最終章
ミーナにくつろぐように言い、俺は二階へ上がった。
俺の部屋の左隣にある兄貴の部屋へ向かい、扉を開けると、こもった空気が異臭と共にたち広がっていた。
とても息をする気になれない中、換気するために窓に向った。
閉じられたカーテンを開き、窓枠に添ってしきつめられていた段ボールを、固定するために張りつけられていたガムテープごとめくりとった。
窓の淵に切り取られた風景には、向かいの家の煉瓦張りの屋根と、すっかり暗くなった世界だけが写し出されていた。
吹き抜ける冷風が火照った頭を冷やしてくれる。
順序も逆にドアの方へ戻り、部屋の明かりをつけ、蛍光灯に照らし出された室内を見渡した。
口をかた結びされた黒いゴミ袋が6袋。
主にティッシュで一杯になったゴミ箱。
二段式の小さな本棚の上の段には、兄貴が唯一読む雑誌であるビジネスジャンプで掲載されているマンガが数種類、どれも不揃いな巻数のまま収納されている。
下の段には介護の専門書が重ねて数冊置かれていた。
俺の部屋と同じでテレビもなければ、コンポもない。
想像通り、質素な部屋だ。
探す手間も省ける。
俺は一番怪しいと思われるベッドの下、本棚の裏など捜したが、見つからない。
今思えば、先の兄貴の発言が嘘だという可能性もある。
探し出すことを諦めてかけた時、窓から剥がした段ボールが不自然に浮いているのに気づいた。
ダンボールを裏返してみると、緑色のゴムで口を閉じられた、小さな黒いビニール袋が貼り付けられていた。
ゴムを外し袋を開くと、中から赤い小箱に入っているはずだったものが、一式揃って出てきた。
心の準備はしていたが、いざ物を目にすると、たじろいでしまう。
小さな透明のビニールタッパに入っているのは白色の粉末。
目を凝らすと灰色も混じっているようだった。
それが五枚ある。
わざわざ黒マジックでモルヒネと銘打ってあるが、母さんの症状からして、そんなに生温いものじゃないだろう。
特徴から言えば、ヘロインかアヘン。
母さんの症状とこの二つの薬がもたらす症状とはすでに照合していたから、ある意味では予想通りだった。
中枢神経に抑制効果をもたらすとか、陶酔感で不幸な感情を上書きするとも本には書いてあった。
いずれにせよ、他の麻薬や覚醒剤よりもよっぽど、入手しにくいはずだ。
改めて、あの人の底が知れない。
幸か不幸か、かつて血眼になり調べた知識が役に立つ時が来たようだ。
俺は一式を手に取ると、ベッドの上に広げた。
注射器、ガーゼ、小瓶に入ったアルコール。
そして、薬の入った五袋のビニールタッパ。
俺はその内の一袋を持ち出すと、洗面所へ向かった。
蛇口を捻り、開けても香らないビニールタッパの中に水道水を流し込んだ。
粉末は瞬く間に水に溶解した。
粉末と水面との接触が測れないほど、あっという間の出来事だった。
部屋に戻ってから、注射器に空気が入らないように気にしながら、手製の薬液を注射器に移した。
静脈に打つのが一番早く効果が表れるという。
体のあちこちに見られた母さんの注射痕も、静脈に沿っていたのだろう。
左腕の第二関節上部を右手で強く握り、黒い血管が浮き出るのを待った。
どうなっても、これからするべきことを忘れるな、頭にそう刻み込んだ。
滅菌処理もせずに、針を刺した。
一度目は狙いが外れ、無駄に皮膚を損傷した。
鋭利な痛みのあと、血だまりがぷっくりと膨らんだ。
野菜をろくにとっていないためか、腕に滲む血はずいぶん黒い。
二度目は慎重に針をさした。
針の周りに血が滲んでいたが、上手く刺さったようだった。
注射器のポンプを押すと、腕に異物が流れ込む感覚がした。
注射器内の薬液がなくなったことを確認し、注射器を抜くと、抜き方が悪いのか、血が噴出した。
ガーゼで傷口をおさえると、ガーゼが血に染まるころには傷口は血の塊でふさがった。
待つ程もなく体が火照るので、着ていたシャツの第二ボタンを外し、手で顔を仰いだ。
よく考えると、小分けされた一袋のビニールタッパが一回分の配分量になっているという保証はないし、例え、一回分の配分量だとしても、末期症状用のものである可能性もある。
過剰摂取だったのかもしれない。
痙攣する体からは汗が止まらず、心臓の鼓動が激しい。
呼吸が荒くなる。
それまでは気にもしていなかった鼻のつまりが、今は呼吸の妨げになる。
薬が体中を駆けずり回っているようで、足の小指まで薬浸けになった気分だ。
抑制効果とはよく言ったもので、体は明らかに異常をきたしているが、確かに快楽的ではある。
なるほど、母さんはこの感覚に逃げ込んだのか。
だが、俺はこれよりもずっと心地いい感覚を知っている。
