八章
学校を休んでから二日目の水曜日。
世界は動かないまま。
それもそうかもしれない。
優が死んだ翌日でさえも学校は開かれ、マスコミは騒がず、一部を除いて生徒達は談笑していたはずだ。
しかし、校長が記者会見を行えば、それを皮切りに社会が牙を向く。
状況次第では、その対象は俺だけではすまない。
ダムが決壊した時のように、多くの「周辺住民」が被災することになる。
俺は再考していた。
やはり、このままではつけを支払うのに、今一つ足りない気がする。
優への償いを完成するためには、死のほかにも、するべきことがあるのではないか、と。
―俺も何かを失いながら朽ちていくべきだ。
結果、その答えに行き着いた。
自分が考えた通りに事が進んだ試しはないが、それでも、俺は複数のことを同時に処理するには、手順を踏まずにはいられない。
校長から言い渡された猶予期間の内の1日目。
内罰は今日のうちに完了する必要がある。
今となっては断ち切るほどのものかどうかも怪しいが、それでも、愛情が全くないわけではい・・・というと、自分ですら、内罰を成立させるための言い訳に聞こえる。
家族とは何なのだろう。
血がつながっていれば家族なのか、それとも、食卓を囲めば家族なのか。
俺も兄貴も母さんも、そして、父でさえも、血はつながり4人で食卓を囲んだこともある。
それだけのことで俺達を家族と呼ぶのなら、そんな言葉に意味はない。
今朝、兄貴はいつものように朝食を摂りにリビングへ降りてきた。
今日は祝日で、幸いなことに兄貴の仕事は休みだった。
食事を済まし、食器を下げ終え、すぐに二階に上がろうとしたところを兄貴に引き留められた。
こうして、今、俺達は食卓をはさみ向かい合う形となっている。
「昨日のことはなんだ?」
この人はもめごとはその日のうちに忘れる、という我が家の暗黙のルールをいとも簡単に破ってのけた。
付け加えるなら、お互いに干渉しないというルールも多分存在するのだが、それもずいぶん破ってくれる。
食卓の隅に置かれた爪楊枝入れから一本の爪楊枝を取ると、それを口にくわえるわけでもなく、呑気にいじくっている。
「意向にそぐわなかったのなら謝るよ」
「何を他人事みたいに、お前の問題だろ。これからどうするんだよ」
兄貴の手の中で、爪楊枝の先はつぶれてまるまった。
この人の俺に対する感情がわからない。
兄貴はよく言えば繊細だから、人に対する感情も、計り知れないほどに複雑なのだろう。
距離をおいてきたから、俺も兄貴もお互いを知らない。
「なんで俺を気にかけるの? 母さんとの約束・・・だから?」
「兄弟だからだ」
へしおれた爪楊枝をゴミ箱に投げ捨てると、新しいものをまた取り出した。
もしかしたら、兄貴は俺に対し、母さんを独占したことで申し訳ない気持ちを抱えているのかもしれない。
「・・・そっか」
俺はこの人の弟で、あの人達の子供。
忘れてしまいそうなぐらい希薄な、忘れることができないぐらい重い、そんな関係。
俺は浅い座り方に疲れ、深く椅子に座り直した。
「ねえ兄貴、たまには昔話でもしない?」
「なんだよ急に・・・構わないけど」
たいして潰れていない爪楊枝がごみ箱に吸い込まれるのを確認すると、兄貴は後頭部に両手を回し、椅子の後ろに体重をかけた。
「憶えてる? 兄貴と俺と母さんと・・・それにあの人でフィンランド行った時のこと」
フィンランドは森と瑚の国といわれている。
国土の七割が森で一割が湖というのだから頷ける。
俺達家族にとって、最も美しく悲しい思い出がそこにはある。
「ああ、そりゃ覚えてるよ。確か・・・行きの便の時、あっちの空港の問題で着陸できないとかで、3時間ぐらい空の上ぐるぐる回ってたよな。昇は泣き喚めいて、皆を困らせてたな。乗客の目がすごくてな・・・キャビンアテンダントの人がアメやらジュースやらくれたんだが、てんで効き目はなかったな」
「まあね、アメの味なんて感じなかったんじゃなかったのかな」
「まあ、小さい頃はそんなもんなのかもしれないけど、でも、母さんがあの歌を歌うと・・・すぐに泣き止んだな」
そう、母さんがあの歌を歌えば俺はいつでも、強くいられた。
兄貴も俺が抱いた感覚までは知らない。
誰も、きっと母さんでさえも知らない、俺だけの感覚。
記憶を呼び覚ますのもいいが、最後に一度くらいリアルにあの感覚を味わいたい、なんて贅沢な願い。
「ああ、あの時兄貴はどうしてたっけ」
意地悪のつもりだ。
「よく覚えてないな」
いつもそうだ。
兄貴は父の話をしたがらない。
俺は確かに覚えている。
兄貴は父の隣の席に座り、文句一つ言わず、じっとこらえていた。
たまに、母さんの隣に座る俺の席を見定めると、嫉妬の表情をよこした。
父の方が俺達の席に近い側に座っていたため、奴が腰を回したり背伸びをしたりと、何らかのアクションを起こすたび、俺たちの間には壁が生まれた。
