第三十七章 蝕の夜
年末も近づき日が暮れた後の風が冷たくなった頃。ピングォが仕事を終えて夕食前のお茶を飲んでいると、窓を叩く音が聞こえた。窓の方を見ると、いつものようにコンが逆さまになって覗き込んでいる。ピングォは倚子から立ち上がって、窓を開ける。
「入りなさい」
そう言って開けた窓から一歩引くと、コンがひらりと中へと入ってきた。それを見て、ピングォは不思議に思う。特になにかを持ってきている様子はないし、こちらから呼び出したわけでもない。
「何の用できたんだい?」
そう訊ねると、コンは厳しい表情をしてこう言った。
「今夜は外に出ない方がいい」
「外に?」
元々そんなに夜に出歩く習慣はないけれども、わざわざこんな事を忠告しに来るのだ、今夜はきっと何かあるのだろう。
ふと、扉を叩く音が聞こえたのえ中に入るよう声を掛けると、入ってきたのは紫がかった茶色の急須と茶杯を乗せたお盆を持ったウーズィだった。ウーズィは中にいるコンを見てか、驚いたような顔をする。
「あれ? こんな時間にどうしました?」
ピングォの前に置かれた空の茶器を片付け、新しいお茶を用意しながらウーズィがコンに訊ねる。それを見て、ピングォはこう言った。
「今夜は外に出ない方がいいってことなんだけど、その理由はまだ聞いてないね」
「そうなのですか?」
ふたりで説明を求めるようにコンに視線を送ると、コンは窓の外を指さしてこう言った。
「今日は月の蝕がある」
それを聞いてピングォの顔からさっと血の気が引いた。
「な、なんてことだ。これは、宮廷の人達や皇帝陛下はご存じなのかい」
蝕という言葉に恐れを成したようなピングォに、コンは宥めるようにこう返す。
「大丈夫、今回は宮廷の方でも天文学者がしっかり予知してた。
予知してないところに蝕が起きなくて良かったな。予知したところに蝕が来る分には、だれの首も飛ばない」
それを聞いて、ピングォは少しだけ落ち着く。蝕は怖い物だけれども、学者の首が繋がるというのは少しだけとはいえ気持ちを楽にしてくれた。
けれども、今度はウーズィが顔を真っ青にしてこんな事を言った。
「今日、月の蝕なんですよね?
大変だ、今日は景教徒の皆さんが夜に集まって祭儀をする日なんです」
「なんだって?」
ウーズィの言葉に、ピングォは動揺する。蝕の夜は良くないことが起こる。だからコンが言ったように蝕の夜は外に出ない方がいいのだけれども、景教徒はそのことを知らないのか、それとも蝕が起こることを知らないのか。おそらく後者だろう。
どうしたものか。なにかが起こって下手に騒ぎになってからでは、混乱した景教徒達が何をするかわからないし、景教徒達が他の悪漢に何をされるかもわからないのだ。
どうやらウーズィは景教徒達と仲が良いようなので、自分の弟分であるウーズィが大切にしている人達は、ピングォも大切にしたいと思っている。だから、どういう対策を取るべきか考えた。ちらりとコンの方を見る。ふいっと視線を外されてしまった。
これはコンに頼って解決することではなく、自分たちでなんとかしないといけないものなのだなと、ピングォは察する。それから少し考えて、ピングォは声を上げてチュンファンを呼び出す。少し待つと、大きな足音が近づいてきて扉を強く叩く音がした。すぐに入るように返事をすると、チュンファンが何事かといった顔で入ったきた。
「姐さん、何事ですか」
ただならぬことが起こるというのは、その場の空気からチュンファンも読み取れたようだ。ピングォはチュンファンのことをじっと見てこう言った。
「コンに聞いたんだけどね、今夜は月の蝕が起こるそうなんだ。なんだけどね、今日は景教徒が夜に祭儀をやる日らしくてね。景教徒が蝕の闇に紛れた悪漢から襲われたり、それ以外にも面倒ごとが起こらないようにあなたたちで見回って欲しい」
ピングォの言葉を聞いてか、チュンファンはコンとウーズィの顔をそれぞれ見る。それから、にっと笑って胸を叩き、ピングォにこう答えた。
「任せて下さいよ姐さん。俺達は蝕なんて怖くないですよ。月が隠れちまうくらい、なんでもないんですから。
だから安心して下さい、ちゃんとみんなで街を守って見せますよ」
「ふふふ、それは心強い」
やりとりを聞いて少しぼーっとしていたウーズィが、はっとしたように口を開いた。
「あ、もしかして私は景教徒の皆さんに、今日は蝕があると伝えてきた方が良いでしょうか?」
慌てた様子のウーズィを、ピングォは手で制止させて言い聞かせる。
「あなたは屋敷にいなさい。何かあったときはチュンファンが収めるように」
ウーズィはそれを聞いて、一礼をして、チュンファンも同様にした。
早速チュンファンは街の見回りのために部屋を出て行き、残された三人は顔を見合わせで話をする。
「ところでコン、太陽や月の蝕の時、良くないことが起こると宮廷では言われているけれども、実際はどうなの?」
その問いに、コンはあっけからんと答える。
「特に何も起こらないよ。蝕を予知出来なくても、皇帝陛下の地位が揺らぐこととは何の関係も無い。
人間達が勝手に恐れてるだけさ」
「へぇ、そういうものかね」
ピングォが納得した様な出来ないよう微妙な感覚でいると、今度はウーズィがこう訊ねた。
「でも、コンは蝕の予知ができるんですよね?
蝕の予知はどうやってやっているんですか?」
その問いにはコンは人差し指を唇に当てて完結に答える。
「それはひみつ」
「そうなのですか?」
残念そうな顔をするウーズィを見て、ピングォも苦笑いをする。正確に蝕を予知することができれば、首を刎ねられる天文学者の数が減るのだ。
今までに蝕の予知ができずに何人もの天文学者の首が飛んだという話を知っているピングォとしても、予知の方法は知りたいところだけれども、コンのやることだ。人間には難しい方法なのかも知れないと思って追求はしなかった。