追い求めるならそっちにする。
ここは気持ちいいが、心地よくない。
これから何をするのか、あれほど反芻していた事さえも一瞬飛んだ。
麻酔を脳みその片側打ち込まれたようだ。
荒い呼吸を抑えて立ち上がると、重い頭にムチ打ち、本棚から介護の専門書を一冊手にとり、思いっきり窓ガラスへ投げつけた。
想像以上に大きな音をたて、窓ガラスは割れた。
スリッパをはく習慣がなかったことが痛手となった。
靴下の状態ではガラスの破片が飛散した床を歩く気にはならず、俺はその場に座り込んだ。
少し動いただけで、マラソン完走後のような肺で精一杯息を吸い込むと、でたらめなカタカナを叫んだ。
すぐに下の階からドアの開く音がした。
そして、鮮明には聞き取れないが、ミーナの声が聞こえてきた。
あぐらをかいてはいるが、背筋を伸ばすのがつらく、床下にガラスの破片がないのを確認してから、俺は両手を胴体の後ろにつき、支えとした。
他人の家を右往左往するのをためらっているのだろうか、ミーナはなかなか上がってこない。高くも低くもない天井を仰ぐ。
ラリっていても、ミーナがここに来るまでの間はつらいと感じる。
これは実際に薬を吸ってよかった。
素の状態じゃ逃げ出すに決まっている。
いや、本当に吸ってよかったと思うのはこれからなのだろう。
優の時にはあれほど冷酷になれた俺でも、ミーナにもそうできるかといわれれば、自信はない。
手に入れるためでなく、手放すために自分を偽れるほど、俺は強くないのだ。
誰かを好きだという気持ちは薬じゃ誤魔化しきれない。
母さんの苦悩が窺えた。
重くなってきた頭を逆さに下げると、固まったミーナの姿が見えた。
アホになりすぎて、階段のきしむ音に耳をすますことも忘れていた。
さあ、ミーナを傷つけるんだ。
脳の指令から時差を生み動く体を待たずして、ミーナが駆け寄ってきた。
「斎藤君どうしたの、血が出てるよ! なに窓・・・ぶつかったの? この注射は・・・病気なの?」
ミーナは優しくて、かわいくて、少し卑屈で、歌が下手。
この先、何年生きたとしても彼女以上に人を好きになるとは思えない。
伝えたい言葉は山ほどある。
喧嘩もしてみたい。
唇や体を重ねたい。
どれも出来ないのは、それが俺に相応しくないからだろう。
「ミーナ、驚かないで聞いてね。これは麻薬だよ」
一番わかりやすい言葉で伝えた。
「何・・・言ってるの」
「これは注射器。でも、怖いことないから安心して」
「斎藤君?」
「俺は薬中ていう病気なんだよ・・・でも、だからといって、駄目なことないだろ?」
ミーナは口を動かそうとしているが、言葉がついてこないといった様子だ。
「もう嫌なんだよ。誰かに裏切られたり、捨てられたりするのは嫌なんだ。ミーナは本当に俺のことが好き?」
硬直した顔をミーナは動かせずにいる。
まだ足りない。もっと怖がらせないと。
「駄目だよ。病院に行こう・・・こんなもの使っちゃいけない」
彼女の震えた手では、針の先に血を固めた注射器を触ることが出来ないようだ。
「これ、いいよ。全部忘れられる。何もかも気持ちいいことになる」
「でも、そのうち良いことだって忘れちゃんじゃない? 本当に全部なくしちゃうんじゃない?」
その通りだ。
「嫌なこと言うね。本当はミーナだってつらいんでしょ? いいよ少しだけ分けたげる。忘れなよ。優や1文のことなんて」
ミーナは腰の動きだけであとずさると、ようやく恐怖におののく表情を見せた。
床にはガラスの破片が広がっているため、わずかな移動の間にめくれ上ったスカートから露わになった白い太ももに、一筋の血が流れた。
赤い。
「なんで、逃げるの・・・本当に大丈夫だから。いつもやってるんだからミスはしないよ。ちゃんと空気が入らないように注射できるよ。絶対、大丈夫だから」
俺はミーナの太ももに流れる血の筋をなめるような目線で追い、傷口を見つけると、まさぐるような手つきで触り、刺さったままのガラスの破片を取り除いた。
「やめて」
頭が痛い。
泣いて懇願する彼女の顔の輪郭が幾重にも映る。
「下手に動かないほうがいいよ」
俺はミーナの体に寄ると、わずかな抵抗を無視し、彼女を抱き抱え部屋の外に倒れこんだ。
倒れこむ時に自分をクッションにしたため、背中に鈍痛が走った。
彼女は激しく抵抗したりはしない。
わずかに手足を動かし、あとは震えた言葉で俺を止めようとする。
止まってしまいそうになる。
だから、言い聞かせる。
好きなら、彼女の幸せを願うなら、鬼になれ。
「わかったよ。そんなにこれ使いたくないならいいよ。使えば何倍も気持ち良いってだけだから、でも、ミーナがいいならこのままでもいい」
