炎上2
夏瑚は西棟の奥に扉を見つけて小走りに近づいた。掛け金は内側から掛けるだけの簡易な鍵で、夏瑚は扉を素早く押し開けた。
扉は少し動いただけで止まってしまった。夏瑚が力を入れると、がさがさ音がする。何の音か確かめようとしたところで、姫祥たちがやって来た。
「裏口を見つけたんですね」姫祥がほっとしたように言った。
「開かないのか?」夏瑚に代わって顧敬がぐいと扉を押すと、大きな音がして、空間が大きく開いた。
「なるほど、枝がつっかえていたのね」と夏瑚は扉が折ったらしい枝を見つけた。皮で繋がって垂れ下がっている。
建物に木々が迫って生えていたのだ。建物と木々の間は人一人がようやく通れる程度しかない。木々は建物の屋根よりも高い。夏瑚たちがいた東棟は窓から見る限りそこまで周囲に木が生えていなかったと思う。玄関周りはずっと拓けていた。
「とりあえずこちらへ向かいましょう」玄関とは反対の方向へ向かう。
並んで歩けないので、前後から程元と手をつなぎ、ゆっくりと進む。幸い火の気配はない。
これだけの木々に囲まれていると日の光も遮られて薄暗い。
生木には容易に着火しないはずだ。特に銀杏の木が所々に見えるから、この林は燃えにくさを意識して植えられたものかもしれない。自分にそう言い聞かせ、姫祥たちにも話してやる。「だからこの道は安全よ。焦らないで大丈夫」
支所の建物をぐるりと囲んだ形のその細い道は、やがて建物から離れ、両側を林に囲まれるようになる。かなり樹高のある木々に遮られ、周囲の様子がわからない。空を見上げても、煙は見えないから、それほどの火勢にはなっていないのかもしれない。
この道はどこまで続くのだろう。火から離れようと進んだのだけれど、行く先が不安になってきたころ、行く手に一本の大木が現われた。
それは他の木々よりも明らかに太い。しかしそれ以上に一枚も葉をつけていないことが目立つ。細い通路はその枯死した幹に塞がれていた。
「行き止まりか。まずいな」顧敬が焦った様子で呟く。「引き返そう。森の中へ抜けるのは、木が密集しているから難しいです」
夏瑚はそれには答えずに、その大木に近づいて行く。「これは、女神の木?」と夏瑚は言い、振り返って程元を手招きした。
先ほどまでよろめいていた程元は、不思議そうに「女神の木ですか?まさか」と首を傾げるものの、気を取り直したのか、だいぶ落ち着いた足取りになっている。
「女神の木?」顧敬はなぜそんなことを言いだしたのか、夏瑚の思惑がわからない。顧敬にはそのように呼ばれている木には心当たりがない。
顧敬も人並みには神々を祀る習慣は持っているし、女神の名前などもいくつかは見知っている。しかし基本的には男性が重んじるのは男神である。女神を祀るのは大体が女性だった。
それに女神が司るとされているのは、補助的な役割が多い。例えば生死を司るのは司馬であるが、女神たちは天然痘を司る女神や薬師に助力する女神など、特定の分野や物を司る。
神々はそれぞれ特有の事物や象徴的な草木、従者としての獣などを有している。女神の木、ということは、何かの女神の象徴である木なのだろう。
それ自体は信心深いことで、所縁の木を植えた人物がいたということだし、女主族らしいことで不自然ではない。ただ、今火事から逃げようとしているこの時に話題にすることではないだろう。
夏瑚は顧敬の不審そうな様子に、どう説明したものかと考えた。
姫祥もはっきりとは知らないようで、あいまいな表情だ。しかし夏瑚を信頼してくれているのか、黙ったままついてきて、程元の手を取り支えている。
女神の木の前は、少しだけ広くなっている。何とか数人並べるほどの幅だ。
夏瑚は手巾を地面に広げ、程元を座らせた。「ここで少し休みましょう」
「大丈夫か?」顧敬は夏瑚に近づいて、低い声で囁いた。「逃げたほうがいいのでは」
「この辺りの木々は、簡単に燃えない種類の木です」夏瑚は周囲を見回して言う。「それにこの薮の中を進むのは難しい。あなただけならともかく、程元を連れてはいけません」
「しかし」「下手に迷うよりもここにいたほうが、碧旋とも合流できると思います」と夏瑚は言いきり、自分も程元の隣に腰を下ろす。「休憩して、体力を温存しておいたほうがいいですよ」と勧めると、半信半疑ながら、顧敬も座り込む。
夏瑚は海州で、父の家の改修に立ち会ったことがある。そのとき、家の周囲を生垣で囲う話が出て、植木職人に、防火樹のことを教えてもらった。
生木は一般に燃えにくい。その中でも特に燃えにくい木がある。樹皮が分厚く、体内に水を多く含んだ品種の木々だ。銀杏や楠など、庭木や街路樹、広場や神殿に植えられる木なので、見覚えがあるものが多かった。
恐らくこの女神の木は楠の仲間だろう。太いのでかなりの樹齢で、一見枯れたように見える。
この女神の木は女性のとっての加護の印である。この知識は恐らく女性になった者にしか伝えられない。女性たちだけで秘匿している助け合いの印だ。だから顧敬は知らないし、余程のことがない限り明かしてはいけない。
 




