碧旋の素性5
貴族と縁を繋ぐのは婚姻と変わらないが、娘が夫人となり孫が跡継ぎとなるよりも、自分の子供が跡継ぎになる方が有利だと思ったのかもしれない。とにかく縁は結ばれ、雷風は男爵家に入って跡継ぎとしての教育を受けることになった。
騎士の養成校に入学し、かなりの好成績を修めたことと、その養成校で寄宿している間に養母が亡くなり、卒業して程なく養父も亡くなった。
公的な記録としては、成人したての騎士見習いが男爵家の家督をうまくやり繰りできたかどうか、特に残っていない。ただ、領地は大きな災害には見舞われず、男爵家には借金はなかった。頼りになる親戚もいなかったが、揉めるような親戚もいなかった。
経験不足につけこむような輩も湧いて出たことだろうが、少なくとも公的に問題にはならなかった。問題を窺わせるのは、男爵家に雇われていた者たちが次々に解雇され、馬卒一人と料理も作る下女一人になってしまったことくらいだろう。
5年ほど経って、雷風は騎士に昇進し、手柄を一つ手柄を一つたてた。砂漠のほとりに潜んでいた盗賊団を捕らえたのだ。
その捕物に関わった数人が褒賞を与えられた。雷風はその際王から直接声を掛けられ、勲章を受けた。
それが雷風と王家との初めての接触だったのではないだろうか。
その3年後、それまで王家の直轄地だった銅鑼島が、雷風の領地となった。
これにはかなりの論議を呼んだようだ。
偉華では王とその諮問機関に権力が集中しているが、現王は独断専行する性格ではなく、基本的に議会や関係者にも広く意見を募ることを常としている。それを多くの貴族は歓迎している。
盛墨からすると、そのせいで後継者を巡る競争が起きつつあるので、善し悪しだと思う。それにいつでも意見を聞いて熟考できることばかりではない。
銅鑼島は難治の土地だ。
外交を一手に引き受ける土地だということが勿論一番大きい。外の地、他国の人間については情報が少ない。そういう相手に対し、舐められないように、時には交渉も行わなければならないし、敵対することも決断しなければならない。それこそ周りの意見を聞いて熟考して決められるわけではないのだ。
また、銅鑼島は麦や稲などの穀物の生育には不向きな土地だ。土は塩分を含むという話もある。海産物の資源はあれども、結界が邪魔でそれほど大きな産業にはなっていないと言う。
それにもう一つ、銅鑼島には流刑地だったという歴史がある。
今でも流刑という刑罰は存在する。死刑も奴隷刑も存在するので、それよりは軽い刑になる。結界の外に追い出すものと、南海の島や銅鑼島に追いやるものがあり、そのうちのどれになるかは罪や本人の資質を鑑みて決められる。
銅鑼島に追いやられるのは多くは知能犯だ。中には冤罪を疑われる者や、敵対する者に嵌められた者、罪は犯したが有能なのでほとぼりが冷めたら復帰できそうな者などが多い。
逆に言えば、管理する側にとってはかなり面倒な連中が流れてくる。身分も高かったり、教養のある者が多いから、脱走されたり反逆されたりする可能性も高い。
雷風が賜るまで、銅鑼島は直轄地で、王が代官を任命していた。領地を差配する代官以外にも、外交を担当する交渉官と、罪人を取り締まる刑官がそれぞれの官庁から派遣されていた。
それを雷風に一任する形になったので、王家とその宮廷としては手間と資金が省けたことになる。
武官としては実績もあり、また領主としても一応うまく治めていた雷風だが、流石に銅鑼島は荷が重いのでは、というのが多くの反応で、下賜された経緯も詳らかにはされていなかった。
それで議会は紛糾し、一時は王への質問状を議会が突きつけるという事態にまでなったのだが、銅鑼島に寄港していた海賊の一派を雷風が降伏させて自分の配下としたこと、それに関連して密輸と偉華人の略取を実行していた他国人を撃退したことで沈静化した、というのが盛墨たちの得た情報である。
恐らく密輸や略取の事態が存在し、手をこまねいていたところに、雷風を表に立てて解決を図る策を講じたのだろう。
雷風自身がその策を立てたのかはわからない。どちらにせよたった一人で成し遂げたわけではなく、海賊の一部を懐柔し配下としてから一気にことが進んだようだ。
どこかの段階で王はその計画を知って雷風に権限を与えたものと思われる。
褒賞が先に与えられた感はあるものの、領主としての権限が沈静化に役立ったことは事実なので、貴族たちの感情的にはかなり収まったところがある。また、銅鑼島自体が豊かとは言えないこと、雷風はあくまで男爵のままで地位が上がってはおらず、領地替えをしただけと言わればそれまでなのだ。
領地替えにしても、通常は周知されるものだが、法的には王家の直轄地を王が選んだ者に与えるのに問題はない。ただ、普段の王の態度とあまりにも違うやり方だったために、騒ぎになったのだ。
逆に言えば、それまでの王は貴族たちから少し舐められていたのではないだろうか。
現王は、もともと時代の王とは目されていなかったと聞く。そのせいで本人も強い態度を示さないようになってしまったのだろうか。