俺の言わんとしていることを察したようで、ミーナは廊下を這うように俺から離れる。
ミーナがこちらを向くのを見計らって自分の股間をまさぐってみせた。
勃つわけもないが、ミーナは顔をそむけた。
すぐにここから、逃げ出さないのは混乱しているせいで、答えが見つからないからだろう。
「ミーナは母さんとは違うよな・・・最初はね、あの人は俺を拒んだ。ずっと寂しかった。一番になれないって言ったよね。あれはこの魔法の薬が手に入るまでの話だったんだ。これさえあれば、俺は一人じゃなくて済む。薬を打てば、誰だってすぐに言うことを聞くようになるんだから。母さんは・・・凄くよかったよ。だからね、優にもこれをね、打とうと思ってたんだ。でも、皆が邪魔でさ・・・嫌になるよ。でも、よかった。ミーナはそのままでも受け入れてくれるんだよね。ありがとう。さあ、こっちへ来て」
「嘘だよね・・・こんなの嘘。変だよ。絶対嘘!」
俺はゆっくりと時間をかけて立ちあがり、よろけながらも、一歩一歩をじっくりと踏んだ。
半身不随の脳みそが重荷にしか感じない。
「優は死んじゃったし、母さんは逃げちゃったし、皆は俺の言うこと聞かないし。もういいや。俺の要求が満たされないなら、こんな世界いらないよ。俺が悪いわけじゃないのに、皆・・・いなくなる。俺は何も悪くないのに!」
ミーナは腰が砕けたようで、その背中を丸めて、その場でうずくまるように泣き崩れてしまった。
いますぐかけより、体を起して涙を拭ってあげたい。
大好きだよ、と伝えたい。
あの時とは違う。
抑制作用もどうしたものか、心が冷めない。
壊れきらない。
もう、小石を蹴りたくない。
「て、なに泣いてんの? マジ冷めるわ。あたかも気があるようなそぶりで・・・何、無理やりがいいってこと? そうか、そうなんだ・・・なんて違うね。わかるよ。嫌なんでしょ? 俺が悪いことしたから嫌なんでしょ? だったら、この家にいる意味ないよね。出てけよ!」
もう疲れた。
これ以上、醜態をさらしたくない。
自分を裏切り続けるのもつらい。
「私わかるよ。嘘だって。なんでこんな・・・」
「ミーナ。もう出て行ってくれよ。」
少し気が抜けたのか、言葉の端端に懇願の色が滲んでしまった。
ミーナはゆっくりと立ち上がると、こちらを憐れむような目で見つめてくる。
まとまった黒髪のストレートヘアーは、四方に跳ねている。
肩で息をする彼女はこぶしを握りしめ、直立している。
弱虫だから、彼女の肩から上は見ないようにした。
「出てけっていってんだろ!」
声も気力も振り絞った。
視界が滲んでくる。
物の輪郭に色彩が収まりきらない。
輪郭が流線に乱れ、色彩は飛散している。
抽象画の世界に生きているようだ。
「・・・なんで嘘つくの」
ミーナは歯がゆそうに唇の下にしわを寄せた。
嘘、という発言はどれほどの自信に裏付けられているのか。
最後ぐらい、愛する人のためにくらい、俺を立派なペテン師にさせてくれ。
様々な悔しさにいよいよ涙がこらえきれなくなってきた俺は、ミーナに背を向けて座り直すと、両手を頭の後ろで組んだ。
「俺の近くにいていいのは俺を拒まない奴だけなんだよ・・・お前はアウトだ」
「私・・・ごめんね」
そうやって、すぐに謝る。
本当は気が弱いくせに、よく逃げ出さない。
枯れた喉の代わりに、腹筋を駆使して叫び、床を力の限り殴り続けた。
鈍い音が廊下にこだまする度、彼女は身を小さくするのだろう。
「出てけ!」
目元に力を絞り一雫の涙を落としてから、ありったけの力を込め、鬼の形相を作った。
後ろを振り向き、殺気を放ちながらミーナをにらみつけた。
気圧されたのか、ミーナはうつむくとゆっくり立ち上がった。
そして、口に手をあてがいながら、おぼつかない足取りで、体重のほとんどを手すりに預けながら階段を下っていく。
「もしこの家に警察が来たら、俺は即座に手首を切る。意味わかるよな?」
彼女は返事をせずに、荷物を取りに行ったのだろう、リビングのドアを開け閉めしてから、玄関から変わらぬ足取りで出て行った。
俺にも出来た。
あれほど渇望していた最愛を放棄した。
好きだから、相手の笑顔を望むから、頑張れた。
この部屋で、俺の血痕やら薬の使用した跡やらが発見されたら、兄貴は警察に追われることになるだろう。
それ以前に、母さんを監禁していた痕跡も残されたままだ。
ミーナが俺の発言を警察に伝えるならば、俺達は共犯ということになる。
兄弟そろっての近親相姦容疑だ。
ワイドショーは盛り上がるだろう。
親戚の加藤さんは発狂するかもしれない。
