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第一の課題の顛末5

 だから沈慧の師は関田爵だ。剣士として鳴り響く名声はない人だけれど、それでいい。特別に才能があるわけでもない沈慧には相応しい。

 将来を誓った幼馴染みを幸せにはできない。剣の道を究めることもできない。農作業と、素振りに明け暮れた日々、それでも穏やかで、悪くはない日々。


 実家から、母からの使者が現われた時、それは終わった。

 母を恨む気はない。母の気持ちもわかる。その期待を叶えられなかったのはこちらなのだ。

 だが、母の望み通りにはできない。父はそれを知っているから、沈慧を追わなかった。母には知らせなかったのだろう。病床にあるという父は、ろくに話すこともできない状態なのか。


 使者の申し出を突っぱねることしかできなかった。帰ることなどできない。使者がそれで納得するはずもない。

 田爵はともかく、周たちに手を出すかもしれない。

 その前に、一人で逃げ出そうか、と考え始めていた。

 それくらいしか、対策が思いつかなかったのだ。


 視察が入ると聞かされて、田爵の物言いから、貴族のお忍びだと推測した。周の事業を視察するのだという。恐らく、領地経営の参考にしたいと考える、公爵家の派閥の低位貴族か何かだろう。

 少なくとも、他家の貴族を巻き込むようなことはしないはずだ。そんなことをすれば、当の貴族だけでなく、口を利いた公爵家も敵に回すことになるだろう。

 普段の仕事以外に、視察の案内が増え、ばたばたしている中で、沈は一人、荷造りを進めていた。


荷造りは簡単だった。必要な物などない。大抵の者はまた買えばいい。生家を出るときもそう思い、身に着けた衣服と腰に帯びた剣、狩りに使う弓矢、野営の一式だけを背負った。金目の物も特に持ち出さなかった。

 道すがら獲物を仕留め、それを食べ、それを売った。毎日仕留められるわけではなかったが、時折採取する野草や木の実も加えれば、飢えることはない。小金程度ならすぐ手にできる。冬になる前にどこかに落ち着けば済む話だ。

 十年たったというのに、何も変わっていない。


 いや、今度こそ、周瑶は付いてこないだろう。


 護衛たちとの立ち合いを終え、汗を拭い、手渡された水を受け取って、一気に飲み干す。現実の冷たさが喉を駆け下りていく。

 この人たちがここを立ち去る前に、自分も旅立つつもりだ。自分の肩を叩き、健闘を讃えてくれる相手に、いつここを発つのか聞いた。「明日らしいな」

 「お前も来ないか。見込みあるぜ」笑いながら言ってくれる男に、微かに笑い、彼らが発つ前にここを出ようと決める。


 そう考えていると、視線を感じて目を上げる。

 自分を立ち合いの場に引っ張ってきた少年が目の前に立ってこちらを見ている。

 まだ未成年だと思うが、護衛たちに混じって型稽古をするところを見ると、兵士に憧れる気質なのだろう。ただ線は細く、洗いざらしの飾り気のない衣服に比して、綺麗な顔立ちが目を惹く。

 あの貴族と思しき青年たちと一緒にいたのだから、普通の護衛ではないのだろう。貴族の子息かもしれない。


 沈慧と碧旋の目が合った。


 そのことに気を取られていて、碧旋の背後で起こっていたことに気づいていなかった。

 碧旋は田爵の屋敷の正門を背にしていた。南に向かって開かれた正門は街道には面しておらず、田爵自身が周囲の集落間を走る道から引いたものだ。初めに草を抜き、丸太を引いて均したものの、後は田爵家の敷地から出入りする人の足や獣の蹄に舗装は任せている。雨が降れば、ところどころ泥濘ができる田舎道だ。

 その道を一個小隊が隊列を組んで進む。先頭には馬に騎乗した武人がおり、6人の兵士が足並みを揃えてその後に続く。


 碧旋が物音を聞きつけたのか、後ろへ向き直る。沈慧も迫る足音に気づいた。心当たりに、沈慧の顔色が変わった。

 盛容は不思議そうに、しかし、集団が迫ることを悟って、姿勢を変えた。なぜやって来たのか、誰がやって来たのかは見当がつかなくても、危険性があればそういう疑問には囚われずに即座に対応できるのが、盛容の強みだ。さっきまでの寛いだ様子はさっぱり切り替えられて、油断なく相手を待ち構えている。


 護衛の集団は、三々五々一個小隊の接近に気づき、数人が守るべき主の傍に走り去る。残りは武器に手をかけて、周囲を警戒する。

 騎手は正門の手前で、馬から降り、兵士に手綱を預け、一人で正門に歩み寄った。

 金属の小さな板を繋ぎ合わせた鎧を身にまとい、剣を腰に佩いている。槍は馬に残されていた。明らかに他の兵士よりも地位の高い戦士だ。髭を生やしたその風貌は歴戦の強者に見える。


 それを迎える護衛たちは、門の正面に碧旋が立ち、その斜め後ろに盛容、さらに後方に護衛の集団がいる。

 その集団からよろけるように沈慧が出てきた。

 さらに進もうとするところを盛容が腕を掴んで止めた。「放してください」盛容は、服装は華美ではないものの、質の良いものを着ている。携えている剣は余計な装飾は付いていないが、波紋鋼の見るからに高価そうなものだ。間違いなく貴族だろうと思うと、少し言葉に気をつけなければならなかった。

 「盛容、捕まえとけ」答えたのは碧旋だ。「だ、そうだ」盛容の力は強い。振り解くのも簡単ではないし、貴族だと思うと、無理に抵抗するのは躊躇われた。

 盛容という貴族に命令口調で話す碧旋も、貴族だろうし、それならば、男爵家の使者にも問題なく対処できるだろう。周や田爵には迷惑をかけたくなかったが、貴族の彼らが首を突っ込みたいというのなら、無理に止めなくてもいいかもしれない。 


 


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