気付いたら、『それ』はいつもそこに居た。
──あれはそう、ぼくが物心ついた頃。
自分で“物心がついた”っていうのも変な話だけど、それは兎も角。そんな風に、いつかは判らないけど、でもいつからかは必ず。
明晰夢ってのを知ってるだろうか。
自分が夢を見ている時に“これは夢だ”って自覚出来たり、自分の思い通りに夢を弄ることが出来たり……
正確な定義は知らない。でも大まかなイメージとしては、そんなところだったと思う。きっと大きく外れてはいないだろう。
その日ぼくは、初めて“明晰夢”を見た。
真っ白な空間の中で、すぐに解った。これは夢だ、って。
だって現実にこんなもの居る筈ない。
『それ』は隅っこで、うずくまるみたいにしてこっちを見ていた。
存在があやふやというか、曖昧というか、何というか……言葉では上手く説明出来ないような、もやもやとしたものだった。概念や思念、そんな陳腐なものじゃ表しきれない、そう思わせられた。
なんだかよく分からなかったぼくは、突っ立って『それ』を眺めていた。普通生物は初めて見るモノには恐怖が先行し、慎重になるものだけれど、当時の幼少期のぼくは未知への興味の方が勝った。
『それ』へ向かって一歩踏み出そうとしたのだ。
すると──
──刹那で肉薄して来た『それ』は、目一杯口を開けて、ぼくを──
次にぼくがそこを訪れた時、再びその姿を目にした時にやっと、ぼくは『それ』のことを思い出した。
どうやらここの事は目が覚めたら忘れてしまっていたらしい。そして今、またもや『それ』は泣き腫らしたぼくの前に居る。
虎視眈々と獲物を狙う足取りで、一歩一歩着実に近付いて来て、何故かその場に腰を下ろした。
二回目にしても、ぼくは状況を上手く飲み込めないでいた。そりゃそうだ。あるのは意識が落ちる前の記憶で、気が付けばいつの間にかそこに居たのだから。
『それ』は毛づくろいをしてそこに居た。
その段階で、小さかったぼくはやっとはっとしたのだ。なんで思い出さなかったのか。そもそもこんな同じ夢を見るなんて。
「あ……」
か細く漏れた声に反応したのかしなかったのかは、結局分からずじまいだった。
最後に見えたのは全体を包み込む口腔の裏側で──
思い出す度に不思議な気分になる。虹の上を船で渡るような、ふわふわとした、漠然とした不定形。
何度か見た空白の景色は、記憶の中の光景と何も変わったところは無い。だって何も無い真っ白なんだから。当たり前だ。記憶力の残念なぼくでも問題なしである。
『それ』はとぐろを巻いてそこに居た。
そしてぼくの残念な記憶力を当てにするならば、心無しか『それ』は以前より一回り大きく見えた。
二度目の遭遇の後も、棒立ちによる捕食という二度あることは六度あるぐらいの勢いで立て続けに同じ愚行を犯したぼくは、今回こそは『それ』の魔の手から逃れる算段を立てていた。
辛いのはここに来る機会は多いにしても、全くの規則性がないように思われる、すなわち完全なまでの不定期であることだ。
対策を考えようにもここを出てしまえば忘れてしまうし、当然誰かに相談することも不可能だ。まあ、相談が出来るならこんなに悩むことも無いのだろうけれど。
──嗚呼、しんどい。
珍しくこれまで一向に動いていない『それ』に対してぼくは背を向け、
一目散に走り出した。
夢の中、それも明晰夢の中なら、韋駄天みたいな速さで走れても可笑しくない。初めて出逢った時はそんなことも考えつかないぐらい幼なかったが、今なら容易に思い付いた。……走り続けてどうなるのかは考えてない。でもその内目覚めるだろう。終わらない夢なんて無いのだ。
……気味悪い、永遠無窮に拡がりを見せる流れる風景。
いや、“流れる”って表現は正しくない。
何も居ない、何も感じない、何も変わらない。
ただただ、虚無で埋め尽くされている眼前は、遠近感覚も朧気。
時間感覚も定かじゃない。流石は夢の中。
ふと後ろを振り返ってみると、『それ』の姿はミドリムシサイズも見当たらなかった。
とうとう、遂に、ようやっと、ぼくは逃げ切ったのか。
そうやって安堵が胸に去来する最中。
──突如床から生えてきた『それ』の上顎が、ぼくの両脚を呑み込むのが見えた。
いつだって『それ』はそこに居た。
歳を重ねても、それは変わらない事実だった。
そして最後にはぼくに向かって大きく、大きく、どこからがそれかも不明な口を開けることも不変だった。
そんなある時、思わぬ変化が訪れた。
レヴィンっていう人──どこの国の人かは忘れた──が言うところの境界人、つまりは青年期真っ只中、絶賛高校生活中の頃だった。この知識も高校で習ったうろ覚えの、うつらうつらとした授業の賜物である。
いつもの通り、気が付けばこれから書き始めるキャンパスみたいな白一色が、視界に居座っていた。
もうあれから嫌という程繰り返した記憶の復元を体感しながら、ぼくは辺りを見回す。
『それ』は地面で爪とぎをしながらそこに居た。
たとえ不可解な状況だったり、理不尽な環境だったとしても、人間というものは幾度となく繰り返せば“慣れ”が生じてくるものだ。
そしてこの状況に至っては、“慣れ”はぼくに積極的な行動を促す効果をもたらした。
『それ』の方もまさか思いも寄らなかったのだろうか。野生で生きる生物には致命的な程に無警戒の中だった。
その時ぼくは苛立っていた。多分『それ』の視点から見た高校生男子は、頬も額も眼も、顔全体が湯の沸いたヤカンみたいに真っ赤だったに違いない。
