聖母ともう一人の養子2
気を取り直して、講師の話に意識を向ける。
碧旋たちの関係性も気にはなるが、今は授業中だ。
夏瑚は学園に入るためにかなり努力した。それ以上に父親は尽力してくれた。
世間では、なんと言われているかは知っている。一代で名うての商人となった父は、さらに高みを目指して、娘を侯爵家に売った、と。
でも、それは違う。
父は、夏瑚を守るために、侯爵家に行かせたのだ。
気を引き締めて講師の言葉に耳を澄ませていると、碧旋も講師のほうへ向き直った。ちゃんと授業を受ける気になったらしい。概要の説明が終わり、いよいよ実技へと移るときも、指示された通りに鈴を身に着け、体をほぐし始めた。真面目な一面もあるようだ。
体を伸ばし、関節を回した後、講師の助手がまず見本を踊ることになった。「今日の課題は、豊穣の踊りです。まずは音楽と振り付けを覚えてください。始めに通しで踊り、その後一節一節区切って進めていきます。一通り済んだら、あなた方にも踊ってもらいますので、そのつもりで」
踊ることになると告げられたので、夏瑚は姫祥を手招きした。姫祥は素早く近づいてきた。「髪飾りを」夏瑚が言うと、姫祥は夏瑚の簪を抜いた。繊細な金細工の簪には、細かな金鎖が数本垂れさがっていて、鈴と同じように鳴る物だった。
「髪飾りを外す必要があるのか?」碧旋が不思議そうに聞く。
「碧旋様は舞踏のことはあまりご存じないのですね」と夏瑚は応じる。「私もそれほど詳しいわけではないのですが」「碧旋で」ややぶっきらぼうに碧旋は呟く。「敬語も要らない」
王子は「旋」だったが、そこの違いはなんだろう。「じゃ、碧旋。あなたの髪もくくったほうがいいわよ。かなり乱れるから。姫祥」
碧旋には侍女がいないので、姫祥を呼ぶ。姫祥は提げていた化粧箱を卓に置き、布に包んだ髪飾りを収納していたが、赤い革ひもを一本手に取り、「失礼いたします」と断ってから、碧旋の髪に手をやる。
姫祥の手が、軽く碧旋の髪を撫でつけ、一まとめにして結わえていく。碧旋はまとめられた髪を確かめるように触ってから、姫祥に礼を言った。
「ありがとう、姫祥」夏瑚がそう言ったのは、本来必要はない言葉だった。碧旋が姫祥に礼を言ったのだからそれで終わりなのだが、そこで会釈の一つでもして壁際にさがるはずの姫祥がぼんやり立ち尽くしているから、声を掛けたのだ。
「とんでもございません」姫祥は頭を下げ、壁のほうへ寄って行った。
夏瑚は集中して手本を見ていたので、一度見ただけで振り付けを飲み込んだ。
豊穣の踊りは、大勢の巫女たちで賑やかに踊るものだということは、今日の授業で初めて知った。
収穫の時期に祭りがあるのは知っていたが、偉華は北部は麦や芋、南部は米が主な穀物となっていて、地域によって収穫祭の時期も異なる。夏瑚の住んでいた海州は南部に属し、米の生産が主で年に二回の収穫期があった。その度に祭り自体はある。農民ではない夏家では出店や出し物を見に行く程度で、寺院などの祈祷には参加したことがない。
偉華は宗教には寛容だが、実質聖別院とその分派の洗礼派寺院が大きな力を持っている。当然、王家でも重要視するのはその二つだ。だから、貴族たちが身に着けようとするのは聖別院の舞踏だ。
生来の貴族の令嬢がどの程度の頻度で寺院に赴くのか、何歳から舞踏を嗜むものかは知らない。平民でも、状況によってはまめに寺院へ通う人もいるだろう。しかし夏瑚は近所の小さな祠くらいしか知らずに育った。巫女を見たこともなかった。
寺院に初めて行ったのが、母親の葬儀。
侯爵家の養子になるまで、舞踏の素養もほとんどなかった。寺院などの行事ごとに、様々な舞踊があることは知識として知っていた。収穫に感謝するもの、豊穣を祈るものがそれぞれいくつか存在していて、規模や地域、場合によって異なる振り付けと音楽で実施されているということだった。
夏瑚たちは、まず一人ずつ、振り付けを確認しながら踊ってみる。講師と助手は室内を移動し、間違いを正し、修正を加えていく。
「一度で振り付けを覚えたのね。素晴らしい。では、音楽に乗ることを意識して」講師に褒められ、夏瑚はますます嬉しくなった。慌てて緩む頬を押さえる。いけないけない、調子に乗ると碌なことはないのだ。
でも、拍子に乗るのはいいだろう。自分の動きと小太鼓の高い音が、ぴたりと合った時の気持ちよさは癖になる。
碧旋が動くのを、講師が厳しい視線で追う。受講を辞めたいなどと言うから、心証を害したのだろう。ちょっと気の毒に思いながらも、今頃言い出す無礼さを考えると、講師の態度も無理はなかった。
いくつか小言を言われたが、夏瑚が見たところ、碧旋の動きは悪くない。
「直線的に動きすぎです。剣術の動きとは違いますよ。効率的に動くのではなく、動きで表現するのです。舞踏は祈りなのですから」
碧旋は小首を傾げて、講師の話を聞いていた。
夏瑚にも耳の痛い話だ。祈りなどとは考えていなかった。ただ、自分の体が思う通りに動くことを喜び、拍子をとることを面白がっているだけだ。
「祈りの気持ちまで行かなくとも、収穫の喜びを表現しなさい」
講師が移動した後、夏瑚は碧旋に近づいた。「難しい」「そんなことないわ。上手だったわよ」
碧旋の動きは、見本に忠実だった。よくあそこまで再現できたものだ。跳躍の高さや手足の伸ばし方など、見本の通りだった。剣術の型というものは、そういうものなのかな、と思った。