8.義務と愛情のコンフリクト
虫の声を聴きながら、夜風に当たる。
熱いシャワーを浴びたばかりの肌は汗をかくほどに熱を持っていて、微かな風でも心地よかった。
子供たちを寝かせ、孤児院の仕事を終えたマリアは、ようやく訪れた自分の時間をゆっくりと過ごしていた。
いつもなら、一日の終わりでもこんなに疲れを感じはしなかっただろう。
しかし今日は、とても疲れていた。
「教会のジジイ共め······」
悪態をつきながら、どさりと椅子に座る。食堂の開け放った窓からさあっと風が吹き込めば、僅かに苛立ちも治まった。
──シド・エヴァンズから報告があったのは、先週の事だ。
その手紙は殆ど文字がなく、簡潔にも程があると思ったが、内容を理解した瞬間にどうでもよくなった。
『シエラが闇の精霊と契約した』
「はああああああああ!!??」
それを目にして驚きのあまり叫んでしまったのは、最近では一番の失態だ。
昼寝をしていたメアリーが泣き出し、ウィルとクラップがとんできた時は、子供相手とはいえ大変申し訳ないと頭を下げた。
でも、驚くのも当然だ。
今のシエラは、シエラではない。
中身は特別精霊に愛されている訳でもない、別人。
アンヘルには悪いが、正直に言って普通の資質しか持っていない者が、闇の精霊と契約を結ぶなど思いもしなかった。
ウィルとクラップにメアリーを任せ、急用が出来たと伝える。
マリアは手早くエプロンを取ると、孤児院を後にした。
孤児院の玄関を出て向かったのは、同じ敷地内にある教会だった。
こぢんまりした孤児院とは対照的に、大きく荘厳な建物。
白い石の粉を塗り固めた外壁はコテの美しい模様が浮かび上がり、その微かな明暗が幻想的だ。
随所に大きく設けられた窓は上部が曲線を描いていて、そのウォールナットの枠の中には色取り取りのステンドグラスが嵌め込まれている。
同じ色合いの大きな両開きのドアを押し開いて中に入れば、室内は天窓からの太陽光に燦然と照らされていた。
マリアは慣れた様子でその光の中を行く。
外と違い、静けさに包まれたそこには足音以外に何も聞こえなかった。
コツン、と磨き抜かれた石の床を打ち鳴らし、立ち止まる。
祭壇の目の前には、こちらに背を向けて跪くひとりの老人がいた。
「教主様」
マリアが声をかけると、ゆっくりと立ち上がり振り返る。
肩辺りに金糸で施された枝葉と翼の刺繍が陽の光に閃き、白いたっぷりとした布地の教衣がふわりと揺れた。
教主はその見えない目をマリアへ向けると、柔らかな笑みを浮かべて声をかけた。
「マリア。どうかしたのかね?」
人好きのする穏やかで優しい声。どんな悪事を懺悔しても、きっと許しを与えてくれると思ってしまうだろう。
──しかし、油断してはならないと、マリアは心に留める。
この方は教主。
ヴィスぺリア王国はもちろん、世界にも信仰する者の最も多い教会の、トップなのだから。
「ご報告とご相談に上がりました」
「ふむ」
固い様子のマリアにも特に意に介さずに、教主は頷く。
「では、奥へ」
「はい」
盲目であるのが信じられない程の滑らかな動きで祭壇脇の扉へと案内すると、教主は薄暗い廊下を進んでいった。
廊下の突き当たりまで来ると、そこには他より一回り大きな扉があった。
声をかけることもノックすることもせずに扉の前で立ち止まると、それは内側からすっと開かれる。
音もなくあまりにも軽い動きで開いたそこへ教主が入っていけば、マリアも後に続いて中へと足を踏み入れた。
「皆おるかの?」
「はい、教主様。揃っておりますが」
「ふむ。では集まってくれるか」
「は」
教主の呼び掛けに応じ、教主を含め五人の老人が大テーブルの席に着く。
マリアは立ったまま、その馬蹄型のテーブルの前へ歩み出た。
中央に教主。左右に二人ずつ座っているが、教主以外は笑顔を浮かべることはなく、マリアにも射抜くような視線を向けている。