すると、嫉妬にまみれた兄貴の顔すら見えなくなった。
「あの飛行機の中、母さんはフィンランドの自然について、しつこく語っていたんだ」
「ああ、お前からその話は聞かされたことがあるよ・・・ぐったりした。そう言ってたな」
兄貴は前かがみの座り方になっていた。
家族の思い出話は好きだろう。
他愛もない会話で盛り上がれないこの人が、可哀想に思えた。
「そう話したね。じゃあさ、これも母さんに教わったんだけど、フィンランドの国花は憶えてる? 確かこれも話したよね」
「・・・桜って、日本以外にも咲くっけな」
真顔でよく言う。
「鈴蘭だよ」
鈴のような形をした花をつりさげる、香り高き多年草。
その紫を母さんは桜の次に愛でた。
「そう、鈴蘭か」
彼は斜め上を見上げている。
どうせ、鈴蘭の絵をイメージすることすらできていないだろうに。
愛される努力をしないくせに、愛されることに貪欲だと、こういう人間が生まれてしまうのか。
「あの国・・・忘れられない記憶だ。あの空のこと憶えてる? 信じられないくらい素敵だった」
「ああ、それなら憶えてるよ・・・ミッドナイトサンだろ? あれは凄かったな」
国土は北極圏にまたがるため、夏には夜になっても太陽が沈まない恒久の白夜、ミッドナイトサンとなる。
時間が経過していくと、空は闇に包まれていくというよりは、そのブルーを濃くしていく。
フィンランドの旧都トゥルクで、たたずまいのある石壁のホテルのベランダから、父さんに寄りそいながら、母さんは涙を流して白夜を見つめていた。
母さんは風景に涙を流す美しい人だった。
兄貴も俺も、あの男には勝てなかった。
俺達兄弟は、細かい内装までがルネサンス風に統一された室内で、日本にいる時と代わらぬ孤独を、二人で共有することもなくそれぞれに抱えていた。
「三人でまた行きたいな。今度はあいつもいないし・・・母さんもきっと良くなる」
もう取り戻せない過去なのだ。
「今度は兄貴の肩を貸してやればいい」
「その隣で昇は歌ってもらうか?」
兄貴は前歯を覗かせた。この人が笑うとは珍しい。
「いや、俺はいいんだ」
「・・・なんだよ、それ」
ここにきて、遠慮がちにする兄貴は狂気の沙汰だ。
「俺は行けそうにない」
「昇?」
ミッドナイトサンに涙を流した女性は、優と同じ所にはいないのかもしれない。
俺達の血筋は地獄へと導かれるのだとしても、文句は言えない。
「兄貴、俺の周辺は色々詮索されることになる。まずいだろ? 母さんを連れてこの家から出て行ったほうがいい」
「急に何を?」
兄貴の眼光が鋭くなった。
「時間がないんだ。今日中に荷物をまとめて出て行くべきだ」
「なんだ・・・それ。冗談か」
机の上に置かれた彼の両手がカタカタと音を立てている。
「至ってマジだよ。これは兄貴のために言ってるんだ」
テレビの真上に吊るされた時計を見ると、もう四時三十分を過ぎていた。
俺は兄貴に一言断ってから席を立ち、ソファーにほっぽられたリモコンをとりに向かい、そのままそこに腰を下ろした。
「おい・・・昇」
テレビをつけると、弾みのあるアンパンマンのテーマソングが流れてきた。
よかった、まだサビは迎えていない。
俺にとってのヒーローは仮面ライダーやウルトラマンでなく、この3頭身のヒーローだった。
「おい、言ってる意味がわからないぞ」
机の端に置いておいたチャンネルに、兄貴の手が伸びてきた。
俺はチャンネルをテーブルから払い落とした。
落ちたショックで、カバーが外れた。
飛び出した電池は板張りの床ではバウンドすることもなく、ころころと転がった。
驚きの色が兄貴の顔に浮き上がる。
「・・・なんのつもりだよ?」
「大事な話の最中悪いね。でも、これだけは欠かせないんだ」
「アンパンマンか・・・妙に大人びてるくせして、こういうとこは相変わらずなんだな」
「いいよ。見ながらでも喋れるし。兄貴よく聞いてくれ」
兄貴は困惑したような表情を浮かべると食卓の椅子をソファーの方へ向けて、座り直した。
思えば、俺達兄弟がこの三人掛けのソファーで、隣同士に座ったことはなかった。
「お前、何を考えてるんだ?」
「俺はこれからやらなきゃならないことがある。それまでに兄貴が母さんを連れて出て行かなければ、二人はもう一緒にいられないと思う」
「だから、何をする気だ」
「それは誰にも話すつもりはないよ。兄貴、時間がないんだ。今決断してくれ」
長い間、沈黙した。
画面の中では、アンパンマンが自分の顔をちぎって、困っている人に差し出している。
別に、この人と屍がどうなろうと知ったことではない。
これはけじめなのだ。
むなしいが、俺に断ち切ることができる絆はこれぐらいしかない。
「話にならないな」
