答えて、周たち、護衛たちの顔がほころび、賑やかな声が上がる。
盛容が沈慧を引っ張って、宴会場として示された屋敷の中へ姿を消す。
田爵が両王子を先導する。王子の後を側近と、盛墨、劉慎、夏瑚が続き、さらに護衛たちがついていく。
「さて、沈家の使者よ」一人残った碧旋がまだ驚きから立ち直れない使者に声を掛ける。「用は済んだだろう。男爵に事と次第を告げるがいい。嫡男殿が王家に召し上げられたこと、私からもお祝い申し上げる」
「ありがとうございます。しかと主に申し伝えます」男は返答しながら、肩を落とす。
「宴に招待できず、済まないな。だが、両殿下にこの状態で拝謁するのは、荷が重かろう。帰路、恙なきよう祈る」碧旋はゆっくりと踵を返した。
関路が手配した料理人が作るご馳走が、田爵の屋敷の中庭に所狭しと並べられていた。護衛たちまで入れる部屋がなかったのだ。幸い、雨の心配はない天候で、気温も外の過ごすのに問題はない。
酒も用意されていたが、周たちも林檎酒を提供した。明日はここを発つことになっているので、あまりきつい酒はない。
夏瑚は料理と酒を楽しむ人々を眺めながら、座って少しずつ林檎酒を口にしていた。「いつやります?」姫祥がお代わりを継ぎながら、聞いてきた。
「終わりごろにね」夏瑚は答える。
一番賑やかなのは護衛たちだ。正直この一件とは一番関係のない立場ではあるのだが、人数は多いし、沈慧がその中にいるので、彼を囲んで結構盛り上がっている。彼は乗月王子の護衛として任務に就くことになったから、いわば歓迎会のようなものだ。
一方で周たちも田爵を交えたりしながら、和やかに飲み食いしている。田爵は、拝領した銀を使って、さらに農地を拡大することにしたらしい。
周も御用達を名乗るにあたって、商圏の拡大を図ると宣言し、仲間を励ました。これからさらに仕事に励むのだろう。
王子たちと公子たちはにこやかでありつつも、静かに食事をしている。盛容は護衛たちの会話に加わったりもしている。
劉慎は夏瑚が大人しいので、少し気になったようだ。体調について尋ねてきた。「大丈夫よ。ご心配なく」
劉慎が本当に気にしているのは、傍に座っている碧旋だろう。碧旋はなぜか宴が始まってからずっと無言だったのだ。食事もあまり進んでいない。話を振られると、微笑むのだが、それだけだ。その微笑みに一瞬説得された気持ちになるので、やはり美人は得だと思う。
一通りの料理で満腹し、酒を飲みながら話をしているうちに、今度は甘味などを食べ、話し、日が傾き始めた頃にまた違う料理が運ばれてきた。酒も追加される。
夏瑚は頃合だろうと、姫祥を呼んだ。姫祥はすぐに立って、灯りを用意するように田爵の家人に頼んだ。家人は庭の何か所かに松明を置き、中央では大きな篝火を焚き始めた。