兄貴は母さんが死んだことの一因を担っている。
罪滅ぼしをしなくてはならないのだから、丁度いいだろう。
罪には罰。
因には報。
そういうものだ。
靴下を脱ぐと、ガラスの破片も一緒に抜けた。
痛覚ならとっくに麻痺したようだが、後のことを考え、足の裏を避け側面で歩きながら、リビングに向かった。
責任の所在を明らかにするための遺書を書こうと、ソファー手前のテーブルに向かうと、先ほどまではなかったルーズリーフと、その上に見覚えのある腕時計が置かれていた。
チープなピンク。
紙を裏返すと、涙だろう、円形の染みがぽつぽつと目立ち、丸みの帯びた文字が記されていた。
「これは私にとって大切なもの。だから、必ず返してね」
瞼をこすった。
キラキラ光るラメがまぶしかった。
1階の洗面所で、信じられないほどの勢いで嘔吐した。
自分の胃にこれだけのものが詰め込まれていたのかと、感心してしまう。
うがいをしても、喉の奥のほうで酸味が残る。
詰まっていたはずの鼻水も滞りなく流れゆく。
頭痛も治っていない。
それに寒い。
ただ、半分程度しか機能していない脳みそから生まれる陶酔感も多幸感も、増幅している。
リビングに戻り、冷蔵庫から麦茶をとり、喉に流した。
ボールペンはテレビの上に無造作に置かれていた物を選んだ。
大学ノートはキッチン近くの引き出しから取り出した。
兄貴と俺が家計簿として利用していたもので、基本的に毎日更新される。
月単位で新しいノートに買い替えるのだが、今日は十月三日。
このノートにはまだ数ページしか書き込まれていない。
俺は書き込まれたページをまとめて、破り捨てた。
更に同じ引出しから、数枚積まれた長形封筒の一番上のものを取り出した。
ソファーに座り、ミーナの時計を手に取った。
フォルムがプラスチックで仕上げられていて、凄く軽い。
最期の瞬間まで持っていたいが、そこからミーナへの純粋な好意を悟られたら、すべて水の泡となる。
彼女にとって、どのように大切なのだろうか。
本当はごみ箱の中で発見されるぐらいのほうがいいのだろうが、どうしてもその気になれず、ミーナの置手紙と一緒に端によけた。
ボールペンを使い、優と同じように、生徒一人一人に五十音順で、東あずまから書き始めた。皆に自分のせいで迷惑をかけ申し訳なかった、という趣旨の一言書きを寄せた。
ミーナのところにも特別扱いすることなく、皆と同じような言葉を綴った。
優のところには、遺族宛てとして、俺があのような凶行に走った理由を正直に綴った。
はたから見ても、優への執着は俺が自殺する一番の根拠となり、余計な憶測を予防できるし、親子の関係がどうであれ、大切な子供を奪ってしまったことに対し、純粋に優の両親に謝罪したかった。
気持ちが表れやすい筆圧に気をつけながら最後には、このまま罪悪感に苛まれ続けるぐらいなら、死をもって巻き込んでしまった全ての人間に償いたい。これで元通りになることを願う、と記した。
出来上がった遺書を折りたたみ、封筒に入れた。
優へのこだわりを演出するには出来すぎだろう。
こうして、模造された1封を見ると、一連の悪夢のような出来事は茶番にも思えた。
思えば、一人で奔走し、迷走し、今に至るのだ。
俺が自殺したとなれば、さすがに世界も動くだろう。
主犯が死ねば解決、などというほど事が簡単に済むのかはわからない。
それでも、ご都合主義の大人達がそれを結末とする可能性は十分にある。
俺の願いという大義名分もあるわけだし。
無駄に犠牲者を増やしたくはないから、遺書にはララと田仲の名前を書かないことにした。
だが、最悪のケースとして、良心の呵責などにより、1文の皆が完全なる事実を暴露し、田仲やララの名前が挙がることも考えられる。
かけたくも保険として、二人に直にコンタクトをとることにした。
家電のメモリーには二人の電話番号が登録されている。
優を陥れようと画策していた時期に、有時に備えて聞いておいたのだ。
まずは田仲にかけることにした。
待歌にゴスペラーズのスタンドアップミーがしばらく流れたあと、留守番電話につながった。謝罪の後、今回の事に対する俺なりの償い方を説明し、もしも田中がいじめの主犯格として疑われるようなら、俺にいじめを受けたくなくば協力するように脅迫されたと言え、と残した。田仲はあそこまで優を追い込むつもりはなかっただろうが、優への復讐心はあったはずだ。
そのことを素直に認めれば、世間の田仲に対する評価はいじめっ子の一人になるだろうとも言っておいた。
この伝言は消し、この後に残す伝言の方に、俺が田仲を脅迫したことへの謝罪の言葉を残すので、いざという時のためにそちらだけをとっておくようにと言った。
