表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/198

畿州への旅7

 「一体何のことですか?」夏瑚は微かに首を傾げた。

 碧旋は胸の合わせに手を滑り込ませ、中から一枚の折りたたまれた布を取り出す。「何だ、それは」劉慎が隣で呟くのが聞こえた。

 それは夏瑚が刺繍を施したはずの手巾だった。一目見てそれと悟ったのも、夏瑚にもうすうすそうなることがわかっていたからだ。


 夕食を取る際に、完成した手巾を渡したいと思っていたが、碧旋は護衛たちと行動を共にしていて、その中に割って入るのも気が引けた。

 なにせ、護衛たちだ。男ばかりであるうえに、力自慢腕自慢の男たちなのである。

 もちろん高位貴族の護衛なので、礼儀をわきまえている者ばかりだ。夏瑚が赴けば、丁重に挨拶をして、控えてくれるだろう。任務中でもあるので、酒を飲んだりしている者もいなさそうだ。

 本物の貴族のご令嬢ならば、堂々と割り込んでいったかもしれない。彼らが従うことに何の疑念も抱かずに。


 しかし夏瑚は平民の出である。

 裕福な商人の娘として、守られて暮らしてきたとは言え、商会で働く男たち、特に一時雇いの人足たちの粗暴な態度、酒を飲んで人が変わる様を見たことがある。自分は殴られたことはないが、商会の見習いの子供が殴られて大怪我を負ったこともあった。話しだけならあちこちから暴力沙汰を聞かされた。それは夏瑚を守るために、大人しくさせておくために言い聞かされたものだったのだろう。

 裕福な商人の娘として、目をつけられ、狙われる恐れもあったのだから。


 もちろん必要ならば、護衛たちの中に入って行くことはできる。

 けれど、淑やかな令嬢としても、それはあまり好ましくない行動だった。

 碧旋が一人になったり、護衛たちから離れて夏瑚に近づいてくる時を待ってもよい。

 それでも、相手に何か贈るのであれば、望まれている間に、渡す方がよい。手に入り次第渡したほうが相手の心証は良いからだ。忘れた頃に渡すのも相手を驚かす意味合いもあっていいが、「もういらないのに」と思われる危険もある。

 それに高々手巾だ。勿体ぶるものでもないし、旅に嵩張るものでもない。さっさと渡してしまおう。そのほうが夏瑚も機会を窺って悩まずに済む。

 そう考えて、姫祥に託して碧旋に贈ったのだが。


夏瑚はゆっくり立ち上がって碧旋に歩み寄った。碧旋は穏やかな表情でこちらを見ている。謝罪をする気持ちが嘘だとは思わないが、そこには恐れや不安がなかった。

 碧旋は、夏瑚が傷つくとわかっていても、敢えて実行したのだ。

 夏瑚は役目を終えた、手巾を手に取った。広げてみると、夏瑚が刺繍した沙羅の木の葉は、一枚だけ残っていた。一番小さい真ん中の葉だ。あとの二枚は、針目を残して引き抜かれていた。

 「全部、抜いたほうが簡単だったでしょうに」思わず言葉が零れる。


 糸を欲しがったのは、きっと調べるためなのだろう。

 珍しい色味の糸は、父の夏財にとっては商売上の武器だが、貴族にとっては王族に献上した羅州侯のように、示威行動の源となる。羅州侯が献上し、今後社交上で活用していけば、他の貴族たちはそれに対応していかなければならなくなる。自分たちの権力や財力を示すような何かをもたらさなければ、後れを取ることになるのだ。


 この糸は何でできているのか、何で染められているのか、どこで手に入るのか、いくら出せば手に入るのか。誰から、誰を動かせば手に入るのか。

 糸はその大きな手がかりだ。

 だから糸を欲しがる人がいることは予想済みだ。

 碧旋は真正面から夏瑚に頼んだ。その態度は少々意外だった。まっとうに頼まれると、嫌とは言いづらい。己の狭量さを示すことになる。


 それで夏瑚は刺繍をしたのだ。

 頼まれたことを、頼まれたこと以上に手間をかけることによって、一見短いちょっと珍しいだけの糸を、贈り物にふさわしい品に変えた。贈られたら、数回は贈り主の前で使っているところを見せるもの、というのが理想的なお礼の表し方だ。だから、いずれ調べられるにしても、少しは時間が稼げるのでは、というのが夏瑚の計算だった。

 まさか渡した数時間後には解かれていたとは、自分の甘さを噛み締めるしかない。


 夏瑚自身も浅はかな計算だとは思っていたのだ。

 情報を渡したくないのであれば、きっぱりと断るべきだった。多少外聞は悪いかもしれないが、筋を通すことはできた。碧旋とは論科で組んだというだけで、知人でしかない。断ったとしてもそれで即座に敵対するわけではないだろう。


 夏瑚のなかに、碧旋に嫌われたくない、という気持ちがあったのだと思う。だから断れなかった。

 仕方がない。こうなることは予想はしていた。碧旋にもそうしなければならない理由があったのだろう。

 夏瑚は最後に残った一葉を指先で撫でた。そして手巾を丁寧に畳む。

 手巾を手にしたまま、夏瑚は向きを変えようとした。すると片膝をついていた碧旋が立ち上がり、夏瑚の手に自分の左手を置いた。夏瑚が碧旋を見ると、すぐ近くに顔があって、思わずたじろいだ。

 近くで見ると、その瞳は、濃い蜂蜜のように見えた。透き通ってさらりとしているように思えて、近づくと絡めとられそうだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