もう一人の侯子と養子のあれこれ3
寮人からの噂なので、細かい事情などはわからない。気にはなるけれど、夏瑚はいつものように朝食を有り難くいただく。
「外に出て行った根拠はあるのか?金品や荷物が無くなっているのか」「それはないようです。ですから外へは行っていないと考えて探されていたのに、全然見つからないので、身一つで出奔されたのかと不安になっていらっしゃるようです」「学園の区域はそれほど広くはない。ただ、内宮に入り込んでしまっていたら、また別の問題になってしまうな」
学園は王宮内にあるが、王宮は外宮と内宮に分かれていて、その外宮部分に存在する。外宮は各省庁などがあり、外部との接触が多いところだ。学園は外宮の一番内側、内宮に近い位置にあり、内宮に許可なく踏み込んでしまうのも問題となる。王族の住まいや機密を扱う部署が内宮だからだ。
「今日は少なくないか?食欲がないのか?」劉慎が夏瑚の皿を見て言った。「食欲はあります。ご心配なく、体調が悪いのではなく、今日は満腹だと動きにくいので、控えているのです」夏瑚が澄まして答える。「今日の予定は、舞踏の授業か。気合が入っているな」と劉慎が微笑む。夏瑚は大きくうなづいた。
「る、ですものね」横から姫祥が口を挟む。本来ならば給仕をしている侍女が、主人たちの会話に口を出すのはご法度だが、ここは公式の場でもないし、そもそも侍女に給仕をさせていることからして本来の業務ではないのだ。「前もそんなことを言っていたな。一体何なんだ?」
「おまじないです」夏瑚は姫祥を睨みながら答えた。「私を育ててくれた麻々という女性が、よく言っていたのです。嫌なことでも、このおまじないを言えばいいと」「言うとどんな効果があるんだ?」
「楽しく思えてくるおまじないです。嫌なことがちょっと好きになるんです」
夏瑚は前から踊るのが好きだったわけではない。むしろ避けていた。母の葬儀の日を思い出すから。
幼い頃はよく踊っていたらしい。母曰く「お遊戯」。身振り手振り、歌いながら飛んだり跳ねたり。結構やんちゃな子供だった。じっとしていることはあまり好きではなくて、体を動かすほうが好きなだけ。
母はいろんな歌、いろんな振りの踊りを教えてくれた。それらはよく覚えているが、大きくなってからは歌も踊りも止めた。
母が死んでしまったから。
葬儀の席で、久しぶりに父に会い、二人の異母兄に初めて会った。五歳の夏瑚は、父に正妻がいて、母は所謂妾だったことを知った。立派な息子が二人もいるのに、なぜ母を抱え込んだのか、いまだにわからない。
その葬儀で、巫女の一人が、鎮魂の踊りを舞ってくれた。それが正式な踊りを見た最初の記憶だ。静かで、緩やかで、でも指先まで力がこもっていることのわかる踊りだった。とても印象的だったが、それを思い出すと、その当時のいろんな気持ちが甦ってくるようで、だから踊りに関することは避けていた。夏財は一時、舞踏の講師を手配したが、夏瑚が無視し続けたため、諦めた。
学園に入学することが決まり、侯爵家に養子として出されることに決まり、侯爵家で舞踏の講師に紹介されたときに、いつの間にか過去の記憶とは切り離してその授業を受けることができるようになっていたと気付いた。母の葬儀から、それだけの時間が経っていたのだ。
その間に夏瑚は父と暮らすようになって、二人の異母兄ともちょくちょく会うようになった。記憶そのものは薄れてはいないが、その時に感じた自分の感情とその時に接したものとは、必ずしも関係ないことを体得していた。
まともに授業を受けるのは侯爵家が初めてだった。夏瑚は初めての授業を意外に楽しんだ。もともと体を動かすことは好きだったのだ。
初めてだから、講師が初心者向けに簡単な振り付けにしてくれ、大袈裟に褒めてくれたのだろうと思っていたが、最後の授業でも、「あなたには素質がありそうです。精進なさい」という別れの言葉をもらった。ありそう、なのでこれも希望的観測、もしくは励ましの意味も込めての言葉だったのかもしれない。しかし、その言葉に嬉しいと感じて、学園でも迷わず舞踏の教科を取り、授業を待ち望んでいる夏瑚がいるのは確かだ。
授業に向かう途中で、盛兄弟に行き会った。挨拶を交わしながら、盛墨の視線が定まらないのが気になった。時間に余裕を持って出てきたので、雑談をする暇はある。
「どうかなさいまして?」「いやあ、なんかわからんけどな」と盛容は苦笑する。盛墨は少し口を尖らせて、「だっておかしいものはおかしい。寸法が合わないんです」「寸法?」
盛墨は手を伸ばして廊下の端を示し、それから逆の端を指す。「ここの廊下の長さです。内側から見ると15丈と言うところですが、外側から見れば、2尺ほど長い」
促されるまま、外に出て、建物を眺める。古い時代の花崗岩で建てられた校舎だが、眺めるだけではわからないのが正直なところだ。建物は繋がっていて、廊下が終わるはずの場所は備品倉庫に接しているという。「巻尺が要るな」盛墨は一人頷いている。
「お嬢様、そろそろ、向かいませんと」姫祥が囁いてきて、夏瑚は二人に断ってその場を後にする。
「盛墨公子はこだわりが強いお方ですね」と姫祥が呟いているのが耳に入った。他人に聞かれれば無礼を咎められる物言いだが、姫祥のこういうところは治りそうにない。