第三十二章 西洋の天文書
日差しもだいぶ暑くなり、汗ばむようになった頃。来月にでも紅毛人の船が到着すると言うことで、ピングォは行や買弁へ送る手紙を書くのに忙しかった。
こう言った手紙を書くのは嫌いではないけれど、格式張った記述方でなくてはならないので、それに則るとなると億劫だと思う気持ちはどうしても湧いてくる。
「あー、ちょっと気分転換したい……」
そう呟いて伸びをすると、扉を叩く音が聞こえた。丁度良くお茶の時間かと思いながら返事をする。
「入りなさい」
入ってきたのは予想通りジーイーだ。けれども手元に茶器を持っていなかった。
「あれ? お茶の時間じゃないの?」
ピングォが思ったことをそのまま訊ねると、ジーイーは一礼をしてこう言った。
「宮廷の天文学者の方がいらしています」
「天文学者?」
天文学者が自分に何の用だろう。不思議に思いながらも、天文学者を部屋に通すように指示する。
「かしこまりました」
また一礼をして部屋を出ようとするジーイーに、ピングォはひとこと付け足す。
「お茶の用意もお願い」
「かしこまりました」
ピングォが仕事で疲れているのを察したのか、ジーイーはにこりと笑って部屋から出て行った。
天文学者とお茶が来るまでの間に、ピングォは机の上に散らばっていた手紙などの書類をなるべくまとめ、整頓する。それから、食台の側に有る長椅子に移動した。
そうして待つこと少し。また扉を叩く音が聞こえた。
「入りなさい」
鷹揚な態度で返事をすると、紫がかった茶色の急須とふたつの茶杯をお盆に乗せたジーイーと、いかにも学者と言った風体の、若い藍色の髪の男が入ってきた。
「お待たせいたしました」
ジーイーがそう言って茶器を食台の上に置き、部屋の端から予備の椅子を持ってくる。ピングォが学者らしき男にそこに掛けるよう促し、その間にジーイーは茶杯ふたつにお茶を注いでピングォと男の前に差し出した。それをしてから、ジーイーが部屋から出て行ったので、ピングォは学者らしき男に話し掛ける。
「私に用がある天文学者っていうのはあなたかい?」
その問いに、天文学者は緊張した様子で頷く。
「はい、その通りでございます。この度は、ピングォ様のお力をぜひ貸していただきたく」
そうは言っても、ピングォは天文のことに詳しいわけではない。学者が一体何を、ピングォに求めるというのだろう。
「何がお望みで?」
素直にピングォが訊ねると、天文学者はぎゅっと手を握ってこう答えた。
「ピングォ様の所に入って来ている、西洋の天文書が欲しいのです」
「西洋の?」
確かに言われてみれば、ピングォのところには何冊もの西洋の天文書がある。しかし、以前は西洋の本など必要無いと、宮廷の天文学者は言っていたはずだ。
「なんでまた急に西洋のが必要になったんだい? 以前はいらないと言っていたのに」
それを聞いた天文学者は、顔を赤くして縮こまる。
「以前は、いらないという学者が多かったのは事実です。けれども、我々も変わるのです。
今は、西洋の考えも取り入れようという動きになっていて」
「なるほどね」
天文学者の言い分に納得したけれども、ピングォは少しだけ意地悪そうにこう言った。
「後宮のタオヅ様が、今までうちで輸入した天文書の訳書を、全て持っているよ」
それを聞いて、天文学者は深い溜息をつく。
「タオヅ様にお借り出来ればそれ以上のことはないのですが、天文学者の老人達が、タオヅ様に失礼なことを何度も言うものだから、タオヅ様には借りづらいというか、あそこまで失礼なことを言ってその上で借りるというのはあまりにも恥知らずというか」
天文学者の老人達はタオヅにどんなことを言ったのだろう。少しの苛立ちを感じながら、ピングォは天文学者に、事情はわかったと言い、こう条件を出した。
「わかった。うちにある西洋の天文書を譲ろう。その代わり、渡す本は西の言葉で書かれている原本だ。私はその訳をするのに手は貸せない。いいね?」
ピングォの言葉に、天文学者は何度も頭を下げて感謝の意を表している。
「ああ、ありがとうございます。訳はたまに宮廷に来る景教徒に頼もうと思います。
あ、でも、皇帝陛下がたまに呼び出す賢者に頼んでも……」
天文学者がそこまで言ったところで、ピングォはぴしゃりとこう言う。
「学者なんだから、学問に関して他人を頼ってばかりじゃ駄目だよ。文士たる物、自分の頭で考えるのが大事でしょう」
きっとこの天文学者は素直なたちなのだろう。はっとした表情になって、またピングォに頭を下げて、その通りだと、自分を戒めていた。
そういえば。と、ピングォが少し話題を変える。
「もうすぐ紅毛人の船が到着する。その荷物の中に天文書があったら買い付けておこうか? なんなら、来年また紅毛人に発注しても良いし」
それを聞いて、天文学者は恐縮しながらこう答える。
「はい、はい。是非ともお願い致します。
私どもも精進しますので……」
天文学者に確認を取ったピングォは、まずは蔵に積んである分の天文書を持ってこさせようと、声を上げてジーイーを呼ぶ。少しだけ待ってジーイーが来ると、すぐさまに蔵に向かわせた。
それから天文学者に向き直り、ひとことこう付け足した。
「これから持ってくる天文書はそちらに買い上げてもらうけど、良いかい?」
「もちろんです! ああ、ありがたい」
もしかしたらこの天文学者は、宮廷では老人達に抑圧されているのかも知れない、若干ピングォが威圧的にしていても優しく接しているように感じているようだった。
けれどもそれはピングォの知るよしではない。あくまでも商売の相手として、深く踏み入るつもりはないのだ。
しばらく待っていると、ジーイーが天文書を持ってやって来た。これからどの程度値段を付けるか、考えなくては。