その中へ囲まれるような形で踏み込むのは、果たして何度目か。
初めの頃はえらく緊張したな、とどうでもいいことを思いながら、マリアは最上級の礼をとり頭を下げた。
「マリア。定期報告にはまだ早いが、如何した?」
右端の老人が見た目通りの固い声で問うた。
「はい。礼の件でご報告が必要な事態が発生致しました」
マリアは臆することなく事実を述べる。
礼の件、と言った途端に左右の四人がざわつくが、気にせずに続く発言の許可が下りるのを待った。
「何?」
「礼の件とは、あの聖女絡みか?」
「いや、もう聖女候補ではないのであろう」
「今は天使が入っておるのではなかったか」
「そうだ。聖女が天使ととって変わってしもうたのだ」
「聖女の素質は、魂と共に大樹の元で眠ってしまったのだったな」
「いやはや、なんとも嘆かわしい」
「ようやく現れた聖女の卵が、こと愚かな行いを働くとは」
「まこと、愚の骨頂よ」
マリアは心を水面に見立ててやり過ごす。
苛立ちを表に出すことはなく、雑談が終わるのを待ち続けた。
暫くして、漸くそれが終わるとマリアへと視線が戻る。
マリアは緊張を感じながらも心を決めた。
「して、如何した?」
「はい」
これを言ったらどうなるのか。
でも、報告しないという選択肢は、ない。
マリアは小さく拳を握って伝えた。
「シエラが闇の精霊と契約を結びました」
「!!」
「なんと!!」
「闇の精霊とな!?」
「馬鹿な!今の聖女は天使ではあったが凡人であろう!?」
四者一様に驚きを露にする老人たち。その中で只一人、教主だけは変わらない穏やかな笑顔のままだった。
「それは真の話なのか?」
「冗談では済まされんぞ」
「はい。シド・エヴァンズの報告です。彼も実際にその目で確認したと」
ありのままを伝えれば、騒がしさが一転、しんと静まる室内。
「そうか」
「ならば、真実であろう」
信じられないような報告も真実だと分かれば、老人たちは手のひらを返す。
「なれば、それは僥倖」
「確かに」
「聖女を失ったと思ったが、天使の方にも資質があったか」
「良き良き」
先程までの冷たい視線はどこへやら、マリアへと寄せる嬉々とした眼差しに、マリアは奥歯を噛み締めた。
「報告は以上です」
「あい承知した」
「引き続き、かの者の管理は任せる」
「以前のような失態は、もう許されぬ」
「心して励め」
「御意」
労いなのか、貶めているのか。良く分からないお言葉を頂戴してマリアは踵を返す。
結局、教主はここでは一言も口を開くことはなく、マリアは孤児院へと帰ってきたのだった。
そして、そんな心底気分の悪い思いをした翌週の今日。
マリアは再び教会の老人たちと面会することになった。
孤児院にある私室の机の上には、枝葉と翼の紋様がうっすら入ったメッセージカードがある。
そこには簡単に、夕方出向くようにと書かれていた。
「あー······行きたくない」
子供には決して聞かせられない愚痴が、口をついて出た。
この間はアンヘルとシエラを散々な言い方で貶された。
最後はシエラになったアンヘルに期待する形で終わっていたが、それでもマリアの腹はグツグツに煮たっていて、あの後は大量の薪割りで発散させないと物を壊してしまいそうな程だった。
もう暫くは顔を見たくない。
教会に属しておきながら、そんなことを思ってしまう程、腹に据えかねていたのだ。
なのに、再びの呼び出し。
「今回はなんの話なんだか」
気にはなる。
でもきっと、ろくでもない内容だろうということは分かっていた。
「······はあ」
盛大な溜め息が無意識に溢れる。
行きたくない。本当に行きたくないが。
行かなきゃダメだよな。
マリアは約束の時間になると重い腰を上げて、再度教会へと向かった。
「マリア・ドールマン、馳せ参じました」
「うむ。ご苦労」
