聖母ともう一人の養子1
もっとも、そこを直すべきかと言うと、必ずしも夏瑚はそう考えてはいない。一人の人間を理解するのに、ある程度自由な見方で検証するのは有効だろう。ただ、他人に聞かれる恐れがあるところでは口にしないように言っているのだが、ぽろりと零してしまう。
都度都度注意していくしかないのだろう。本人が痛い目を見れば気を付けるだろうが、こちらも巻き込まれる危険がある。事前にうまく躾ける自信のない夏瑚は、半ば巻き込まれる覚悟をしておくしかない。
舞踏の授業が行われるのは、大広間だ。窓から射しこむ光に足取りは、軽い。
大広間に通ずる廊下の向こう、大扉の前に佇む人影を見て、途端に足が重くなる。
足音にこちらに向いた人影は、顧敬だった。一瞬期待に満ちた表情になったが、夏瑚だとわかると表情が沈んだ。理由はわかる。まだ見つかっていないのだろう。
「顧碧旋様は、舞踏の授業を選択なさっているのですね」挨拶の後、そう言うと、顧敬は頷いてうなだれてしまった。
顧敬を一人残して広間に入るのは躊躇われた。だが、遅刻するわけにもいかない。「授業を見学なさいますか?」「…ここでしばらく待ちます」「そうですか」
姫祥が扉を開けて夏瑚を通そうと脇に控えた。戸口を通ろうとしたとき、話し声がした。肩越しに視線を投げると、三人連れ立って近づいてくる。「顧碧旋様、乗月王子殿下、扶奏様です」姫祥がこっそり囁いた。
「顧侯子」乗月王子が軽く片手を挙げ、呼びかけた。顧敬が急いで礼の姿勢を取る。夏瑚も踵を返して同じ姿勢を取り、姫祥は跪く。「劉夏瑚侯子。今から舞踏の授業か?」「はい。殿下はどうしてこちらに?」「見学を希望していてね。敬称はもういいよ。論科で一年一緒になるのだし、敬称があると煩わしい。昇陽も同じことを言うはずだ」「ありがたく存じます。では、私は夏瑚、で結構です」乗月はふわりと笑った。「助かる、正直なところ、君たちの名前は長い」
乗月は碧旋に向き直り、「旋は先に夏瑚と中に入って。私は顧侯子と話がある」と言う。
名だけを呼んでいることにも驚くが、王子が顧家の事情に介入するつもりなのか、と息を吞む。
「あんたが言うと強制になるだろう。止めて」碧旋の言い草も噴飯ものだ。二人の背後で、扶奏が目を剥いている。
「わかった。では、一足先に広間に入る。講師殿に見学の許可をいただかねば」乗月は朗らかに承諾し、夏瑚に向かって入室を促した。
さすがに直接介入するのは本気ではなかったのだろう。それでもあの一言で、碧旋に肩入れしていることを示したのだから、これほど強い後押しもそうそうないはずだ。どんな話が二人の間で交わされるかは知らないが、もはや勝負にはならない。
二人はすぐに入室し、王子はすぐに見学の許可を取って、壁際に引いた。
姫祥は講師から鈴を受け取って、夏瑚の両足首に着けた。実際の舞踏でも、種類によっては鈴をつけることもあるが、今日は足の動きや拍子のとり方の練習のために着けることになっていた。
今日は授業のために、下穿きは足首ですぼめた形のものを穿いている。上着は胸の下あたりまでの短いものだ。
時間ぎりぎりに碧旋と顧敬が入室した。二人は真っ直ぐに講師のところへ向かい、挨拶を交わした後、何やら話し始めた。
時刻が来たが、講師は渋い表情で二人と話をしている。何の話だろうか。しばらくして、講師が手を叩き、二人は口を閉じた。
「時間が過ぎましたので、始めます」切り口上で告げられ、顧敬は乗月王子の手招きに従って壁際に退いた。
碧旋は夏瑚のところまでやってきて、「受講を取りやめたいと頼んだんだが、駄目だった。まあ、失礼な話だから、仕方ない」と肩を竦めた。「碧旋様のご希望ではなかったのですか?」「顧侯子が手続きしてしまってね。それも側近との意思疎通が十分でなかったこちらの落ち度だし。ただ、身を入れて授業を受けられるかどうか、自信がないな」
顧敬が舞踏の授業を受けさせたいのは理解できる。劉慎が夏瑚に受けさせたのと同じ理由だ。王族に嫁ぐのに、有利となるように、だ。
碧旋の態度はどうもちぐはぐだ。侯爵家の養子となって学園に来る者は、侯爵家のために縁を繋ぐか、能力を磨いて力をつけるためだ。嫡子がおらず養子となった場合は、ふさわしい能力と身に着け、王家や有力者との繋ぎを得ることができれば、次期侯爵となる場合もある。孔州に顧敬がいる以上それはないだろう。確かに彼の行動を見ていると特別優秀と言うわけではなさそうだが、養子をとる程かどうかは疑問だ。夏瑚の目には彼が碧旋に振り回されて感情的になっているように見える。事前の情報では取り立てて問題があるようには聞いていないので、しばらくすれば落ち着くかも知れない。
それとも、廃嫡を狙って碧旋が仕向けているのか?
と言うより碧旋はそのあたりのことが理解できていないようだ。理解できないというより、そういう認識とはかけ離れたところで育ったのではないか。ごくごく普通の平民だったのでは?それなら砕けた態度もそれなりには説明がつく。
「どうでしょうか、庶民なら、こんな王族貴族がうじゃうじゃいるところ、怖気づいて、平伏しまくりそうなものですけど」姫祥がぼそっというので、それもそうか、と夏瑚は思い直す。