1文の皆の視点に立っても、あいつの消極的な態度と行動はそれで説明がつくだろう。
田仲の今後の人生に俺の存在が影響しないことを切に願う。
電話を切ると、リダイヤルを押し、同じ待歌を聴き過ごし、先の趣旨の謝罪の言葉を、演技しながら残した。
次はララ。
俺のことを信頼していてくれた分、彼を裏切ったことは罪深い。
ララが俺にどれだけの信頼を寄せていたかを正確に知る由はないが、もし、俺の優に対する気持ちと同じようなものならば、ララが受けた傷はとても深い。
噂には聞いていた通り、ララの待ち歌はゼーターガンダムのテーマ曲だった。
ララが得体のしれない電話番号を認め、電話をとるかどうかはわからない。
謝罪のチャンスがほしいような気もすれば、このまま留守電につながってほしいという弱い心も俺の中には潜んでいる。
もし、俺が携帯電話を持っていたとしても、ララも田仲もきっと着信拒否にしているだろう。そう考えると、これは不意打ちだった。
サビから始まったガンダムの曲が途中でララの声に変った。
「はーい、こちらはララですよ」
よかった。相変わらず元気な声だ。
優のいじめが成立したあの日から、ララは1文に寄りつかない。
1文との関係を一切、断ったということなのかもしれない。
生徒達からは、ララもいじめの首謀者の一人として認知されたはずだから、かつての威光も消え失せたことだろう。
「こちらは斎藤昇。少し時間をいただけませんか少佐?」
どう言ったノリで話すか考えた末、わけのわからないことになってしまった。
「へー」
ララがこの瞬間に、電話の相手を特定したのは明らかだった。
「よく・・・かけられたねー。ホントいい度胸だよ!」
違和感を覚えるほど、声が跳ねている。
ララという個性的なキャラクターに覆われた素顔が垣間見える。
徹底されていた、ララの「自己管理」がほころんでいるのには、憎しみが作用しているとしか考えられない。
「いくつか伝えたいことがあって・・・ね。まずは謝らせてくれ。俺はララに取り返しのつかないことをした」
「うん。だね。おかげでぼろぼろですよ。信用なくしたし。もうね、ただのデブになっちゃいましたよ」
「でも、ララならまたあの時の地位を築けるよ・・・俺はそう確信してる」
「あんま勝手・・・言わんでくんない」
ララが、いない。
どれほど個性的なキャラクターでも、本質はそう人と変わらないのだろう。
やはりララも自分を見せてきたのだ。
「悪い」
「斎藤君・・・反省しなさい!」
明らかに意識して、声はもとの調子に戻ったが、斎藤君という呼び方は田仲を似せている。
嫌味だろう。
信頼していた相手から悪意を受ける。
ミーナの話が本当なら、優も今の俺と同じような気持ちを抱いたのか。
「どうしてもララに伝えなきゃいけないことがあるんだ」
俺は田仲に残した伝言とほぼ同じ内容をリピートした上で、図らずとも1文の皆にはララの行動は積極的に映っている可能性があるので、田仲がやり過ごすよりも困難だろうと伝えた。
「本当にごめん」
「嘘をつけってこと?」
「1文の皆や田仲、それに俺自身が全ての責任は斎藤昇にあると認めてるんだ。他の人間の意志もある。恐らく、それが事実になる。いや、そもそも事実なのかもしれない、それに、優は心の底では皆が裁かれることなんて望んじゃいない」
都合良く、優の意志を言いきったことに呵責した。
何言ってるかわかんないけど、また良からぬことを企んでるんじゃないでしょうね、とララは声を尖らせた。
「信憑性ないだろうけど、俺は責任をとりたいだけだよ。皆を巻き込んだのは俺だしね」
「へー」
ララの仏頂面が目に浮かぶ。
「それとこの期におよんでお願いなんだけど、鈴木美奈・・・ミーナのことを見てやってほしい。これは優の意志なんだ。俺にはできそうにもないから、ララに頼むしかないんだ」
「君はよく頭が回るよ。頼み方が最高だね・・・僕も優一君の遺書の内容は知っているよ。彼が美奈ちゃんを好きだったことも。義理もあるわけだからね。いいよ。彼女を気にかけるようにはするよ。まあ、ただのデブですから、限界はあるんですけどね」
「ありがとう。あと、俺がララに今日電話で話した内容は記憶からも記録からも末梢してほしいんだ。特に間違ってもミーナには伝えてほしくない」
「今度は何する気なの?」
「罪滅ぼしだよ。せめて優の望んだ世界を残したい。それにはララの協力が不可欠なんだ。俺のためじゃなく、優のために・・・優が望んだ「事実」を認めてくれ」
俺は最低だ。
でも、優は心の底から誰かの不幸を望むような奴じゃない。
