畿州への旅1
昇陽王子は薄い紐で綴じた冊子を正学生に一冊ずつ配り、それぞれ準備があるだろうからと早々に解散を告げた。相談がある場合は応じると言う。
夏瑚はまず戻ってこない劉慎と打ち合わせが必要だ。それから荷造りをしなければならない。配られた冊子に目を通すと、どうやら畿州の集落のより具体的な資料のようだ。
「夏瑚殿。せっかくお目に掛けたいからくりがあったのですが、旅の準備をせねばなりませんね。後日に改めましょう」盛墨が寄ってきて、力のない様子で言う。「碧旋殿もそれでよろしいですか」と盛墨が振り返ると、碧旋は「その件はそれでいいけれど」と答えながら夏瑚に近づいてきた。「別件で夏瑚殿にお願いがある」
「なんでしょうか」心当たりのない夏瑚は小首を傾げる。劉慎に安請け合いをするなと、後で注意されそうな内容でないことを祈る。
「王女殿下に見事な長着を贈ったと聞いた」何を言うのかと思って身構えていたが、ちょっと予想が外れた。今まで碧旋は無造作な格好が多かった。お茶会の授業では、それなりの格好をしていたが、あれは顧侯子が用意したのだろう。本人はあまり着飾ることに興味はなさそうだと思っていたのだが。
「あれは私の実父が王家に献上したものです。海の向こうから来た船と海上で取引して手に入れた物と聞いております」
「珍しい色味だった」
確かに、明月王子は剣術の授業のときにその長着を着ていた。鮮やかな緑はとても目立っていた。
「同じ物はない?」「申し訳なく存じます。あれはとても貴重なもので」「それはそうだろうね」
嘘偽りなく、あの長着はまだ一枚しかない。夏財は布を数枚と、同じ色の糸を二貫手に入れたと聞いている。布も素材が綿や羊毛の物もあり、絹は二枚しかなかったらしい。そのうちの一枚に、一流の職人を雇って刺繡をさせた。次に羊毛の布を加工しているところだそうだ。生地は一色で染められているだけなので、加工が必要なのだ。
「初めて会った日にも、緑色の刺繍をした長着を着ていなかったか?」「仰る通りです。布は私でも無理だったので、糸だけを手に入れまして、侍女と一緒に刺繍したのです」
「では、その糸を少しくれないか?手首を二巻きする程度でいい」碧旋の言葉はさらに意外なものだった。その程度なら、刺繍のあまりでじゅうぶんにある。しかしそれっぽちでは、ごく小さな刺繍でさえできないだろう。一体何の目的で糸を欲しているのか?
碧旋はそれ以上は言わず、じっと夏瑚の反応を待った。
夏瑚も碧旋が理由を明かすのを待った。しかし碧旋はしばらくして夏瑚も自分の返答をを待っていることに気づいたのか、にっこり笑って「考えておいてくれ。それではまた明日」と踵を返して去っていった。
理由を明かすつもりはないのだ。それくらいの量、大したことではないし、手元にはある。刺繍をする過程で切ったりしてそれくらい捨ててしまっても不思議はない量だが、それだけに何をするつもりなのか不思議だったから、劉慎にも姫祥にも伝えた。
「探すつもりなのでは?」と言うのが劉慎の意見だった。懇意にしている商会に見本となる糸を渡して探させる、もしくは作れる職人を探させるのではないか、と言う。「珍しい商品を手に入れられる商人を抱えていることは、貴族としての有能さにつながるからな。夏財殿を謁見に同行してもらったのも、そう言う意味合いからだ」
「罠に使われるんでは?」というのが姫祥だ。
「きっととんでもないものを盗み出すとか、王族の暗殺とか、考えているんですよ!そこにあの糸を落としておいて、お嬢様が犯人だ!って、むぐっ」講談の見過ぎか、妄想をまくしたてる姫祥を夏瑚は急いで背後から押さえつける。
「それだったら、もっとこっそり糸を入手しないとね。それにそういう事件を起こす必要性が見当たらないし」「だったら、劉慎様の意見が妥当ですかね。詰まりませんが」
夏瑚も考えてみたが、碧旋の狙いは思いつかなかった。「推理ごっこはそれまでに。明朝出発と言う非常識な行軍に参加するなら、さっさと準備にかかりませんと」姫祥が怖い顔になって急かす。姫祥の言う通りだ。夏瑚は大きく息をつき、劉慎と相談しながら、姫祥たちに指示を出し、荷物をまとめ始めた。
およそ女性らしくない碧旋には負けそうだが、夏瑚ももともと平民だけあって、質素で動きやすい服装にはそれなりに馴染みがある。抵抗感は少ない。学園で馬術の授業を受けるために持ってきた乗馬用服一式二組、それに王都で街歩きをする機会があるかもしれないとひそかに期待して持参した短着に下穿、肩掛の組み合わせ二組。平民でも寒い日の多い北方の人たちは長着を着るが、南の海に近いあたりは、男性なら下穿だけ、女性ならさらに短い丈の上着を着ることが多い。下穿きでなく腰布のことも多い。その方が風通しが良くて涼しいが、大股で歩いたり走ったりするには向いていない。
当然下穿のほうが動きやすい。薄手の肩掛は、体温調節がしやすいし、短着だけの気軽さを覆い隠すこともできる。何より、長着よりも安いのだ。汚しても気楽だし、くつろげる。久しぶりに大手を振って動きやすくて気楽な格好ができそうだ。