第二十三章 バケモノの話
日差しもだいぶ和らぎ過ごしやすくなった頃のこと。ピングォはいつもの貿易関係の書類は棚にしまい込み、代わりに輸入された表紙の付いていない異国の本を何冊か机の上に置いてお茶を飲んでいた。
机の上に乗った本は、先日広州に西からの貿易船が到着し、そこで買弁を介して手に入れたものだ。一応いつも通りに天文の本だとは聞いているけれども、中身はまだわからない。この本の訳を頼むためにコンを呼んだのだけれど、肝心のコンがまだ来ない。
「まぁ、あいつも気まぐれだからねぇ」
そう呟いて、今日中に来ればいいかくらいの気持ちで待っていると、扉を叩く音が聞こえた。
「入りなさい」
返事を返すと、入ってきたのは紫がかった茶色い急須と、ふたつの茶杯を乗せたお盆を持ったジーイーと、その後ろに付いてきているコンだった。
「お茶のおかわりと、コンを案内してきました」
「よう。今回は玄関から来たぞ」
部屋の中に入ってきたふたりを見て、ピングォは机の上に置いた西洋の本を手に取って長椅子に移動する。その様子を見て取ってか、ジーイーは長椅子の前の食台に茶器を置き、すぐさまに部屋の隅に置かれている予備の椅子を食台の前に持って来た。
「コン、そこにかけなさい」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
食台の前の椅子にコンが腰掛けると、ジーイーが急須を持って茶杯ふたつにお茶を注ぎ、ピングォとコンの前に置いた。
「それで、今回の用件なんだけど」
ピングォが早速そう切り出すと、コンはわかってると言った様子だ。
「その本を訳して欲しいんだろ?」
「物わかりが良くて助かるね」
そんなやりとりをしている間にも、ジーイーはピングォが先程使っていた空の茶器を下げて、部屋から出て行っていた。
他に誰もいなくなったのを確認してから、ピングォはコンに訊ねる。
「それで、今回の報酬はどうする?」
「そうだな、いつも通り保存の利く食料と、お金をいくらかだな」
「わかった。それじゃあ頼むよ」
報酬の話も簡潔に済ませ、コンに本を渡す。ぱらぱらと内容を見ているコンに、そういえば。とピングォは前から疑問だったことを思い出した。
「そういえば、どうしてあなたは西の言葉がわかるんだい? そういう勉強をしたとか?」
突然の問いに、コンはきょとんとした顔をしてから、納得した様に口を開いた。
「ああそうか、お前達人間は言霊がわかんないのか」
「言霊?」
一体何のことだろう。ピングォが疑問に思っていると、コンが説明するにはこう言うことだった。
コンは言語そのものを聞いたり見たりして内容を把握しているのではなく、言葉に込められた意味を直接受け取っているので、言語の持つ音や文字に囚われず、内容を把握することができる。ただ、コンが知っている言語はこの国の言葉だけなので、人間にわかるように文字で書くときは、どうしてもこの国の言葉に限定されてしまう。話し言葉はその限りでなく、コンが聞く場合はもちろんどの言語でもわかるし、聞く相手もコンの話す言葉は理解出来る。と、コンはピングォに説明した。
「はぁ、それはまた便利だねぇ」
「俺からすれば、これができない人間が不便で仕方ないと思うけどな」
コンが西洋の本を訳せるカラクリはなんとなくわかった。そう納得していると、コンがお茶をひとくち飲んで訊ねてきた。
「でも、俺が訳した本は後宮の貴妃に渡してるんだろ? バケモノが訳してるってのは、そのお姫様は知ってるのかい?」
それに対して、ピングォはしれっと答える。
「それは言ってないよ。誰が訳してようと訳書は訳書だし」
「そっか」
複雑そうな顔をするコンに、ピングォはどう声を掛ければ良いのかわからない。コンの心中がわからないのだ。少しの間黙り込んで、それからまた、コンが言った。
「良くバケモノの俺をすんなり受け入れたな」
もしかしたら、それはずっとコンが抱えてた疑問なのかも知れない。ピングォはさも当然と言う調子でそれに答える。
「私は、使えるやつは積極的に使っていくんでね」
「へぇ、結構冷徹っぽいこと言うじゃん。それにしては情に脆いけど」
自分の複雑な気性は、ピングォが一番わかってる。なるべく冷静に物事を判断したいと思う反面、コンが言うとおり情に脆い。それは自分の中での理想と実情がうまく噛み合っていないのだろう。それをわかった上で、ピングォは苦笑いをして返す。
「そう言う気性なんだよ」
それを聞いてコンは、悪くない。と笑う。それから、ピングォに問いかける。
「そう言えば、俺がバケモノなのはわかってるみたいだけど、どんなバケモノかはわかってるんだろうな?」
それに対して、ピングォはつとめて冷静に答える。
「あなたは夢魔なんだろう? 人間の娘から精気を奪う」
「そのとおり」
はじめてコンと会ったのは、ピングォの寝室でだった。ピングォの精気を吸いに来たコンに、何者なのかと訊ねたのが始まりだ。その時に、家の者を呼ばない代わりに、自分に有益になるなにかをできはしないかと話をした。
「こんな豪胆な娘は、あんたが初めてだよ」
「そうかい?」
あの時の話で、ピングォが貿易に関する仕事をしていると言った上で、コンは他の国の言葉がわかると言った。それ以来、異国の言葉を訳さなくてはいけないことがあったときは、依頼をする事も有るだろうと言って、こっそりとコンを部屋から逃がしたのだ。そういったわけで、訳の仕事がある時にはコンを呼び、そうしているうちに馴染んでしまい、暇があればお菓子なども持ってくるようになった。はじめの出会いだけは屋敷の他の誰にも言えないけれども、もうコンが来ることを不思議に思う者はいないのだ。ただ、コンが人間ではないという事は、どういう訳だかジーイーとウーズィ、チュンファンにはばれてしまい、それを他の者に黙ってもらっている状態だけれども。
茶杯を空けたコンがいつもと違う目つきでピングォを見る。
「それで、俺の正体を思い出したところで、たまには精気を分けてくれない?」
いつもと違う妖しげな雰囲気を出すコンに、ピングォは動揺しながら答える。
「それは、どうやって?」
少し怯えているのがコンに伝わったのか、コンはピングォの手を取って答える。
「指先をちょっと銜えさせてくれれば良いのさ。ちょっとだるくなるかもしれないけど、痛くはないさ」
どうやら体に余程の負担がかかることをするわけではないようだ。ピングォは大人しく人差し指を差し出してコンに銜えさせる。
ぬるりとした触感の後、身体が少しだけ重くなった。