兄貴は呆れるように顔を腕の中にうずめた。
このままでは、ラチがあかないので、事を荒立てることにした。
いつものように、テレビの画面に視線を逃がす兄貴に対して噛み付いた。
「兄貴、なんであんたがこのシーンを直視できるんだ?」
いつだって、欠けた満月のようなアンパンマンに俺は憧れ、嫉妬する。
腕にうずまっていた顔が、のそりと上がる。
「さっきから、なんなんだお前」
兄貴の口調が一変した。
アンパンを食べたキャラクターが、彼にお礼の言葉を述べている。
「なあ、知ってるか? カマキリの雄はいずれ雌に食われる運命にあるんだ。それでも、彼は彼女に愛情を注ぐ」
これが兄貴との最後の会話になるんだと思うと、本音が溢れ出でてくる。
「あんたって、俺にいってんのか? 口の聞き方違うだろ」
「あんたなら食われれるまえに食ってやる、そんな発想になるだろう」
空を飛ぶアンパンマンの背中に笑顔が乗る。
「お前、気でも触れたのか?」
母さん、あなたの息子は二人そろって屑だった。
「いつか言おうと思っていたんだけど、あんたは屑だ」
「なあ、いい加減にしろよ。追い込まれてるのはお前だけじゃないんだぞ」
兄貴は立ち上がり、俺の後頭部を相当な力ではたくと、本体の主電源を消そうとテレビの前でかがんだ。
俺は兄貴の体を蹴り飛ばした。
硬い背筋を足裏で感じ取った。
兄貴がまだ上空を飛ぶアンパンマンの横でつぶれた。
「そうしてると、ちょうど雄のカマキリと雌のカマキリが並んでるみたいだね」
このコントラストは今までのどれよりも、醜い。
「なに・・・してんだよ。死ぬか?」
怒りの巨漢が目の前に立ちはだかった。
「自分を脅かすから?」
「あー?」
「自分が可愛くてしょうがないから?」
「お前・・・さっきからなに言ってんだよ?」
もう偽る必要はない。
思いの丈を言葉にする時がきたのだ。
「あんたがまともに人を愛せないのも無理ないな。でも、肉欲だけは確かか」
俺はハハっと笑ってみせた。
兄貴の顔から血の気が引いていく。
俺の言ってることが理解できたのだろうか。
「お前、絶対変だよ・・・使ったのか?」
ああ、そういう方向の解釈か。
俺はもう一度ハハッと笑った。
「薬の事? あんたがせっせと稼ぎ、俺がしっかりと守った金で買ったんだろ?」
「マジかよ・・・打ったのか?」
臨戦態勢に入っていたはずの兄貴は俺の目の前でひざまずいた。
「薬の売人て、自分は使わないらしいよ。使用した人間がどうなるのかを知ってるからね。あんたはどうせ使ってないんだろ?」
「打ったんだな。ああ、なんてことしてくれたんだ・・・くそ、お前まで壊れたら俺はどうすればいい」
「母さんを犯せばいい」
最悪の目覚めだった。
兄貴の口がパクパクしている。
思考を修正し、俺がさっき言った言葉の意味を正しく汲み取ったらしい。
「そうだろ?」
女座りになった兄貴がたじろぐ。
「ちが、違う! 俺は・・・」
「出てけよ。母さんは連れて行っていいから」
「違うって」
「それとも警察に全て話そうか。兄貴が実の母親相手に薬を買い与えて無抵抗な状態にした後、自分の歪んだ性癖を満たしているって」
そして、愚かな弟はそれを黙認した、と。
「ニュースだぜ。一面飾れるだろ。そうだ。この狂気に満ちた時代にもそうそうある事件じゃない」
週刊誌なのでは、いじめ問題を取り上げた上で、異常の連鎖反応とでも題されるか。
「昇、違うんだよ。俺は・・・俺は・・・違うよ。悪いのは俺じゃない。母さんがいけないんだ。俺を愛さなかったからいけないんだろ!」
兄貴のセリフに二度はっとした。
一度目はこの人は鏡だ、ということ。
俺の歪んだ部分だけを映し出す、醜い鏡だ。
二度目は俺達兄弟は、相手の笑顔が自分以外に向かうことを許容できないということ。
遠い昔に置き忘れてきたものが、今再び蘇ろうとしている。
「あんたに選択肢は無いよ。はやく出ていけよ。そうすれば、あんたが作り上げた生活が今すぐ壊れることはない」
あの時、取り残された兄弟の立ちすくむ部屋に注ぐミッドナイトサンのほのかな光線が、ぐちゃぐちゃになった兄貴の顔を照らし出したのを見て、この人は母さんの弱い部分を色濃くついで産まれたのだ、と哀れに思った。
「おまえ・・・ひどい奴だ」
ここにきて的確なことを言うので俺は頷いた。
その場に座り込むと、頭を抱えたまま、兄貴は何も言わず考え込んでいた。
やがて、のろりと立ち上がると、リビングから出て行った。
階段を上る音が聞こえ、しばらくして、下る音が聞こえた。
俺は玄関に向かった。
玄関では兄貴が母親の屍をおぶり、ドアを開けているところだった。
大きなリュックサックを二つ、手提げかばんのように腕にぶら下げている。
「兄貴」
「なんだよ」
「母さんはいつ死んだのかな?」
「まだ、ここにいるだろ」
