第二十六章 思いは西へ
年が明け、米を炊いてはいけない期間である五破が過ぎた頃。ピングォは皇帝の元へと挨拶に参じていた。
特に理由も無く挨拶に来たのではなく、紅毛人に注文したい朝貢品の御用聞きも兼ねてのことだった。
昨年紅毛人が持って来た朝貢品、あの広州に着いた時点で不具合があり長らく足止めされていて、不安がありながらもなんとか皇帝に献上したあの宝石時計も、皇帝はいたく気に入っているようだった。そして今回も、ああいった細かいカラクリが欲しいとの事だった。細かいカラクリと言えば、時計以外にも水を飲む自動人形や、歌を歌う鳥のカラクリなどいろいろあるけれども、紅毛人が次にどんなものを持ってくるか、それはピングォの知るところではなかった。
皇帝からの注文を承った後、皇帝から朝貢品の中継ぎをしたピングォにも褒美を取らすということで、たんまりと報酬をもらう。内心そのことで喜んでいると、続けて後宮に行くよう命を受けた。タオヅがピングォの話を聞きたいと言っているようだった。もちろん、ピングォはそんなこともあろうかとしっかり準備をしてきている。了承の意を丁寧に伝え、宦官の案内で後宮へと向かった。
新年の後宮は賑やかだった。太后のために太后と親しい貴妃達によってあちこちで音楽が奏でられ、召使い達も忙しなく行き交っていた。
そんな賑やかな後宮の一角に、静かな部屋がある。そこがタオヅの部屋だ。ピングォはそっと扉を叩く。すると、中から落ち着いた声が聞こえてきた。
「どうぞ、お入りになって」
「失礼します」
ピングォは扉を開け、一礼をしてから部屋の中に入る。
「久しぶりね」
おっとりと微笑んでそういうタオヅ。彼女は召使いを呼び、お茶の準備をするよう命じた。
召使いがお茶を用意している間に、ピングォは勧められた椅子に座り、タオヅと話をする。まずは、近頃後宮でどのようなことがあったかだとか、近頃は皇帝もあまり自分の所に来ないだとか、そんなことだ。
そうしている間にお茶が運び込まれ、白い急須と花の描かれた磁器の茶杯がふたつ並ぶ。茶杯に注がれるのは、黄色がかった緑色のお茶だ。ほのかに甘い香りがする。タオヅに勧められたので、ピングォはそっと茶杯を持ち上げて口を付ける。渋さの中にも甘さのあるこのお茶は、冷えた体を温めてくれるようだった。
お茶を一杯分飲み終わったところでタオヅがピングォに訊ねた。
「ねぇ、前に話していた西の国の天文書は、届いたかしら?」
「はい、届いております。訳書もご用意出来ております」
それを聞いて、タオヅはぱっと表情を明るくする。よほどこの天文書を待ちわびていたのだろう。ピングォが持っていた籠から本を出す。それはコンに訳させた天文書の訳書だ。それの表紙を捲り、タオヅに見せる。確かに冒頭部分に、『神に約束された』とあった。
「今日も、お話して聴かせて下さる?」
微かに頬を赤くするタオヅに、ピングォはにこりと笑って答える。
「もちろんですとも。その為にこの本を持って来たのですから」
それから、ピングォはタオヅと向き直って、訳書を読み上げていく。
もう何度も天文書を読み上げているけれども、やはりピングォには天文学という物はわからない。輸入されてくる天文書はいわゆる専門書で、基礎の部分をまったく知らずに読んでいるからというのはあるのだろうけれども、それにしても天文の話は、ピングォには難しすぎた。
けれども、その難しい話をタオヅはうっとりと聞いている。以前は天文のことは難しくてわからないと言っていたけれども、何度か読んでいるうちにわかるようになってきたのだろうか。それともやはり、この本の著者に心惹かれているのだろうか。きっと後者だろう。この本の著者に心惹かれたからこそ、タオヅは天文の本を求めるし、知りたいと思うのだろう。
読み上げが一段落付いたところで、タオヅがこう言った。
「この、天文の本は難しいことを言っているはずなのに、温かさを感じるの。なんでかしら……?」
うっとりとそう言うタオヅに、ピングォがこう返す。
「きっと、この本を書いている方の人柄が出ているのでしょう」
「そうなのね。きっと、この本を書いた方は素敵な方なんだわ」
指を絡めて、溜息をついたタオヅが言葉を続ける。
「これは、みんなには内緒ね」
そう言ってタオヅは胸の内をピングォに話す。この『神に約束された』とある天文の話を聞く度に、後宮を抜け出して西の国行きたくなるのだと。だけれども、それは叶えられないことだというのもわかっていて、ひどくもどかしくなるのだという。
「きっと私はしあわせなのに、こんなにもしあわせなのに。
だから、それ以上の憧れを持ってはいけないのよ。それでも憧れてしまうの。西の国に住む、この『神に約束された』とある本を書いている、この人のことに」
もうこれは、タオヅから何度も聞かされている夢物語だ。願ってもどうしようもないことだし、馬鹿げていると笑う人もいるだろう。それでもタオヅはこの憧れを持ち続けているのだ。その思いの強さを、ピングォは笑うことはできない。
タオヅが言う。
「私は、この後宮にいることが役目なのに、西の国に憧れるなんて、いけないことだわ」
少しだけ寂しそうな顔をするタオヅに、ピングォは宥めるように言う。
「立場を弁えるのは、大事なことでございます」
「……そうね」
ふと、タオヅが窓の外を見る。さらさらとした雪が降り始めていた。




