聖母と学園のあれこれ2
さて、現在王宮に住まう王族の人数を思い浮かべ、それに仕える住み込みの人のことまで勘定してみようとして、うとうとと眠気に誘われていた夏瑚だったが。
再びはっと目を覚ました。
従者や侍女の寝台には天蓋がついていないことに気づいたからではない。
そもそも先刻目が覚めたのは何故だった?
そう、物音がしたから、だ。
夏瑚はさらりとした手触りの上掛けを強く握り締めた。
風の立てる音だろうか?日中は日差しが眩しい季節だが、乾燥しているので夜はそこそこ冷え込む。そのため、窓は閉めてある。でも、隙間が空いていただろうか?それとも、窓の外の庭木が揺れる葉で鳴らす音だったのだろうか?
いや、これはそれとは違って、もっとこう…人の泣き声のような…
夏瑚の叫び声は、飛び込んできた姫祥に殴られるまで続いた。
「何も殴ることないのにぃ」夏瑚は額を撫でながら、膨れっ面で言った。
「それは申し訳ございません」姫祥は無表情ですらりと言い切り、温かい羹の器を夏瑚の前に差し出した。
夏瑚は笑顔になって「さ、食べましょう。姫祥も座って」夏瑚が蒲で編んだ座布団を軽く叩く。「貴人は従者とは食事を共にしないものでしょう」と返されるも、「いいじゃない。誰も見てないし。第一あたしは貴人でなくて、似非なんだから。一人で食べる食事より、不愛想でも誰かと食べたほうがおいしいのよ。おいしく食べるためには手段は選ばないわよ!」と力説で返すと、「不愛想で申し訳ございませんね」とそっぽを向かれた。
しばらくぐずぐずご機嫌を取って、ようやく二人で朝食をとることができた。今日の朝食は羹、餅、焼豚を薄く切ったもの、茹で卵、葉物野菜の和え物、根菜の炒め物に、芭蕉果だ。
食事の内容としては実家と同じようなものだ。それに喜んでいると、「授業がない日の食事は、皆様朝食はおとりにならず、昼食を時間をかけてお召し上がりになるそうです。厨房の見習いに毎朝同じ時間に朝食をとるのかと、何度も聞かれました」と姫祥が言う。
「休日だって同じ時間に目が覚めるし、起きたら腹ぺこなんだから、朝食は欠かせないよ。昼までなんて無理!」と言いつつ、夏瑚は首を傾げる。もしかして自分の朝食のためだけに、料理人に余計な労働を強いているのだろうか。時間外労働?勤務は交代制だろうか?それくらいなら、自分でちゃっちゃと作るのだが。しかし、私室には浴室はあっても厨房設備はない。大理石の床の上では火も使えない。
「なにかろくでもないことを考えないでください」姫祥はぴしりと言い切る。なぜわかった。それほど長い付き合いでもないのに。恐るべし。
姫祥と知り合ったのは一年ほど前だ。
いよいよ夏瑚の学園入学を視野に入れて父の夏財が準備を始めた頃に、世話になっていた寺院から紹介された。
娼館に売り飛ばされた孤児の中にいたと言う。母一人子一人で暮らしていたが、病弱だった母が亡くなった。一人になったが小学は終えており、前々から治療院で見習いをする相談をしていたため、そこで働く心づもりだったそうだが、姫祥の六感に目を付けた連中に誘拐同然に騙され連れ去られた。
寺院の尼僧は前から姫祥のことをよく知っていて、そういう危険性があることも予期していた。
姫祥と母親の暮らしが平穏に営まれている間は静観していた。夏財が姫祥のような人間を探していることも知ってはいたが、姫祥たちの希望とは違っていたため、斡旋はしなかった。姫祥が危機に陥ったと知って、夏財に助けを求めた。
そうして姫祥は夏瑚のお付きとなった。一年の間に、姫祥も中学に通い、お付きとしての経験を積んだ。もちろんまだ不十分だ。夏瑚との仲も気心が知れたとまではいかない。姫祥のもともとの希望と現在のあり方とはかけ離れているのだろう。
他に適任者がいなかったため、夏瑚も申し訳なく思ったがついてきてもらった。
けれど今期入学するように命じられたのだから、別の人間を探すこともできなかった。
学園では、基本的な食事や洗濯、掃除などは王宮で雇われている寮人がやってくれることになっている。それ以外に自分の従者などを数人伴うことができる。数人という規定なので、十人は超えないように配慮するそうだ。身の回りの世話をしてくれる者、秘書や側近、護衛などを担ってもらう者たち。
そこに一つの抜け道がある。
夏瑚が学園に伴ってきたのは、姫祥を除くと、姫祥が休みの時に世話をしてくれ姫祥の指導もしてくれる古参の侍女の班南、側近の劉慎、劉慎の従者二人に護衛が三人だ。そのうち、夏瑚の父が選んだのは姫祥ただ一人。それ以外は、劉慎の父である羅州侯が夏瑚の随行者として派遣したのだ。
そう、豪商とはいえ、貴族出身者ではない夏瑚が学園にいるのは、羅州侯の養子となったためである。
貴族の中でも『聖母』は珍しく、どこかの家で『聖母』が誕生したとなると、側室を娶らずとも健康な跡継ぎに恵まれるとあって、縁談が殺到するほどだ。
側室も愛人も貴族なら何人いても問題ないだろうと思われるかもしれないが、内実は案外火の車だったりするものだ。
それに側室や愛人の存在はやはり家庭内の火種になり、陰惨な事件に繋がることもある。だから『聖母』は歓迎されたが、貴族社会の中では数年ごとに一人生まれるか否かくらいの確率であり、結婚したくとも自分と釣り合う年齢の『聖母』が存在するとは限らない。