その身分の通り偉そうに答えるのは、やはり右端の老人だ。
教主の左右に座る彼らは教会のナンバー2から5だが、正直、マリアにとってはただの老人。教主以外には表面上の敬意しか抱いてはいなかった。
マリアが畏怖の念を抱くのは、只一人。今日も中央に穏やかな笑顔で鎮座する教主のみ。
いつも取り立てて何か直接発言されるわけではないけれど、その圧倒的な存在感と雰囲気に、いつも飲まれそうになる。
──正直、この人は底が知れない。
何を考えているのか、どう思っているのか、全く読めないなんて。
だから、マリアは仕える身であるにもかかわらず、いつも警戒を怠らなかった。
しかしまあ、今日もきっと周りの老人たちの発言で終わるだろう。
マリアは憂鬱な気持ちをそんな気楽な予想で誤魔化しつつ、大テーブルの前に跪いた。
「表を上げよ」
「はい」
許しを得て、すっと立ち上がる。
前に視線を向ければ、先日と同じ佇まいの五人がこちらへ顔を向けていた。
「して、呼んだのは他でもない」
その声に、マリアは息を止めた。
話し出したのは、正面の教主だった。
「そなたに新たな任を授ける」
「······はい」
突然の事に動悸が止まらない。
今までだって、何度も彼らの前に跪いてきた。
着任した時。定期報告の時。緊急案件の時。
その度に左右の老人に苛々しつつ、それを押し留めて賜ってきたのだが。
教主自らからこの場で言葉を受けるのは、初めての事だった。
よく祭壇の前で祈りを捧げている教主。顔を会わせる機会は一番多く、ちょっとした会話ならば度々交わしてきたのだが。
過度な緊張がマリアを襲う。
つ、と背中を汗が伝っていった。
「かの者はシエラ、といったかね」
「はい」
「ふむ」
耳に心臓があるかのような煩さに、気分が悪くなりそうだ。
至極優しく、穏やかなはずの声が、まるで呪いの言葉のようにマリアを苦しめる。
「ではマリア」
「はい」
「再び聖女となるよう、シエラを導いておくれ」
「──っ、はい」
マリアは必死の思いで応えると、許しを得てその場を後にした。
**********
夜風で涼んだマリアは静かに窓を閉めると、私室へと入った。
本当ならこれから日誌を書いて、届いている書類に目を通し、手紙も書かなければならない。
しかしそんなやる気も起きなくて、どさりとベッドに横になった。
「再び、聖女に導く······」
それはつまり。
聖女最有力候補の者はいなくなったけれど、また可能性のある者が現れたから、今度はそっちで。ということか。
マリアはぎりりと奥歯を噛んだ。
シエラとアンヘル。
二人はマリアにとって、かけがえのない家族だ。
どちらが欠けても同じだけ悲しくて、同じだけ辛い。
大切な家族だった。
天使のアンヘルがいなくなることは、覚悟はしていた。
それが生まれながらの宿命で、どんなに本人が、私が嫌でも、やってもらわなければいけないことなのだと理解していた。
でも、蓋をあけてみれば、聖女候補のシエラがいなくなって。
──マリアはあの時、愕然とした。
シエラになって帰ってきたアンヘルの苦しみが、嘆きが、悲しみが。
アンヘルになったシエラの、想いの深さが。
マリアの胸を、引き裂かんばかりに打ちのめした。
「······私の子供たちは、私の誇り。替えのきくものではない」
仰向けに倒れたまま腕で目を覆って呟けば、あの時の事が鮮明に甦る。
おかしな表情で佇むシエラ。
雰囲気がいつもとは全く違うのに、それはなぜかよく知るもので。
すぐにアンヘルが帰ってきたのだと分かった。
ごめんなさいと言わせてしまったことが、未だに悔しい。
だって、あの子が犠牲になるのを決めたのは、国であり教会だ。
あの子自身には、本来何の責任も義務もない筈。
ただ夢魔法使いとして産まれただけの、無垢な子なのに。
簡単に死んでこいと送り出した彼らを、マリアは許せない想いでいた。