俺は盲目だけど、そのことだけは自信がある。
「最後に聞かせて。昇りーは優一くんのことを嫌いだったの?」
「いや、もっとも大切な友人だった」
「じゃあ、僕は利用されただけ? 駒にすぎなかったの」
「ララだって大切な友達だったよ。でも、俺が必要としたのは優なんだ。」
「・・・そっか、なーるほど。わかったよん。美奈ちゃんのことは任して。僕ができる範囲のことはするよ。そして、彼女のことも含め僕と君の会話は消滅。はい、パーペキン。では、そろそろ、ララ・スファン帰還しまーす!」
受話器の向こうで間髪入れずに喋る男は、ララでなく神田太郎。
「本当にありがとう。それじゃあ・・・」
「待って! 昇りー・・・死ぬ気なんでしょ?」
その言葉を受け取る準備ができていなかったから、ドキっとした。
皆して察しすぎだろ。
「昇りーは悲しんだね。声から伝わってくるよ。君の陰はいっそう濃くなってる。証拠に、あんなにしてやられたのに、いまだに君と話すとゾクゾクする。相変わらず、君は僕の「お気に」だ」
「嬉しいね。優しんだなララは」
「でも、いい加減、僕も学習するよ。君が人に何かを話すってことは、もう決心しているってことだね。何を言っても、何をしても、遅いんだろうね。昇りーの心にしこりを残すだけだ・・・いつだって、僕ちんは君のお粗末な計画のなかに組み込まれた肥満な歯車に過ぎないんだよねん。くるくるくるくる回すだけー」
「ごめん」
「とはいえね、僕に託したのは事実なわけだし、懲りもせずに張り切らせてもらおうかな。どうせなら、高速で回転してやるさ・・・なんて。まったく、どこまでも背負わせてくれちゃって・・・うい、逝ってきんしゃい!」
声を震わしてよく言う。
「ありがとう。ララ」
静かに受話器を置いた。
視界が滲んでいる。
死ぬ間際っていうのは、こうも涙もろいものなのか。
あらかた支度を整えると、一昨日買った甘ったるいアンパンをストレートのコーヒーで喉の奥に流し込み、家を出た。
服装に悩んだ末、学校へ行くなら学ランが良いだろうとしたが、白い吐息がその装備では不備だよ、と警告していた。
辺りは思ったよりも明るく、もう、朝方だった。
ドアに慣れない鍵をかけながら、この家が無人な時はほとんどなかったことを実感した。
鍵をボストンバックに放り込むと、我が家に別れの一瞥をした。
茶色い煉瓦の下で陰になりながら、俺の部屋の閉め忘れた窓口でカーテンがはたはた揺れている。
風を感じる者などいないのに、普段通り今日の風を受け入れている。
この家はすべてを見てきた。
おかげで、俺達の色に染まってしまった。
そんな、不幸な家だった。
学校へ行く前に、一つだけ寄り道をすることにした。
少し迂回して、貝殻公園の前まで来た。
青いベンチの上にはサラリーマン風のスーツを着た男が、仰向けのまま寝むっていた。
下には缶ビールの空き缶が数本転がっている。
日が出始めて間もないのだ。
当然、少女達はいない。
男が眠っているこのベンチで、少女達を見守った。
あの子達は相手が自分を愛していると知っているから、相手の笑顔を望んだわけじゃない。
ただ、愛しているから、笑ってほしかったんだ。
そうだよ、本当に簡単なことなんだ。
決めていた通り立ち止まるだけにして、再び学校を目指した。
頭がボーとするので、真っ直ぐ歩くことすら難しい。
最後の散歩道となる全ての光景を、噛みしめるように歩みを進めた。
銀杏の匂い。色の落ちた紅葉。電柱の隅に隠れる野良猫。
毛色は黒くないのだから、苦しまなくてもすみそうだ。
そして、何様か、仰々しく左右にそびえるこの校門。
何百回とここをくぐり、さまざまな感情を喚起したあの校舎へ向かったのだ。
今は左右の校門の間に鉄格子がしかれ、通り抜けできないようにされている。
格子に顔を近づけ、その隙間から脇にある監守室を覗いたが、人気はない。
死にに行くというのに、学校に侵入するという異常な事態に、ほんの少しワクワクしている。散々、背徳的なことはしてきたというのに、こんなことに胸が昂るというのも妙な話だ。
セコムが鳴らないように気を配りながら、格子を乗り越え、50メートルほど奥にある校舎へ歩みを進めた。
塗装し直された校舎は好きになれない。
俺が優や皆と笑っていられたのは、この校舎の色合いがくすんでいたころだった。
手前まできて見上げてみる。
七階建ての校舎はたいして日も差してないのに、憎たらしく照り返している。
ここにきてようやく、さっきまでとは別の動悸がしてきた。
天を仰いだ。
空なんかじゃない、俺が見ているのはその先だ。
きっと、この悪夢を終わらせてみせるから、それでいいよな?
