畿州への旅7
「一体何のことですか?」夏瑚は微かに首を傾げた。
碧旋は胸の合わせに手を滑り込ませ、中から一枚の折りたたまれた布を取り出す。「何だ、それは」劉慎が隣で呟くのが聞こえた。
それは夏瑚が刺繍を施したはずの手巾だった。一目見てそれと悟ったのも、夏瑚にもうすうすそうなることがわかっていたからだ。
夕食を取る際に、完成した手巾を渡したいと思っていたが、碧旋は護衛たちと行動を共にしていて、その中に割って入るのも気が引けた。
なにせ、護衛たちだ。男ばかりであるうえに、力自慢腕自慢の男たちなのである。
もちろん高位貴族の護衛なので、礼儀をわきまえている者ばかりだ。夏瑚が赴けば、丁重に挨拶をして、控えてくれるだろう。任務中でもあるので、酒を飲んだりしている者もいなさそうだ。
本物の貴族のご令嬢ならば、堂々と割り込んでいったかもしれない。彼らが従うことに何の疑念も抱かずに。
しかし夏瑚は平民の出である。
裕福な商人の娘として、守られて暮らしてきたとは言え、商会で働く男たち、特に一時雇いの人足たちの粗暴な態度、酒を飲んで人が変わる様を見たことがある。自分は殴られたことはないが、商会の見習いの子供が殴られて大怪我を負ったこともあった。話しだけならあちこちから暴力沙汰を聞かされた。それは夏瑚を守るために、大人しくさせておくために言い聞かされたものだったのだろう。
裕福な商人の娘として、目をつけられ、狙われる恐れもあったのだから。
もちろん必要ならば、護衛たちの中に入って行くことはできる。
けれど、淑やかな令嬢としても、それはあまり好ましくない行動だった。
碧旋が一人になったり、護衛たちから離れて夏瑚に近づいてくる時を待ってもよい。
それでも、相手に何か贈るのであれば、望まれている間に、渡す方がよい。手に入り次第渡したほうが相手の心証は良いからだ。忘れた頃に渡すのも相手を驚かす意味合いもあっていいが、「もういらないのに」と思われる危険もある。
それに高々手巾だ。勿体ぶるものでもないし、旅に嵩張るものでもない。さっさと渡してしまおう。そのほうが夏瑚も機会を窺って悩まずに済む。
そう考えて、姫祥に託して碧旋に贈ったのだが。
夏瑚はゆっくり立ち上がって碧旋に歩み寄った。碧旋は穏やかな表情でこちらを見ている。謝罪をする気持ちが嘘だとは思わないが、そこには恐れや不安がなかった。
碧旋は、夏瑚が傷つくとわかっていても、敢えて実行したのだ。
夏瑚は役目を終えた、手巾を手に取った。広げてみると、夏瑚が刺繍した沙羅の木の葉は、一枚だけ残っていた。一番小さい真ん中の葉だ。あとの二枚は、針目を残して引き抜かれていた。
「全部、抜いたほうが簡単だったでしょうに」思わず言葉が零れる。
糸を欲しがったのは、きっと調べるためなのだろう。
珍しい色味の糸は、父の夏財にとっては商売上の武器だが、貴族にとっては王族に献上した羅州侯のように、示威行動の源となる。羅州侯が献上し、今後社交上で活用していけば、他の貴族たちはそれに対応していかなければならなくなる。自分たちの権力や財力を示すような何かをもたらさなければ、後れを取ることになるのだ。
この糸は何でできているのか、何で染められているのか、どこで手に入るのか、いくら出せば手に入るのか。誰から、誰を動かせば手に入るのか。
糸はその大きな手がかりだ。
だから糸を欲しがる人がいることは予想済みだ。
碧旋は真正面から夏瑚に頼んだ。その態度は少々意外だった。まっとうに頼まれると、嫌とは言いづらい。己の狭量さを示すことになる。
それで夏瑚は刺繍をしたのだ。
頼まれたことを、頼まれたこと以上に手間をかけることによって、一見短いちょっと珍しいだけの糸を、贈り物にふさわしい品に変えた。贈られたら、数回は贈り主の前で使っているところを見せるもの、というのが理想的なお礼の表し方だ。だから、いずれ調べられるにしても、少しは時間が稼げるのでは、というのが夏瑚の計算だった。
まさか渡した数時間後には解かれていたとは、自分の甘さを噛み締めるしかない。
夏瑚自身も浅はかな計算だとは思っていたのだ。
情報を渡したくないのであれば、きっぱりと断るべきだった。多少外聞は悪いかもしれないが、筋を通すことはできた。碧旋とは論科で組んだというだけで、知人でしかない。断ったとしてもそれで即座に敵対するわけではないだろう。
夏瑚のなかに、碧旋に嫌われたくない、という気持ちがあったのだと思う。だから断れなかった。
仕方がない。こうなることは予想はしていた。碧旋にもそうしなければならない理由があったのだろう。
夏瑚は最後に残った一葉を指先で撫でた。そして手巾を丁寧に畳む。
手巾を手にしたまま、夏瑚は向きを変えようとした。すると片膝をついていた碧旋が立ち上がり、夏瑚の手に自分の左手を置いた。夏瑚が碧旋を見ると、すぐ近くに顔があって、思わずたじろいだ。
近くで見ると、その瞳は、濃い蜂蜜のように見えた。透き通ってさらりとしているように思えて、近づくと絡めとられそうだった。