田爵の土地2
田爵の夫人は数年前に亡くなったそうだ。嫁に行った娘が一人いるそうだが、家には田爵一人きりらしい。それで姫祥が厨房へ入る許可を得て、茶道具を持ち出し、お茶を淹れてくれた。
他の面々はあちこち歩きまわっているようだ。少し離れたところに劉慎と護衛たちがいるが、久しぶりに一人になった。
少し頭痛がする。
羅州侯の屋敷へ向かった時も数日かけて移動した。そこから王都へ上京した時はもっと時間がかかった。その時も疲れたけれど、到着してそれなりに気を緩めることができた。羅州では、劉慎がよく気を遣ってくれたからだ。王都でも、まず羅州侯の別邸に入り、そこで入学までの英気を養うことができた。
しかし、今日はこれで休憩、というわけにはいかない。体力を使うことはあまり起きないだろうが、就寝するまで王族と貴族に囲まれて、勉強することになるのだろう。
「大丈夫か」劉慎が近づいてきて、声を掛けてくれた。
「さすがに疲れました」そう返事をしながら劉慎を見ると、片手に赤い物を載せている。「それは?」「林檎らしいな。そこの地面に転がっていた」
夏瑚にとっては、林檎は食べることはままあるが、生えているのは見たことがない。南部では林檎はとれない。芭蕉や芒果のような果物と違って、林檎は寒冷な地で育つと聞いた。暑さに弱いのだ。
確かにここは王都よりも北に位置する。実感としても、こちらのほうが肌寒い。日のあるうちはそれほど気にならないが、ここでは沐浴は無理だろう。王都よりも少し高度が高いせいもあるようだ。
護衛たちが数個の林檎を拾ってきた。小振りだが傷もあまりなく、赤い色がおいしそうだ。
「ちょっと食べてみましょうか」と劉慎に囁く。「おい」劉慎は呆れた顔になった。
「空腹なのか。ならば田爵に軽食を頼むが」「そんな大げさな」夏瑚は頭を振った。
林檎は果物の中では、比較的輸送しやすい。生のままでも結構日持ちがするし、身も堅い方だ。皮は薄いので当たると痛むが、ちょっとくらいの痛みならばその部分だけ切り取って加工することで別の商品にもできる。
だから南部でも食べることはできる。ただし、地の果物よりも割高だ。海州で、芭蕉一抱えが15銭だとすれば、林檎はこの小さな一個で50銭以上はするだろう。
そう考えるとますます食べたくなってきた。
夏瑚が懐から短剣を取り出したのを見て、劉慎は明らかにぎょっとした。「まさか、それで林檎を剥くわけじゃないよな?馬鹿な真似はよせ」
馬鹿なわけがあるか。夏瑚は果物は一通り剥けるのだ。短剣はちょっと大きくてやり辛い。それでも母親に習っていろいろなものを剝いた。大根を剥く意味は分からなかったが、(何しろ皮と身の部分の違いが判らないからだ)母親は皮だけでなく、そのまま大根を剥き続け、白い帯に変えてしまった挙句、それを更に細かく刻むことができた。
制止の声を無視して、夏瑚はさっさと赤い皮を剥き始めた。湯を沸かしていた姫祥が戻ってきて、「うわ」と一言、淑女らしからぬ声を発した。「手を切らないで下さいよ。それ、ここの人に許可とったんですか?」
劉慎が渋い顔で唸る。
頼めば軽食だって出してくれる人が、地面に落ちていた林檎一つで文句を言うとは思えない。試食の範囲だと思うが、買い取ってもいいのだが、礼儀としては事前に許可を取るべきだ。劉慎は仕方なく許可をとるために歩き出した。
夏瑚は一口大に林檎を切った。姫祥が差し出した小皿に盛り、ひとかけ摘まみ上げた。「いただきます」林檎を口に入れ、咀嚼する。
鋭い酸味が口に広がり、顔が歪んだ。思わず唇を押さえて卓に伏せてしまう。
「あれ、まずいんですか?」姫祥が自分も一かけら口に入れ、一噛みした後、顔をしかめて吐き出した。「酸っぱいですね。加工用でしょうね」
夏瑚は口を押さえたまま、喉の奥で小さく唸り、足を揺らす。目をつむって味が落ち着くのを待つ。
前方でぷっ、と噴き出す音がした。
目を開けると碧旋が近づいてきていた。
碧旋は手を伸ばして、林檎を盛った皿を取り上げた。「これ、もらうね」と手を振り、去っていく。
「悪びれませんねえ」姫祥が呟く。
「まったくだ」戻って来た劉慎がすれ違った碧旋を振り返り、見送りながら相槌を打つ。
「腹が立つかもしれないが、敵に回さないほうがいい」劉慎が夏瑚の隣に腰を下ろす。「なかなか厄介な人物だ」
劉慎の後に続いて盛容・盛墨兄弟が現われ、劉慎が二人に席を勧めた。これは会話が始まるなと夏瑚は口の中の林檎をもう一度噛み、思い切って飲み込んだ。
夕食は、田爵が主導して、邸宅の前庭で火を焚き、料理をした。ここで暮らしている客人扱いの人たちの中で、食事を担当している者たちが様々な料理を作ってくれた。材料は主に夏瑚たちが持ち込んだ物を使った。
碧旋はその中に交じって、肉を焼き、林檎をそこへ入れて煮込んでいた。碧旋はそれを皿に取り分け、配って歩いていた。姫祥がそれを受け取って、夏瑚に渡してくれた。肉がとても柔らかくなっていて、美味しかった。
夏瑚は、碧旋が皆の間を縫うように歩き回るのをぼんやりと眺めた。碧旋は、どこにいても堂々と振舞っている。それでいて、周囲の人々に溶け込んでいるように見える。
別に糸の件は怒ってはいない。もともと糸の調査はされるだろうと思っていた。裏でこそこそ調べるよりも、直接自分に頼んだのも不愉快ではなかった。どちらかというと、断れずに、そのくせ刺繍にしたら調査を躊躇うのではないかと考えた自分のほうが姑息だ。
碧旋は夏瑚の誠意を無下にしたことを謝罪したが、誠意なんかではなかった。謝罪した時も、碧旋は堂々としていた。
夏瑚は焚火に照らされた碧旋が、こちらを見て微笑んだ。思わず目を逸らした。目を合わせるのが怖いような気がした。