炎上1
その女性の声は切迫したものだった。
「どのあたりだ?」碧旋が問い返し、夏瑚に向かって部屋の反対側を指さして見せる。扉と反対の側にあるのは、窓だ。夏瑚は窓に駆け寄って、外を観察する。
窓からは火は見えない。夏瑚はもっと見ようと、半分ほど空いていた蔀戸を大きく押し開けた。開口部から身を乗り出すと、「危ないです!」と姫祥が叱るように言い、夏瑚の腕を掴んだ。
「掴んでいて!」ちょうどいいとばかり、夏瑚は姫祥に支えられて思い切り身を乗り出す。
ぐるりと見まわす。この部屋の上、屋根も見ることができる。この屋根には火は付いていないようだ。
「あ!」
こうやって見ると、この部屋は支所の玄関から南に向かって進んだ奥にあることがよくわかる。支所の建物は釘のような形で、玄関に当たる部分が釘の先端、奥が小さく左右に張り出している。翼棟と言うほどの規模ではない。張り出した部分にこの小さな部屋がある。
それで大きく身を乗り出せば玄関の方が見えるのだが、玄関先の屋根の上空に、薄い煙が見えるのだ。
この部屋からはある程度距離があるし、火もまだまだ小さそうだ。逃げる余裕はありそうだと思っていると、煙の位置より数尺離れた屋根の上に、小さな灯りが点ったように見えた。それは一見蝋燭のささやかな炎に似て見えたけれど、部屋の中の燭台の火ではなく、数丈離れたところの火なのだから、小さく見えてもそうではないのだ。
「玄関の辺りの屋根に火が燃えています、すぐに離れましょう」
夏瑚はなるべく落ち着いた声になるように気を付けた。慌てると危険である。
碧旋は気にしなくてよい。夏瑚よりよほど危険に対処できるだろうから。
顧敬も男性化しているので、力も強いし足も速い。剣術や体術などの心得もあると聞いている。嫡男としての教育を受けているので、夏瑚が庇う必要はない。
姫祥は夏瑚の侍女なので守ってあげなくてはならないが、実のところ完全に女性である夏瑚に比べて、男性化する可能性がある姫祥のほうが力は強かったりするのだ。
姫祥は既に程元を抱え起こしている。
碧旋の姿はなく、恐らく情報収集と消火に向かったのだろう。
夏瑚は顧敬を振り返り、「逃げましょう」と声を掛けた。「ああ」顧敬は頷き、四人は部屋から廊下へ出た。
玄関へ戻るのは火に近づくことになるから、裏口があればそちらの方が良い。「裏口はありますか?」程元に聞くと「あったと思います」と弱い声で応じる。
「顧敬様、少し辺りを見てきます」夏瑚は裾を持ち上げて、走り出す。行儀は悪いが今は気にしている時ではない。
この短い廊下の終点には小さな扉があったが、開けてみると脚立や家具などがしまわれた物置だった。
夏瑚は急いで引き返しながら、この部屋へ来るまでの経路を思い返した。
途中、明らかな裏口は見当たらなかった。あったとしても、他の部屋の扉と同じような扉だったということだ。もしかしたら、どこかの部屋の奥に裏口が設えられているかもしれない。
裏口でなくとも、掃き出し窓のある部屋があるかもしれない。最悪の場合、どこかの窓から逃げ出すのでもよい。
ここまで燃え広がるのにまだ猶予があると思うが、さらに火の玉が飛んでくる可能性もある。程元は機敏に動けないだろうし、すべての部屋を見るよりは窓からでも建物から退避することを選ぶと決め、夏瑚は反対側の棟だけを覗いてから決めることにした。
顧敬には自分のこれからの行動を説明した。碧旋は戻ってくるかわからないので、顧敬には自分たちと行動を共にしてもらいたい。顧敬はすぐ承知して、「指示に従う」と言ってくれた。
侯爵家の嫡男としては大丈夫だろうか、と思わなくもない。これが両王子だとか、一応軍の経験者である盛容のような人間の指示ならともかく、年下の元平民の女性の指示にあっさりと従うのは驚きだ。
しかし、考えようによってはとても柔軟な姿勢だとも言える。
夏瑚もこういう時にどう行動すべきかわかっているとは言い難い。それは顧敬も同じなのだろう。それでもばらばらになったり、揉めたり、怯えたりするよりも、一緒にいてなるべく平静を保って行動する方が良いと言う考え方が同じなのだろうと思う。何が正解かはわからないながらも、全員で同じ行動をするには指揮系統は統一されている方が良い。
顧敬からすると、自分が指示してもいいのだが、自分があまり夏瑚たちに信頼されていないだろうと判断していた。
夏瑚との出会いは正直なところ憶えていない。その頃の顧敬は妙な焦燥感でいっぱいで、碧旋を排除することしか考えていなかった。
落ち着いてみるとなかなかの美人で、淑やかで頭もよさそうな人だ。しかし好みではないのか、はたまた夏瑚が警戒して壁があるせいか、特に接点もなくここまできた。
みっともない姿しかさらしていない。その思いがあるから信頼関係もない。だから自分が指示するよりは夏瑚の判断に従った方がうまく運ぶだろう。あまりにも的外れだと思ったら流石に制止するが、自分もそれほど危機に強いわけでもない。
程元も、自分のことを頼らなさそうだ。顧家に対する引け目があるだろうし、女性同士ということもあって、先ほどから夏瑚とその侍女とばかり話をしているのだから。
それでもいざとなれば、3人全員まとめて担ぎ上げてでも無事に脱出してみせる。顧家の面子にかけても、3人を守ることを顧敬は決意していた。