「糞やろう」
天井に向かって、感情のまま吐き出す。
自分が教会に所属する限り、上からの指示は絶対だ。
だから、マリアはシエラを再び聖女にするべく尽力しなければならなくなった。
かつては、当然と受け入れていた指示ではある。
──ある、けれど。
シエラがシエラだった時は、本人の意思も強かったし、素質もやる気も十分だった。
教える方としても、吸収も進歩も早く、指導していて気持ちが良いほどで。
後に全てはアンヘルのためと分かって府に落ちたけれど、聖女になる為にしては、鬼気迫るものがあった。
当時のシエラは聖女を目指すと言いつつ、特にそれに拘りも執着も無いようだったのが不思議だった。
こうなって初めて、マリアはあの時のシエラの想いを理解した。
たった一人のために、自分のすべてをかける情熱。
そして、惜しむことなく己に課し続けた努力。
アンヘルの為だけに聖女になると決めた強さが、驚異的な早さで確実にシエラを聖女へと近づけていた。
そんな天賦の才と努力の塊であるシエラが出会えなかった、唯一の精霊。
それが──。
「······闇の精霊、か」
どうしてまた、幻ともいえるかの精霊が、今あの子の前に現れたのだろう。
聖女に最も近かったシエラですら、結局出会えなかったというのに。
マリアはそこに強い引っ掛かりを覚えていた。
本来のシエラは光の精霊と契約していたからか?
それも理由として大きいだろう。
でも、何となく。こうなったことに必然性を感じた。
──天才のシエラに出来なかったことを、あの子はやってのけた。
これは転機ではないか?
頭は決して悪くないけれど、引きこもりだったからか、世間知らずでどこか抜けている子だけど。
あの子なら、やれる気がした。
「ふっ」
マリアは、小さく笑みを溢す。
教会にとっては、天使は当然の生け贄であり、聖女はずっと待ち望んでいたもの。
あの反応は当然といえば当然なのかもしれないけれど、到底受け入れられなかった。
でも今、よくよく考えてみれば。
──悪くない。
あの子には、シエラを取り戻すために魂魔法を使えるようになること、そしてあらゆる可能性を考えて精霊魔法を一から学ぶことを勧めた。
本人もそれが近道であり、唯一の道であると理解して、今も魔法学校で励んでいるが。
「再び聖女に、か」
マリアの赤い瞳に、火が灯る。
腹筋を使いすっと身体を起こすと、肩に掛かった長い髪払った。
そして、軽やかな動きでベッドを下り、机に向かう。
「ふん」
先程までの苛立ちも、鬱々とした気持ちも、もはやない。
凛とした表情はいかにもマリアらしく、自信に満ちていた。
静かに椅子を引いて腰を下ろす。引き出しから便箋を取り出して、机の奥に置いてある使い慣れたそれを手に取った。
シエラとフランネルが壊したのと同じ、ガラスで出来た球体の魔道具だ。
少しだけ魔力を流せば中の黒いインクがゆらりと揺れ、天辺に空いた穴から細く溢れ出た。
それは机に広げた紙へたどり着くと、マリアの筆跡で文字を連ねていく。
会話するよりも早く高速で書かれていく手紙に、自動筆記の魔道具は便利だな、とつくづく思った。
書き上がった手紙を読み返してみると、自然と唇の端が持ち上がる。
「いいさ。お望み通り、聖女に導くとも」
呟きも、すっかり吹っ切れて力強い。
──だって、それが一番の近道なのだ。
聖女候補のシエラが天使のアンヘルを救ったなら、聖女のアンヘルが天使になったシエラを救うことだって、可能だろう。
いや、むしろ。
以前は出会えなかった最難関の闇の精霊だって、既にいる。
それ以上だって充分にあり得るんだ、と。マリアは目の前が開けたような気分だった。
──そう。
可能性は、自分達次第でいくらでも増していけるのだ。
マリアはふん、と彼女らしい笑みを浮かべると、シド・エヴァンズへの手紙に封をした。