「俺にはそう映らない」
「・・・じゃあな、昇」
恨めしいといった眼で俺を見つめてくる。
「うん」
「お前はひどいやつだよ」
兄貴が靴ひもを結び終えた。
「うん」
「その・・・一応言って置く。お前は一人で生まれてきたわけでも、成長したわけでもない。お前だけの体じゃないんだ。俺はともかく、母さんの悲しむ顔はお前も見たくないだろう」
「兄貴の悲しむ顔だって見たいわけじゃないよ」
「はぐらかすなよ。通帳はリビングの戸棚に置いたままだ。口座番号は紙に書いてそこにはさんである。学費の1年分ぐらいはあるのかな」
両手のふさがった兄貴は、腰の動きだけで母さんを背負い上げた。
寂しくなんてない。
「金なんていいよ。どうせ使わない」
「それと、薬・・・少しだけ残しといたから。注射器の針はちゃんと消毒しろよ。空気は入らないようにするんだぞ」
最後まで、挙動も思考も読めない。
わからないな、この人だけは。
「もう行きなよ。じゃあ元気でね」
決めていたように、兄貴には肩をすくめてお別れをする。
兄貴は哀れむような目を作って、わざとらしく首を横に振りながら静かにドアを閉めた。
掴みきれない愛情を握りつぶしたところで、どれほどの罪滅ぼしになったのだろう。
背後からアンパンマンのエンディングソングが流れてくる。
俺はこのヒーローにとりつかれているのかもしれない。
エンディングソングを聴き終えてから、テレビの電源を切った。
・・・しつこい。
禊ぎというわけではないが、風呂で体を流し終え、丁度、歯磨きをしているところだった。
けたたましくインターホンが鳴るものだから、無視することもできず、2、3回うがいをした後、手の甲で口を拭い、玄関に向かった。
玄関の扉を開けると、滲んだオレンジの夕日が薄い雲の向こうでたたずんでいた。
ずっと手前で、見覚えのある制服に身を包んだ美しい少女が、その半身をオレンジ色に染められて、姿勢よく立っている。
「誰かと思えばミーナだ。どうしたの?」
「うん。急にごめんね」
「俺なんかの家に・・・なんで?」
艶ややかな黒髪は、夕日を受けてもなおその色を失っていなかった。
同じ黒にも色々あるんだな、としみじみ感じた。
「話したいことがあって」
「そっか・・・光栄だね」
ミーナに対する罪の意識を忘れているわけではない。
それでも、軽口でしか彼女と話すことはできない。
自分で言うのも寒いが、照れ隠しといったところだと思う。
相変わらず、困ったように笑うミーナをむかい入れようと彼女の傍に立つと、半分は照らされていた彼女の笑顔を包み込むように影が落ちた。
「っ、ごめん」
「どうして?」
「いや、色々。とにかく上がっていきなよ。ミーナがよければだけど」
「うん、私の方こそ急に押しかけたりして・・・ごめんね。でも、どうしても伝えたいことがあって」
その笑みに陰を落としたのは紛れもなく俺だ。
ミーナはもともと騒ぐタイプではないが、それでも今の彼女は明らかに普段より元気がない。忘れるどころか、こうして顔を突き合わせることで、申し訳ない気持ちが一層強くなる。
「俺もあるんだ。ミーナに伝えたいことが」
直に伝える機会はないと思っていたが、よかった。ちゃんと謝れる。
そして、彼女の潔白をはっきり伝えられる。
いつの日か再び蘇る陰りのない彼女のためにも。
二人きりで会話する時はいつも空白が生まれないようにと間延びした、どこか調子外れな会話を続けたものだが、相も変わらず、俺達はそんな調子で会話をしながらリビングまでたどり着いた。
「あのさ、新宿の約束、破ってごめんね」
「うん。平気」
こうしていると、ミーナの俺に対する憎しみの気持ちが感じ取れない。
彼女の過度な優しさは、好きな人を殺した奴すら憎ませないのだろうか。
ミーナをソファーに落ち着かせると、俺は食卓の椅子を回して座った。
先の兄貴との構図と寸分違わない。
落ち着いてみたところで、ミーナと家の中でこうして向かい合っているのはなんとも奇妙な感じがする。
「なんかこうしてると変だね。恥ずかしいっていうかさ」
そんなに露骨に恥らわれると、こちらの顔が火照ってくる。
「ミーナはモテるくせに、相変わらず男子に対する免疫はないんだ」
椅子の背もたれの上に置いた腕に顔を乗っけた。
「全然そんなことないよ。私なんて全然・・・て、違うね。ごめん。本気にしちゃった」
彼女は褒め言葉を素直に受け取ろうとはしない。
美人のくせに少し卑屈なところがあるのかもしれない。
それも彼女の魅力だ。
欠点を愛することなんて造作もない。
ミーナと話していると、最初は照れ隠しで軽い調子にしていても、時がたつにつれ、普通に恥らい、最後はただ押し黙ってしまう。
そんな俺を見かねた優に、ウブか! とよくからかわれたものだった。
優はあの時、どんな気持ちで俺達を見ていたのだろう。