本当に優に聞こえそうな気がして恥ずかしくなり、すぐに顔を下ろすと、震える右足から校舎へ踏み入った。
自分用に割り当てられた靴箱に、律儀にもコンバースの靴をしまって置くのもしっくりこない。
余裕を疑われたくないし、なにより屋上で遺書の上に置かれた靴というのが自殺の相場だ。
清掃の行き届いた新品の床を土足で踏み歩く。
アスファルトに寝そべるような気分だ。
校舎の中は、窓から滲む薄明るい日光と、人工的なものでは非常用出口のランプが緑色にボウッと発光しているだけだが、全体の明るさは視界に困るほどではない。
購買の近くに備え付けられた時計を見ると、短針は三の数字を指していた。
見回りの人間がいる気配も感じない。
階段を上るたび、カツカツと、乾いた高い音が響く。
念のため、音を立たないようにつま先からかかとにかけ、重心を移動させるように歩いた。
いつかとは、正反対の歩き方だ。
薬の持続時間など知った記憶もないが、ここにきて薬の副作用だろうか、麻痺感もそのままに、同時に気だるさも感じるようになってきた。
それに加え、ここにきて体温が異常に下がりだした。
上下の歯がガチガチぶつかる。
足取りが重い。
そういえば、足の裏を怪我していた気もするが、依然痛覚は鈍ったままだった。
二階につくと、二年文系1組を目指した。
引き戸に備わる摩擦ガラスごしに覗けた濁った視界に、記憶を付け足して教室の景色を見る。早苗は人恋しいからと言い、いつも中央の席を希望した。
ミーナや数人の女子達は休み時間になると、いつも早苗の席の周りに集まり、わいわいと騒いでいた。
他にいくつかの女子のグループや単体の者もいた。
男子は小泉に集まる奴らと、bully、東とその仲間達、権藤と本田のように二人ペアでつるむ奴ら、オセロにベランダを独占する俺達五人。
思い出すのは楽しかった記憶ばかりじゃない。
教室の後ろに置かれたロッカーには仮面を被せた優を詰めた。
ダースベーダーなんてはやし立てて。
一番前の真ん中の席。
ここで、ガムテープでがちがちに固められて、下半身を丸出しにしながら、あいつは俺に笑いかけてきた。
そして、俺の願いのままに、一番最後に映し出される光景は、やっぱり、優と早苗とミーナで過ごした平和な日常だった。
「ごめんなさい。俺はこれから償いに行ってきます」
擦りガラスに頬を寄せ付けながら、一人で喋った。
お別れだ。
我が家を見つめた時とは違う感覚を覚える。
きっと、こっちの方が家族に対する感覚に近いのだろう。
名残惜しさを振り払ってその場を立ち去ると、屋上への階段を無心で上った。
薄い鉄扉の前に立つと、一息ついた。
ここで全てが決まるのだ。
事態が複雑すぎて死後の予想は難しいが、犬死するつもりはない。
期待できるだけの条件を整えるために、俺は死ぬんだ。
俺という存在が消える。
ミーナの愛情も握りつぶした。
悲しむ人はきっといない。
でも、それでいいんだ。
最愛を受けないから、相手の幸福を望めない、その考えはもう捨てた。
本当に相手のことを愛しているなら、それだけで希望の光は灯せるんだ。
鈴蘭だって構わない。俺にとってあなたが桜なら。
深呼吸を一つ。
おさまらない動機と汗。
更にもう一回。
逝こう。
鉄扉の外では、雲一つない澄んだ空が出迎えてくれた。
しゃがんでコンクリートの床をなぞった。
ここが最後に踏む大地となるのだ。
そう考えると、ザラついた大地をなぞる手が震えた。
屋上の四方には俺の背の丈よりある網目状の鉄線が張られているので、ここからは飛べない。乗り越えて跳ぶことはできても、助走をつけられないから飛べない。
だが、屋上の端には、ここよりもう一つ高い場所が設置されている。
畳八畳分ぐらいのスペースがあり、助走するには十分だ。
なにより飛ぶ障害となるものがない。
俺は梯子を上ると、この校舎で最も高い位置に到達した。
体はすっかり冷え切っていて、高所の強風は更にこたえる。
校庭がよく見える。
土張りのグランドを陸上部用の白色トラックがぐるっと一周囲んでいる。
その内側はサッカー部や、ラグビー部の領域だ。
反対側にはテニスコートがある。
コンクリートのハードコートが四面。
雨天の時なんかは水はけが悪く、芝張りにしてほしいと福部長の東が嘆いていたものだ。
ずっと奥には小田急線側の町田駅が、その左には総合遊戯施設の大きなボーリング型のオブジェがある。
住宅街の方に目をやったが、さすがに自分の家を確認することはできなかった。
かじかんだ指先を精一杯広げてから、空を掴んだ。
母さんはどんな顔をして俺を向かい入れてくれるのだろうか。
良い意味でも悪い意味でも、やっぱり私の息子だった、と包容してくれそうな気もする。
ゆっくりと、端に向かった。
端に到着すると、ボストンバックから遺書を取り出し、脱いだ靴の下に敷いた。
家を出る前に新しいものに代えたくるぶしソックスは、結局血に染まっていた。
バッグはその横に放っておいた。
また、深呼吸をしようとしたが、上手く酸素が吸えないので諦めた。
