碧旋の素性1
碧旋は左手で夏瑚の手を止めたまま、右手で手巾を取り上げた。そのまま胸元の合わせにしまい込んでしまった。
まあ、碧旋に贈った物には違いない。夏瑚はそれ以上喋る気をなくした。
「あのう、碧旋侯子が鳥を飛ばして、夏瑚侯子の糸を送ったということですよね?礼にはそぐいませんが、乗月王子殿下の護衛とは言え、捕らえられる要件ではないと存じますが」盛墨が恐る恐る口を開く。
「だよな」盛容相槌を打ち、劉慎も頷いた。「むしろ、王子の護衛としては相応しくないと言わざるを得ん」昇陽王子が断言した。
「わかってます」乗月王子が顔を上げ、碧旋を見た。「申し訳なかった。あの者は解任する」「お気になさらず」対する碧旋は朗らかに答えた。「不審に思われる行動をとったのはこちらなので」
「いや、あれは増長しすぎた」乗月王子は微かに頭を下げるような仕草を見せた。頭を人前で下げるのは、敬意や謝罪を表すが、そもそも王族は臣下に対しては謝ることなど有り得ないはずなのだ。乗月王子の仕草が限界なのだろう。
次の瞬間には、乗月王子は表情を引き締めて立ち上がり、「兄上、あの者を処罰は任せていただく。失礼」きっぱりと言い捨てて、天幕から出て行った。
「別にいいのに」碧旋は苦笑している。
「そちのためばかりではない。そろそろ踏ん切りをつけるべきなのだ」昇陽王子は弟君の後姿を見送った後、少し離れた立ち位置に控えている関路に向かって手を振った。関路は天幕を出て、すぐに湯沸かしを手にして戻ってきた。続いて入ってきた王子の従者の一人が、茶器を卓に並べる。
注がれた茶は、色味の濃い煮だし茶だ。一般の庶民がよく飲むもので、茶葉の苦みも出てしまうため、山羊の乳をたっぷり入れる。肉桂などの香料や蜂蜜を入れれば、とてもおいしいので、夏瑚も疲れた時などに飲みたくなる。甘くてまろやかな味は、子供も大好きな味だ。恐らく貴族であっても子供の頃にはよく飲むのではないだろうか。
昇陽王子はそれでこのお茶を用意させていたのだろう。夏瑚たちの気持ちをほぐすために。人の気持ちを理解している人だ。案外、商人にも向いているかもしれない。
お茶うけに塩味の腰果や扁桃などの木の種も出され、碧旋は何の躊躇いもなく音を立てて齧っている。余程好きなのか、ぽりぽりと小刻みに口を動かしている様子は、栗鼠を思わせて、夏瑚の頬も緩んだ。
「お前、一人で食い過ぎなんだよ」盛容が負けじと大きな手で木の実を掴み、盛墨に半分渡す。「あー、ごめん、好きなもので」と詫びつつ、碧旋の手は止まらず、次々に木の実を摘まんでいく。
「碧旋、そろそろ説明せよ。そのために論科の班員を呼んだのだから」昇陽王子が声を掛けたので、碧旋は手の塩を舐めてから、少し居住まいを正した。
わずかに丸まっていた姿勢を直し、表情を引き締めると、周囲の緩んだ雰囲気が変わる。
「俺の実家は男爵でね。西の国境の真土河の河口にある小さな島を拝領している」軽い口調で言い始める碧旋に、劉慎は思わず身を乗り出した。
劉慎は論科での初顔合わせの後、再度碧旋の身元調査を父の侯爵に依頼していた。
事前に学園の合格者の氏名については、何とか調べることはできていた。だが、詳しい素性までは無理だった。侯爵家が抱えている間諜ではそれが限界だった。学園の情報管理はかなり厳格で、高位貴族の要望もはねつける。そもそも王族が管理している学園なので、貴族の権力には強いのだ。
それでも氏名や後ろ盾の貴族が判明したのだから、もっと詳しい素性がわかるだろうと思っていたのに、さっぱり情報がつかめなかった。間諜によると、学園の公的な書類には顔合わせで知った以上の情報はなかったらしい。
孔州侯爵家にも、大した情報はなかった。それはかなり奇異なことだった。
仮にも養子に取ったのだ。事前に侯爵家自体が、素性を調べるはずだ。信頼できる筋からの紹介があったとしても、独自で素性を調べるのが普通だ。
そしてその情報は保管されるものだ。元の家族や、故郷での友人とのかかわりは、完全に断つわけではない。断とうとしても、それなりの情が残っていて当然だし、下手なことをすれば恨みを買うことにもつながる。
そのうえ、その家族や友人が厄介事に巻き込まれれば、累が及ぶことも考えられる。だから、ある程度のつながりは保って、厄介事の兆しがないかを確認しなければならない。
それなのに、そう言う情報が保管されていなかった。
侯爵家の家来などにも探りを入れてみたが、少なくともほとんどの人間は養子になった碧旋という人間の素性を知らなかった。ごく一部の者だけで秘匿されているようだと報告があった。
かと言って、孔州侯とその配下が、情報の秘匿に長けているかと言うと、そう言う訳でもないらしい。他の重要情報、例えば、昨年の税収や、そこからどこにどれだけ資金が動いたのか、また、孔州には廃坑になった金剛石の採掘跡地があるのだが、その近辺に鉱脈を探そうとする地質学者と、水面下で交渉を持っていることなど、外部に漏れればかなりまずい案件を探り出すことはできたのだ。
秘匿しているのは孔州侯爵家ではないのかもしれない。
劉慎が感じたのは、ただの感想ではなかった。それが意味するところはただ一つ、碧旋という人間は訳ありだということだ。