第四十三章 貴妃の悩み
日差しが強くなりはじめ、動くと汗ばむようになった頃。ピングォはタオヅに呼び出され、後宮へと来ていた。
タオヅがピングォを直々に呼び出したということは、きっと新しい天文書があるかどうかを聞きたいというのもあるだろう。いや、他の用事よりもきっとそれが主だろう。
去年買弁を介して買った天文書は、年が明けてすぐの頃にコンから訳書を受け取っていたけれども、朝貢品を皇帝に献上しに行ったときまでには間に合っていなかったので、今回声が掛かったのは天文書を渡すのにいい機会だとピングォは思った。
タオヅに会いに行くのに、持っていくのが天文書だけと言うのもなんとなく寂しい気がしたので、お茶として楽しめるように洛神花も持参している。
後宮の中を宦官に案内され、タオヅの部屋まで向かう。途中見える後宮の中庭は、青々とした草木に明るい日差しが降り注ぎ、人工的に作られた池の畔で何人かの貴妃達が水に足を浸けている。ピングォから見ても、少し現実離れした天界のような光景だといつも感じる。
目的の部屋に着き、扉を叩く。すぐに中から入るようにと言う返事が来る。宦官が一礼をしてからその場を去り、遠くへ行ったのを確認してからピングォは扉を開けて中へと入った。
「ピングォいらっしゃい。久しぶりね」
おっとりと微笑んでそう言うタオヅに、ピングォは一礼をして挨拶を返す。
「お久しぶりでございます、タオヅ様。
本日は新しい天文書をご所望でしょうか」
そう言って持っていた鞄から天文書を出すピングォに、タオヅは期待の視線を寄せる。
「新しいものを持って来てくれたのね」
嬉しそうに声を弾ませて、タオヅがピングォに椅子を勧める。ピングォがありがたく椅子に座ると、タオヅはこう言葉を続けた。
「新しい天文書も楽しみなのだけれど、最近、宮廷の天文学者が困ってるって聞いて、ちょっと悩んでいるのよ」
「天文学者ですか?」
そういえば。とピングォは思い出す。だいぶ前に、宮廷の天文学者が西洋の天文書を求めて自分の元に来たな。と。その時は訳書は手元に無かったので、何らかの形で訳する努力をすると原本の方を天文学者は買っていったけれど、結局どうなったのだろう。あの時、素直にコンのことを紹介すれば良かっただろうかとピングォは思ったけれども、あまりコンに他から仕事が入る状況というのはピングォとしてはなるべく避けたい。言ってしまえば、コンの能力を寡占したいのだ。
このことを思い出しているのを、目の前のタオヅは気づいていないだろう。タオヅは悩ましげな表情でこう言った。
「天文学者の方達が、だいぶ前に西の天文書を買ったそうなのだけれど、誰もその本が読めないというのよ。
それで、私がその本を訳したものを持ってるって言うのは知っているらしくて、貸してくれないかって、相談されてるの」
「なるほど、そうなのですね」
案の定そうなったか。ピングォは溜息をつきたいのを堪えて、どうするべきかを考える。
以前タオヅから聞いた話では、天文学者達は女であるタオヅが天文の本を読むなどと。と言った反応をしていたようだけれども、それを水に流して訳書を貸すなりするべきなのか、それとも突っぱねてしまうべきなのか。これは軽く考えて良いことではないだろう。なぜなら、天文学者達は暦を作るだけでなく、蝕の予知もしなくてはいけない。もし予知していない蝕が起こったら天文学者は物理的に首を飛ばされるのだ。今更という感じはするけれども、必死なのもわかるのだ。
ピングォはじっと考えて、タオヅにこう言った。
「それは、タオヅ様がお決めになるのがよろしいでしょう。
貸さないと突っぱねても、過去のことを水に流して貸すと決めても、どちらでも良いのです」
「でも、どちらにするかで悩んでいて……
天文学者達の立場が難しいのはわかっているの。でも、あの本を貸すのは不安で」
目を伏せてなおも悩むタオヅに、ピングォはもうひとつの案を出した。
「でしたら、文字の書ける召使いをこの部屋に呼んで、訳書を写させるのはいかがでしょうか。それでしたら訳書はタオヅ様の手元から離れませんし、訳の写しは天文学者の元に渡せるしで、いいとこ取りでしょう」
写す召使いが大変でしょうけど。と締めたピングォの言葉に、タオヅは安心したような顔をする。
「なるほど。その方法なら安心かも知れないわ。少し、文字を書ける子と相談してみる。
ありがとう」
「いえ、迷いが晴れたようで良かったです」
問題が一段落したところで、タオヅが召使いを呼んでお茶の準備をさせると言うので、ピングォは天文書と一緒に持参した洛神花をすかさず差し出した。
「タオヅ様お気に入りの洛神花でございます。これのお茶などいかがでしょうか?」
ピングォの手の上に乗った入れ物を手に取って、タオヅが中身を見る。それから、にっこりと笑って言った。
「うふふ、嬉しい。ピングォは私が好きな物、何でも知ってるんだから」
「ふふふ、もうタオヅ様との付き合いも、何年にもなりますしね」
ふたりで笑い合って、タオヅが召使いを呼ぶ。すぐに現れた召使いにタオヅは洛神花を渡して、お茶を淹れてくるように命じた。
召使いがお茶を用意している間にも、ふたりの話は弾む。今回ピングォが持って来た天文書も、冒頭に『神に約束された』とあるのかどうかとか、今度はどんな内容なのだろうかとか、そんな話だ。
それは確かに穏やかで、心安まる時間だった。