悲しいが、俺が二人を見ていた時と同じ感情は抱いていなかっただろう。
俺達三人の関係は正三角形ではなかったのだ。
「・・・うん。とにかく用事ってなんなの?」
いつものように会話が滞るのが嫌で、俺は本題を取り上げた。
そもそも、俺達は二人の時間を楽しむためにこうして話しているのではない。
互いに目的があるのだ。
優を殺したのは俺だから、ミーナをこの家に向かいいれた時点で、どんな仕打ちを受ける覚悟もできていた。
「私からでいいの?」
「構わないよ。どうしたの?」
「斉藤君は罪を全て一人でかぶるつもりなんでしょ? 校長先生から聞いたの」
予期せぬ告白に胸がざわめいた。
校長は保険をかけておいたようだ。
俺のミーナのへの感情を嗅ぎ付けてのことか、それとも単に名簿の順番で決めたのか、ともかく、余計なことをしてくれた。
「今は校長先生に諭されて、その考えを改めたよ」
「信じていいの? それは本心なの? 斉藤君、変なこと考えてないよね」
校長は自分の推測までミーナに伝えたということか、わかっていたことだが、あの人も必死なのだ。
「自殺ってこと?」
ミーナは気色ばんだ。
優のことがあったから、きっと自殺というものを身近に感じているのだろう。
「そんなことはしないよ。生きて償うよ。それともミーナは俺に死んでほしい?」
ゴムの伸びるような音がした。
ミーナがソファーのビニールシートを鷲掴んでいた。
「そんなわけ・・・ないよ。なんで皆そうやって・・・私は誰にも死んで欲しくなんかない!」
罪と罰は均衡しなくちゃならない。
どうして、俺だけがのうのうと生きられるのか。
「ごめんね。優を死なせて本当にごめん。俺、知ってたのに。ミーナが優のこと好きだって。ただ、誤解しないでほしいんだ。俺が優を追い詰めたのはミーナの事とは関係ないんだ。俺は自分があいつにとって何でもないと知った時、ひどく孤独に打ちのめされた。あいつは俺にとってただ一人の親友だと思ってたからね。俺も友達としてだけど、きっとミーナと同じくらいあいつのこと好きだったんだと思う」
明らかに他の女子達と接し方が違うわけだから、当然、ミーナも俺の気持ちには勘づいていると思う。
今となっては、さぞかし迷惑なんだろうが。
「なんか余裕なんだね。自分が死ぬって時まで私のことを気遣ってくれるなんて」
「死ぬとは言ってないよ。さっきのはもしもの話」
ミーナがそれを望んでいてくれれば、俺はもっと楽だった。
彼女が玄関の前に立っていたとき、俺は罵倒されるものだと思っていた。
そうであればよかった。
「私ずっと思ってたんだ。優一君は自分を誤魔化さずに真っ直ぐで、誰にでも好かれる。対照的に斉藤君はいつも自分を隠してた。ダースベーダーの仮面を被らされたのは優一君だけど、斉藤君はもっとずっと前から何か他の仮面を被っていたんだと思う。二人は親友なのに、変だね」
涙を浮かべて、優一という名前も、そして、俺の名前を言う時もすごく苦しそうにする。
「優が俺に何をされたか、早苗から聞いたの?」
ミーナは違う、と即座に否定し、早苗は斎藤君のこと、と言いかけた途中で止めた。
驚きはしなかった。
そうでなければ、早苗の行動には説明のつかないことも多々あった。
色々と気にはなったが、俺に何を訊く資格もない。
それに、どうせ俺は彼女の気持ちには応えてやれない。
誰でもいい、というわけではないから、俺は今ももがき苦しんでいるのだ。
また自分を嫌いになったところで、話を戻した。
「親友か。安心した。ミーナの目にもそう映ってたんだ。勘違いしてたのは俺だけじゃないらしいね」
「ほら、わかってない・・・ほんとに何も。鈍感な上に思い込み激しんだね。遺書、私の名前だけなかったでしょ」
驚いた。
責めるような口調のミーナも、口数の多いミーナも初めて見たからだ。
早苗の気持ちを代弁しているようにも聞こえた。
「うん。そうだったね」
「実はその前の日、電話があったんだ。私全部聞いたの。優一君は確かに甲斐君は特別だと言ってたよ。でも、斉藤君も大切な友達だったとも言ってた。二人はやっぱり親友だったんだよ」
「ごめん。なにもわかってないのはミーナの方だよ。俺は優を特別に想ってた。他の連中なんかと比べ物にならないほどあいつのことを特別に思ってたんだ。ミーナの話を聞いて、自分が友人Cじゃないということがわかったのはせめてもの救いだけど、俺はあいつの中で一番でありたかった。改めて実感させられたよ。やっぱり、俺は甲斐には勝てなかったんだ」
「なんでそんなに一番にこだわるの?」
「俺は求めた人から一番に想ってもらったことがないんだ。母親にすらも一番には愛されなかった。それでも当時は十分幸せだったけど、失ってから気づいたんだ。愛する人を自分の元に引き留めておくことは、その人に最も愛された人間だけに許された特権なんだ、てね」
