聖母ともう一人の養子5
碧旋の言葉を受けて、顧敬は早速鳥を飛ばしたらしい。王宮には伝令のために多くの鳥が飼われており、学生も利用することができる。孔州までは往復でも一日あれば十分だろう。
翌朝、夏瑚たちが朝食を取っていると、廊下の護衛から声がかかった。姫祥が出て行くと、廊下に顧敬の顔が見えた。強張った表情をしている。
姫祥がぷりぷりしながら戻ってきて、「夏瑚様にお会いになりたいそうですよ。まったく、こんな朝早く」と告げる。
朝早いのはまあいいとしても、これは完全に厄介事に巻き込まれたなあ、と思う。
碧旋のことは嫌いではない。結構面白い人だと思う。劉慎は気に入らないらしいが、これは碧旋を夏瑚の競争相手だと考えているからだろう。ともに侯爵家の養子で、人脈を作るために送り込まれてきたのだから。
碧旋自身はそのつもりはないらしいが、あの乗月王子の態度を見れば、早くも成果を上げつつあるようだ。
「仕方ない、貸しとしておけ」劉慎の渋い顔を見ながら、最後の凝乳を平らげる。一応、急いでいるつもりだが、朝食はきちんと食べないと授業中に腹が鳴って恥をかく。手を洗っていると、姫祥が髪の乱れを確認し、簪を挿してくれた。
姫祥が卓の食器を片付け終わると、劉慎の従者の一人が扉を開け、顧敬を通した。「お待たせしたな」劉慎が拱手しながら謝ると、顧敬は戸口で立ち止まってきちんと返礼した。「無礼にも朝早く押し掛けたこちらが悪いのだ。応じていただき、感謝する」「用件は」
顧敬を戸口に立たせたまま、さっさと用を聞き出そうとする劉慎に、「お兄様。顧敬様。お茶をご一緒にいかがですか」と夏瑚は声を掛けた。
「いや、お気遣いだけで」顧敬が手を振り、「厄介事を持ってきた客人をももてなそうとは、我が妹の心は清らかだ」劉慎は嫌味たっぷりに言う。
そうではないです、ただ自分一人でお茶を飲むのが気まずいだけです。内心の呟きは、なぜか姫祥にだけ聞こえたようで、睨まれる。
「その通りだが、ご面倒をおかけするのが、その清らかな夏瑚殿なのが我が僥倖というもの」顧敬は深々と頭を下げる。「顔上げてください」「夏瑚殿のお手を煩わせるのだから、頭を下げるのは当然です」へりくだりつつ、さらっともう夏瑚に厄介事を押し付けることが決まっている。まあ、その厄介事とは碧旋のことだろう。
ようは、碧旋についていて欲しいということだった。
戻ってきた鳥が届けた侯爵の手紙は、顧敬にとっては納得のいかないものだったらしい。
孔州は王都の北側にあり、直線距離ならば近いが、王都に流れ込む矢矛川のせいでかなり迂回しなければならない。乾期なら小舟を雇ってどこでも渡ることができるが、雨期明けのこの時期は、渡る場所を選ぶ。
顧敬は二人の従者とともに帰宅することにした。そのため、侍女が三人、護衛が二人残ることになる。学園は安全なので、碧旋が大人しく待っていてくれれば足りるはずだ。しかし見張るには不安な人員である。また碧旋が抜け出すようなことがあっては困るのだ。
「父とも納得がいくまで話し合うつもりだ。その結果を持って、碧旋とも向き合う。前のように逃げ出されては困る」
「碧旋様が逃げ出されましたか?」夏瑚は、顧敬が話し合うとか向き合うとか言っているものの、自分の考えが真っ当だと疑っていないことを感じ取って、わざと質問する。「あの者はすぐ行方をくらますのだ。学園に来てからでさえ、何度かいなくなっている。一晩戻ってこなかったことは、我らが騒いだゆえ、夏瑚殿のお耳にも入っているだろう」
「伺っています」姫祥が渋い表情になっているのが目に入るが、つるっと言ってしまう。「ですが、いいではありませんか。学園内からはお出になっていらっしゃいませんもの」ころころと笑ってやる。別に碧旋の味方をする理由なんか、ないのだけれど。ちょっと興奮している顧敬の頭を冷やしてやりたいのだ。
「しかし、学園中を探したのだ。寮人も動員した。我らだけならばともかく、学園に何年もいる寮人でも見つけ出せなかった」
学園は夏瑚のような庶民にとっては広いが、劉慎たちのような貴族にとってはそれほどではないのだろう。しかし、初代王から数回の増築を経た学園は、決してわかりやすい構造をしていない。物陰はそこここにある。大人であっても、膝を抱えて蹲れば目立たずに済みそうだ。
それに、碧旋は成人ではないものの、馬鹿ではない。平民出身の学園の正学生なら、貴族の令息などよりも余程しっかりしているはずだ。貴族の常識には疎くても、規則を守らないことの不利益は理解しているだろう。せっかく入学したのに、それをこんな短期間でふいにするような行動をするとは思えない。それに。
「碧旋様は楽器をお持ちになったとお聞きしました」顧敬は一瞬何を言われたのかわからなかったらしい。ぽかんとしていたが、やがて肯定した。「あの者の養父の形見ということで、送られてきたものだ」そういうものを渡さなかったのはいかにもまずかった。そんなことをすれば、さらに相手の態度が硬化することは容易に予想がつく。
「私、その晩に音を聞いております。真夜中から明四刻頃まで弓弦の音が流れ続けていましたわ」