ぼくには目も暮れず、底なんてあるかも分からない地面を掻き続ける『それ』を──
──ぼくは渾身の力で殴り飛ばした。
利き腕に全体重を乗せるようにして、動物愛護団体が見れば狂憤に陥りそうな容赦のない勢いで拳を振り抜いた。
『それ』は一切対応出来ずに、無防備にぼくの攻撃を受け、10メートルぐらい吹き飛んだ。宙を舞った『それ』の動きからして、この空間では『物理法則? なにそれおいしいの?』ってくらい機能していないらしい。
「もう! うんざりなんだよ!! なんなんだよお前は! もう喰われるのはたくさんだ!!」
ぼくの魂の怒号が響く。
どうせこんなことしたってまた最後はいつもと同じだろう。
そう高をくくって『それ』を見遣る。
『それ』はぼくを見詰めたまま、何もすることは無かった。
白じゃない、色の付いた彩やかで艶やかな空間。
見知った部屋の天井。
──目が覚めた。
今回、ぼくに起こった変化は二つ。
一つ、『それ』に喰われずに夢が終わったこと。
もう一つは、夢から覚めても『それ』のことを覚えていたことだった。
「はっ……はは……」
ぼくは歓喜に打ち震えながら、学校へ向かうために体を起こした。
いつだって、『それ』はそこに居た。
望もうと望むまいと、端からそんな答える権利すらないのだと告げる様に、『それ』はそこに居た。
以前殴り飛ばした外傷などない、しかし初めてまみえた時より明らかに成長した姿。
『それ』は落ち着きなく身体を震わせてそこに居た。
何度も見て、何度も味わわれ、何度も相対してきた、正体不明の『それ』。
躊躇うことなく歩みを進め、何かに急かされる様に、自らを突き動かす力に逆らわずに『それ』に近付いたぼくは──
「……」
──そっと『それ』を抱き締めた。熱量を持った両腕で。
「──!」
『それ』は少し身じろいだが、構わずぼくは語り掛ける。
「いいんだよ、もう。ぼくは分かったから」
『それ』の捕食を拒絶し、記憶を残したまま目覚めたその時。そしてそのまま生活を送った結果。
やっとぼくの疑問は氷解したのだ。何故、『それ』は現れるのか。その時期を決定する基準はなんなのか。ぼくを喰べるのはどうしてなのか。
人生で初めて明晰夢を見た、『それ』との初邂逅の時。
その時は、ぼくの父が死んだ時だった。
考えてみればその後も思い当たる節があった。
二回目の時は車に轢かれた時だったし、三回目は母にこっぴどく怒られた時だった。
周囲の同年代に苛められた時もそうだし、何もかも上手くいかなくて死にたいと思った時でもそうだ。
『それ』はいつも、ぼくが黒い感情を抱いている時に現れた。
他人への怒り、自分への諦念、世の中への絶望。特に小さかったぼくからすれば、それは途轍もなく重すぎるモノだったのだ、自分自身が内側から破裂してしまいそうなくらい。
そして不思議と、夢から覚めた後にはさっぱりと爽やかな気分だった。まるで異物を摘出してもらった患者の様に。
『それ』にされたこととその結果起こったこと。因果関係を論理的に結び付ければ、自ずと、否が応でもある推測が導き出せる。
『それ』は、ぼくを壊す要因になるであろうものを喰らってくれていたのだということ。
このご時世、仕事や日常生活での心労が祟って……というのはさほど珍しい事じゃない。
ぼくは小さい頃から、色んなことに敏感──それも過剰に反応していた。
歩けることは“うれしい”。
周りの子どもが昆虫で遊ぶのは“かわいそう”。
空が移り変わっていくのは“ふかふかする”。
水溜まりが蒸発してしまうのは“かなしい”。
誰かが苛められているのは“むかっとする”。
……代わりにぼくが苛められるのは皮膚が裂けるみたいに“いたい”。
そしてそれをずっと溜め込んで、忘れられない。次第に決壊寸前のダムみたいになっていく。
感情が迸り過ぎたのだ。
ある意味人間としては欠陥品なのだろう、ぼくは。誰しもが“折り合い”を付けて、“割り切って”、次へと進むのに、ぼくは沼に嵌まったみたいにぐるぐる廻り続けていたのだから。
欠陥品に待っているのは、確実な故障の運命。
壊れるしか道が無かったぼくは、『それ』に救われていた。
そう、『それ』はきっと────だったのだ。
「きみはずっと、ぼくを護ってくれていたんだね」
「……」
思えば“自分の身体が喰われる”という衝撃的な終わり方をする夢だというのに、それほど大きな恐怖を抱いたことは無かった。こんなぼくでも。
本当に恐怖していれば、記憶を取り戻した瞬間に錯乱していても不思議ではないが、それどころかどうやって逃れようかと思考する余裕すらあった。
きっと『それ』はぼくを傷付けはしないという、謎の安心感が。
……毎度毎度喰べられているというのに可笑しな話だけれど。
「でも、もう大丈夫」
ぼくは前回、『それ』を拒絶した。……それが意味すること。
「ぼくはもう、受け止められる」
ぼくは今や、幼くは無い。
「今が“その時”だったんだ」
『それ』の震えが止まる。
「──ありがとう」
「…………」
『それ』はあるのかないのかよく分からない、でも確実にその目でぼくを眺めて、何かを言いたそうに蠢いた。
腕の中の『それ』は、ぼくの中に吸い込まれる様に消えた。
……埋まった筈なのに、奇妙な喪失感で充たされる。
白い空間は、そこにあるもの全部を、更に濃い白で上塗りした。
──その日を境に、ぼくが明晰夢を見ることは二度と無かった。