違う。気づいたんじゃない、忘れたんだ。
俺は愛することの意味を忘れていた。
「斎藤君?」
「きっと皆が思ってるより、愛が注がれる順番は重要なんだよ。もし、俺が一番に想われるような人間なら、母親はまだ俺の側にいたはずだ。優にしたって同じことが言える。俺が愛されないような人間だから、世界に不幸を振りまいてきたんだ。兄貴にしても同じだ。あいつにいたっては三番手とかだったから・・・歪んだ」
違う。本当に愛せていなかったんだ。
「家族・・・大変なんだね。今はいないみたいだけど、別のところに?」
俺は首を振った。
「ミーナが羨ましい。求めてる人からしっかりと求められてる。俺がそれを奪っちゃったわけだけど」
そう言い終わる前に、目を伏せた。
「そうは思えない。私は優一君と・・・それに斉藤君のお母さんが羨ましいかな。同じ感情で思われたらそれはそれでちょっと困るけど。でも、それでも・・・斉藤君に想われてるのはやっぱり羨ましい」
何を言っているのか。
早苗が乗り移ったとでもいうのか。
「ほんとにいいよ。そーゆーのは。慰めてるつもりかもしれないけど、俺はそんなことされる立場にいないんだ」
「私は本気だよ。私は・・・斎藤君が好き。一番に愛されないって、ひどいよ。早苗も私もカウントしてもらえないんだ」
ミーナの潤んだ瞳がこっちを直視しているのを感じる。
到底向かい合うことなどできない。
俺に向かって好きだ、と真っ直ぐと言い放つミーナが恐ろしい。
「なんで俺なんか」
恐怖を誤魔化したくて立ち上がったが、逃げられない。
ミーナは潤んだ瞳で、じっと俺を見据える。
「わからないよ。優一君のほうがずっと積極的なのにね・・・ごめんね」
ミーナの大きな瞳から、雫がこぼれた。
「俺にそんな資格なんかないだろ! 優のことはもういいのか? 死んでしまったからってそんなに簡単に忘れられるものか?」
「違う! 優一君のことは一生忘れない。でも・・・私が好きだったのはずっと斉藤君だし、きっとこれからもそれは変わらない」
怒号にも臆することなく、嗚咽をかみ殺して喋る彼女は目をそらそうとしない。
俺は押し負けるように下を向いた。
優に突き飛ばされたあの日、大切な誰かを失う予感を抱いた時と同じか、それ以上に怖い。
この場から逃げ出したいとさえ思う。
一番に愛される。
自分が求めたものが返ってくる。
かつてない、未知のこと。
それだけじゃない、理由がわからないというのも俺を恐怖させた。
「やっぱり迷惑だった?」
「違うんだ。ただ困惑して・・・慣れてなくてさ」
体裁を取り繕うために、鼻をこすった。
「ごめんね。こんなこと言って」
零れたに涙は一筋の道を作っていた。
なぜ、それがいきつく先が俺の胸でなければならないのか。
「なにが。ミーナは正直に気持ちを伝えてくれた。何も謝ることはないよ」
ミーナが泣きじゃくる先にいるのは、俺じゃなく優であるべきなのだ・・・鈍感だった、それでは済まされない。
早苗の時とは違う。
それは俺にとってあまりに唐突な事実だった。
ミーナをどうすればいいのかわからない。
ミーナは俺を好き・・・それでは俺の自殺を望むはずもない。
「ねえ、私も自分の本当の気持ちを言った。だから、お願いだから、斎藤君の本心を聞かせて。何をする気なの? 斉藤君がこのまま黙ってるつもりなら、私は帰らないよ」
「俺は・・・」
「なんで斉藤君だけが悪いの? そんわけないよ! 私だって何もできなかった。ホント言うとね、私は・・・優一君がいじめられるのがつらいからっていうだけで、休んでたわけじゃない。一番つらかったのは斉藤君が・・・壊れていくのを見ること。それで、結局、あんなに大切に想ってもらってたのに、私は優一君を助けられなかった、助けようともしなかった。本当なら私だって赦されないのに」
先に進むにつれ言葉の輪郭がぼやけていき、最後は嗚咽になった。
ミーナに自分を責めさせてはいけない。
優だってそう考えたからこそ、遺書にミーナの名前を書かなかったはずだ。
俺も優もこの女性を想っているのに、彼女は泣いている。
彼女の必死な姿を見ると、最後の時まで纏うときめた仮面が剥がれそうになる。
優にベーダーの仮面を被せて、あいつから、あいつを奪った俺が、どうして自分だけ仮面を脱げるというのか。
理屈ではわかっているのに。
ミーナはソファーに垂れたスカートの両裾をぎゅっと掴みながら、零す様に言った。
「ずっと見てたんだから、わかるよ。斉藤君も死ぬ気なんでしょ・・・ずるいよ。そんなの」
今日のミーナは強い意志を持ってここにいる。
本当はそんなに強くないのに。
ミーナは流れる鼻水や、涙を手の甲で拭うと、ソファーから立ち上がり、俺の元へ歩み寄って来る。
