田爵の土地5
「周さんは誰とでも、距離が近い。一尺、特に丁さんは一番近づく。8寸。他の面々は一尺よりやや遠いけれど、瞬間的には一尺になることがある。だから厳密なことを言うとそれぞれ関係性は異なるんだろうけど、親密さに大きな違いはないんじゃないかな。あくまで距離から考えるとだけど」盛墨が上目遣いになって、夏瑚を見る。夏瑚は一つ頷く。
「でも、沈さんは遠い。沈さん自身は全く動かないし。二尺以上の距離を保っている。誰ともね。唯一周さんだけだ、沈さんに近づくのは」
周さんが食事の前に、仲間を紹介しますと言って、一人一人の名前を教えてくれた。
丁さんは成人したばかりの男性で、近くの集落の住民だったそうだ。周さんたちが収穫物を売りに行ったり、仕事をもらいに行ったり、買い物をしに行ったりしたことがあるらしい。それで知り合い、仲間入りしたという話だった。彼は終始にこやかで、周さんの挙動をよく見ていた。彼女が行く先に付き従い、その行動を補助するように立ちまわっていた。
周さんは右足を引きずっていたが、特に人手を借りずに、ゆっくりではあっても自分一人で歩いていた。丁は手伝おうとして断られていた。
沈さんは、周さんがここへやって来た時に同行していた最古参の仲間だそうだ。
仲間と言っていたが、初めは二人で始めたと聞いた。ということは、沈さんはこの集団において、周さんに並ぶ重要人物ではないのか。
けれど、一人で黙って煮込みを口に入れる沈さんを見ていると、孤独を好んでいるのだろうか。
時折、誰かが、沈さんの前に皿を置き、声を掛けることがある。「でも視線は合わないよね。沈さんはずっと下向いてるし、皿持って来た人も視線が15度ほどずれてる」盛墨の言葉に、一見うまくいっている集団でも、難しい人間関係があるのだと思った。
食事も済み、周さんたちに礼を述べて、ひとまず論科の面々だけで課題についての考察をすることになった。
周さんたちがやっていることの評価、それが他の地域でもできるのかどうか、それが過疎の解決策になるのかどうか。
夏瑚は周さんたちがやっていることはいいことだと思うが、それが彼らの故郷で出来なかったのはなぜなのかわからなかった。彼らの故郷はここからそれほど離れていない。実家から持ち出した林檎の苗を活かすには、林檎の生育に適した地域に拠点を構える必要があったのだから、東の湿地帯や西の砂漠、南の熱帯地域に移動はできなかったのは理解できる。
劉慎が地図を見られるか尋ねた。国定街道とその宿場町は国定地図に記載があるし、詳細も明らかにされている。領都や国の施設がある都市も地図に載っている。だが、それ以上はある程度しか公表されていない。そのあたりは領主の意向も反映される。
この近辺の地図は、昇陽王子の母君淑妃様のご実家、畿州公爵家が所持、発行しているだろう。田爵の土地はそこから与えられたものだ。周辺の集落も公爵家の領地内だ。
昇陽王子は関路に地図を広げさせた。劉慎と盛墨が地図を覗き込む。
田爵の家の前庭に張った天幕の中に、論科の面々だけが集まっている。
昼食の後、そのままここへ移動したのだ。
だが、碧天は移動の途中で道を逸れた。「どこへ?」と乗月王子が声を掛けると、「すぐ行く」とだけ言い置いて行ってしまう。
いくら王子の許可があるとはいえ、よくそんな無造作な返答ができるものだと感心してしまう。自分にはとても真似できない。
劉慎は碧天の態度から、王族との婚姻を狙っているわけではないと判断している。でも、媚びず、対等に接することで、より王族にふさわしいと証明しているように感じるのは、夏瑚だけだろうか。
「この辺りに孤児院はありますか?」劉慎が昇陽王子と、関路に問う。関路が「あります。聖別院の教会があり、そこに孤児院も併設されています」「さっきの自己紹介で、そこの出身者だという者がいたのでは?」「いました。3名」
「よく考えている」ずっと黙っていた乗月王子が口を開いた。「故郷と違う領主の土地に移動したのは、故郷との縁を断つため。領主が違うと、手が出しにくくなるものだから。領主同士も領民同士の揉め事で自分たちが揉めることを嫌う。ここは公爵家の傘下になる。どこの領主も避けるだろう」
「それは確かに」「気候は故郷と大きく違わない。林檎を育てるための条件は適している。周殿の知識と経験が生かせるから、勝算は高くなる。田爵の条件も好ましい。余計な介入はなく、自分たちで事業を自由にできる。庇護は期待できる。それに、ここには適当な商圏がある」
乗月王子が地図を指さす。「周辺に小さな集落が三か所、中規模の町が一か所ある。林檎は輸送に強い。ここをぐるりと回って販売すればある程度の顧客が見込める」「しかし、この辺りに林檎の栽培をしているところは他にもあるのではないですか?以前からの業者がいれば、顧客を掴むのは難しいのでは」
「それは仕方がない。栽培に適した地域なら、大なり小なり栽培はされているだろう。だが、林檎は新しい品種を作り出すのが比較的容易で、差別化は可能だ。それに、この治戸の町は国定街道の宿場の一つで、交通の便が意外にいい。ここから、さらに商圏を広げられる可能性がある」