何重にも折りたたまれた作文用紙を学ランの胸ポケットから取り出した。
折り目が統一されていないから、くしゃくしゃだ。
破れないように慎重に広げた。
どちらかといえば丁寧な丸みを帯びた文字。
女の子みたいで嫌だから、今は角ばった字を書く。
前にこれを読み返したのは入学式の時。
わけもなく、その日を一年の節目とし、読み返すように習慣づけていた。
目を通すと懐かしさがこみ上げた。
作文を適当に折りたたみ右手に収めた。
これからすることを考えると、お守りとも言えないか。
ヒーローの言いつけは守れなかったが、心意気は買って欲しい。
50メートル走のスタート時のように姿勢を低くする。
体が硬直する。
本脳が走るな、と警告しているようだ。
薬も生存への反応を衰えさせはしないらしい。
がやがやしていたころの、1文の皆の顔が浮かぶ。
彼らが受験に勝ち抜くことを信じている。
もう、震える原因が恐怖からなのか、寒さからなのか、自分でもわからない。
命の鼓動が悪あがきする。
あと少し、勇気がほしい。
最愛の女性たちの歌声を反芻する。
同じ旋律を奏でているわけでもないのに共鳴する二つの歌声は、絡み合い、見事なハーモニーを生む。
柔らかな曲線が上下して、昇る所はグッと力強く、時には優しく。
生きろと詠ったマイヒーローよ、呆れながらでもいい、勇気をわけてくれ。
美しい歌が形を帯びてくる。
青い空の真ん中で、朝日が煌々と光っている。
旋律が目先を駆け抜けた。
さあ、追いかけよう。
鼻歌で彼女たちの歌声をなぞった。
大丈夫、走れるさ。
後ろに下がる足に力を入れた。
鼻歌をやめ、胸をおさえ、全神経を耳に集中させた。
歌は頂に手をかけた。
同時にスタートを切った。
優、見届けてくれ。
加速した。
足のかかとが尻につくように蹴りあげて、加速した。
遅れた涙が後ろに飛ぶ。
空までもう少し。
加速した。
腕を振って邪魔な感情を振り払うように、加速した。
空が近い。
怖くない。
飛べるさ。
歌はとうとうその頂に上り詰めた。
究極に心地よい感覚が俺を包み込む。
それこそ、薬なんか話にならない、久しい、あの時の感覚。
言葉にならない不思議なそれ。
最後の一歩が地面を蹴りあげた。
風に乗って、飛んだ。
空をかいた。
飛んでいる。
つかの間の浮遊感は消え、体は落ちてゆく。
死は真下にある。
それなのになんと心地いいのだろう。
心の中に甘味が広がった。
苦手なアンコの味だった。
「お母さんは、ぼくにどんな人間になってほしいの?」
「そうね、どこかのヒーローさんみたいに、勇ましくて優しい子になってほしかな。でも、今のままでも十分よ。ねえ、あなた?」
「ああ、そうだ・・・な」
「お母さん、じゃあ俺は? 俺は何になればいい?」
「正、あなたはそうね・・・昇を守ってあげれるような強いお兄さんになってあげて」
「ねえお母さん、ぼくは自分のかおを切ってあげたりできないよ」
「昇・・・違うの。顔じゃなくて心をわけてあげればいいのよ。さあ、こっちへ来て。昇、歌ってあげる」
「昇、お前にとって母親って何?」
「うん? ああ、大事な人・・・かな。なんで急に?」
「いや、俺にとって母親ってなんだろうって思えてね」
「まあ色々あるだろうけどさ。俺は優を生んでくれたその女性に感謝だね」
「おお気持ち悪い・・・じゃあ仕方ないから、俺もお前の母親に感謝するかね」
「斎藤君て、親の話とかしないよね」
「家は母子家庭だから、苦労話になっちゃうんでね」
「あっ、そうなんだ・・・お母さんはどんな人なの?」
「どんなって・・・ミーナに似てるかも」
「ほんと? それ、なんだか嬉しいよ」
「そう、笑い方とかよく似てる」
すごくゆっくりと、体が落ちていく。
―彼女たちは歌う―
母さんはさえずるように歌う。
音程を取っている様子はない。
むしろ、歌声に音程がついてきているようだ。
調子の外れたミーナは心で歌っている。
音程など気にしない、素直に自分の歌を歌う。
風が体の両端に切れていく。
―彼女たちは響く―
こぶしを固め、両手を前に突き出した。
手の中で作文が潰れる感触がした。
地面が、優や母さんが、近い。
ミーナが、遠い。
もっと鮮明にあの時の感覚が蘇ってくる。
―彼女たちは微笑む―
桜のように微笑む。
自分のことを愛せた、あの頃のような穏やかな気持ち。
愛することに満足した、あの頃へいざなって。
―彼女たちは抱き寄せる―
僕を優しく包みこんでくれる。
すごく暖かい。
心が温かい。
風はもう吹かない。
土色の死は目の前。
それが待ち遠しくすら感じる。
―彼女達は響いた―
「昇、歌ってあげる」
ぼくはふしぎに包まれた。
読了ありがとうございます。
お暇があれば、アンパンマンのマーチを実際に聴いて頂きたいです。
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その際にはインターネットで検索することをお勧めします。
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