足に力が入らないのか、ふらふら歩く彼女が、かつての早苗と重なるようだった。
俺は立ち上がり彼女の元へ駆け寄ると、両肩をがっしりと掴んだ。
冬服のブラウの肌ざわりは、思っていた以上に柔らかかった。
なで肩で、それになんてきゃしゃなのだろう。
強く掴めばつぶれてしまいそうだ。
本当にガラス細工のよう。
顔を上げない彼女から聞こえてくる息の詰まった苦しそうな呼吸が、耳をさした。
彼女を抱きかかえるようにしてソファーに座らせてから、彼女と視線の位置を合わせるよう腰を落とした。
真っ直ぐと、視線を彼女の瞳に合わせた。
「聞いて。俺は死なないよ。約束する。生きて、生きて償うよ」
ミーナは顔を上げることもなく泣き崩れた。
愛する人が、自分のことを一番に想ってくれている・・・そして、俺のために泣いてくれる。
求めても決して手に入らなかった相思がここにあり、俺が求め続けていた人がここにいる。
まだ少し怖いが、それでも一層強まったミーナへの想いは正直に認めなければならない。
愛している。
ずっと、忘れていたその感情を、俺は今はっきりと思い出した。
そして、この愛は彼女の愛を拒否する。
改めて確信した。
もうなにがあっても結末は変わらない。
ただ、やるべきことが一つ増えただけだ。
どうやら、ミーナの悲しみを和らげるために、俺は最大の内罰を行う。
泣きじゃくるミーナは、記憶の底から早苗の悲痛に歪んだ表情を呼び覚ました。
彼女は今頃、俺以上の絶望を味わっているのかもしれない。
俺は悲しみを生み出す存在だと、痛感させられる。
気を抜けば、美しい彼女を抱きしめようとする腕の力をそっと抜いた。
二人分のティーカップに、やかんに入れて沸騰させた熱湯を注ぎ、それぞれにティーバックを浸した。
ミーナも甘いものが苦手ということで、ストレートの紅茶を二人ですすることになった。
落ち着いた? という問いに対し、彼女は目じりを落として頷いた。
熱いのが苦手なのか、彼女はゆっくりと時間をかけて紅茶をすすぐ。
「ミーナさ、アンパンマンとか知ってる?」
知ってるよ、と微笑み返してくれたミーナにさらに質問をぶつけた。
「知ってるとは思うけど、俺アンパンマンのファンなんだよね。まあ・・・ね」
忘れもしない高校一年の二学期。
珍しく遅刻してきた甲斐が粛罪のネタに話したのが、キャラにもなく俺がアンパンマンを崇拝しているということだった。
即座に否定してしまえばよかったのかもしれないが、マイヒーローを裏切るようで抵抗があり、黙っていたら認めたとされ、クラスに爆笑を誘った。
似合わなすぎて面白かったらしい。
優以外に話した覚えはなかったので怒心頭で優を睨み付けると、頭を下げ合わせた両手を前に突き出すごめんのポーズを繰り返していた。
後で聞いたが、優が甲斐の家に泊まりに行った時に、不幸にもアンパンマンが放送され、爆笑した優は甲斐にしつこく、なぜか、なぜかと食い下がられ、絶対に言わないと約束した上で俺の秘密を話したらしい。
どんな事情であれ、朝礼後、優に爆切れしたのは言うまでもない。
あれ以来、ところどころで、アンパンマンネタでいじられているので、俺のアンパンマン好きは校内では周知の事実だった。
「それも知ってるよ」
精一杯の意地悪か、彼女は笑っている。
お互いに(ある程度は)本音をぶつけあえたからだろう、この1時間でずいぶん打ち解けられた。
優の時にも思ったが、絆というのは時間で深まるわけじゃない。
きっかけが重要なのだ。
あれほど臆していた俺も、いつのまにか彼女の世界に足を踏み入れている。
闊歩とまではいかなくとも、四つん這えになって進むこともない。
その世界での足取りは思ったより軽かった。
「で、いろいろ事情があり、これからアンパンマンのビデオ見ようと思ってんだけど・・・平気?」
ミーナは両手で口をかばい、眼に涙を浮かべ、笑いを噛み殺している。
笑わせているのではなく、笑われているのだとしても、やはり嬉しい。
舞い散る桜のように儚げなその笑顔に、胸の奥が熱くなる。
ミーナは少し元気づいたようだが、これから俺自身が彼女を奈落の底に落とすことになるのだから、にわかな優しさなど逆に残酷なんじゃないかと思えてきた。
俺が描く結末にはやっぱり勇気が不可欠で、それをアンパンマンから分けてもらおうと決めていた。
マイヒーローの活躍を、最期にこんなにも愛しい女性と見られるなんて、俺にはもったいない幸福だ。
もちろん、いつまでもミーナとの時間を楽しんでいるわけにはいかない。
ここを出るまでに、ミーナを突き放さなくては。
もし、俺がミーナの気持ちを受け取ったら、社会は彼女もいじめの主犯の一人とみなすかもしれない。
マスコミは細かい事情よりも、切り抜かれたインパクトの大きい事実にくいつく。
ミーナはきっとぼろぼろになってしまう。
人格を否定されるぐらいなら、恋に傷つくほうがマシだろう。
彼女は目の端を片方ずつ拭っている。
ブレザーの裾から、ピンク色の腕時計が覗けた。
キラキラ光るラメが眩しい。
「別にいいけど。変なの・・・どちらかといえば、カッコつけてるほうなのにね。でも、早苗も言ってたけど、そのギャップはいいと思う。なんかね・・・かわいくて」
よく早苗にかわいいねー、とからかわれていたのを思い出す。
思えば、早苗も俺に気があったわけだから、二人の関係も単純なものじゃなかったのだろう。俺もミーナも・・・優も早苗も、微笑ましい青春をしていたわけだ。
そう、高校生だったんだ。
「それはありがとう。じゃあ、上映会といきますか」
俺はビデオデッキを上に載せた、世間では遺産扱いのビデオテープが収納されたボックスから、この日に見ると決めていた作品を選びとった。
―アンパンマン 誕生―
題名通り、アンパンマンが産声を上げたのがこの作品だ。
「どれにしたの?」
髪の毛を指で梳かす彼女に尋ねられた。
もう二、三ヶ月もすれば、また肩にかかるぐらいまで伸びるのだろう。
「あーアンパンマンの第一話だけど、それ以上訊かないほうがいいよ。俺、熱く語って100パーセントうざくなるから」
「もう何も訊かないけど、お手洗いの場所だけ教えてほしいな」
彼女をトイレまで案内し、気遣いのつもりでゆっくりでいいよ、と言うと、すぐ終わるよ、と赤らめた顔でミーナはトイレの扉を強く閉めた。
こんな風に少し彼女に嫌な顔されただけで、落ち込むようじゃ先が思いやられる。
リビングで、ビデオがすぐに見られるように調整していると、トイレの水洗の音が聞こえ、言葉のとおり、彼女はすぐに帰ってきた。
居心地悪そうにするミーナに余計なことは言わず、ソファーを勧めた。
二人掛けのソファーの片側にはすでに俺が座っていたのだから、思うと、果敢な挑戦だった。ミーナが座るのを待ってから、一度立ち上がり、少し奥にあったテーブルをソファーの手前に持ってきた。
そのまま食卓に置かれたティーカップを二つ手に取ると、自分でやるよ、というミーナを制して、テーブルにそれを並べた。
薄い口紅のついたカップをミーナの座る近くに置いた。
改めて腰を下ろすと、密接しないと気付かない程度の残り香が鼻をくすぐった。
メロンのような甘い香りだ。
こんな状況でも身だしなみに気をつかっているか。
本当に俺のことを思ってくれているのだろう。
どうしたの、という問いにこたえる代りに、俺は鑑賞開始を彼女に知らせた。
リモコンの再生ボタンを押す。
音楽と映像が流れだす。
最後の宴が始まった。
アンパンマンのマーチが流れ出すと、眼をつむった。
記憶が蘇ってくる。
何度、母さんとこの作品を見たかは覚えていない。
まさか、その作品をこうしてミーナとともに見ることになるとは夢にも思わなかった。
主題歌も終わり、キャラクターがしゃべり始めたころ、俺は目を開けた。
すると、真横で俺をまじまじと見つめるミーナを視界の外れで捉えた。
そう何度も近距離でミーナと視線を交わす度胸はない。
俺は擦れるほど見たビデオの内容に魅入ったふりした。
流れ星に乗ってきたアンパンマンをバイキンマンが追ってきて、バタコさんが捨て犬を拾い、チーズと名づけ、記念すべき初めてのゲストキャラとして天丼マンが登場し、バイ菌マンに大事な天丼を食べられて、それに怒ったアンパンマンがバイキンマンをお風呂でごしごしして退治。
この時はまだ、必殺技のアンパンチもバイバイキーンの捨て台詞も確立されていない。
録画した時から何十回とこの作品を見てきたのだから、カオスな展開も、声優の不慣れも気にならない。
30分きっかり、もう暗記した放送時間の間ずっと画面から目を離さなかった。
スタッフロールとともに流れるエンディングソングも、やはり主題歌にはかなわない。
ボリュームをゼロまで絞り、期待しながら言ってみた。
「俺さ、主題歌のほうが好きなんだよね」
するとミーナは鼻歌で歌い始めた。
本人は気付いてないようだが、だいぶ調子が外れている。
歌が上手かった母さんと比べると滑稽にも見えるが、近い。
彼女の歌は母さんの歌と、どこか似ていた。
どこかの部分は、多分おれの心内にあるのだろう。
もう少し、あともう少しで。
邪魔する形になったが、自分の世界に浸りそうな彼女の目の前で、手をぶんぶん振りまわした。
「ね、歌詞をラだけで歌ってよ」
ミーナは笑いながら承諾すると、ラだけで歌を紡ぎ始めた。
ほんと全然違うのに、ずいぶんと・・・
「もうちょっと、バラード調で」
「もっとゆっくり」
「なんていうか、そう、包み込む感じで」
ミーナは戸惑いながらも、俺の指摘した部分を調整していった。
母さんの歌声とミーナの歌声が、音程や声色を超えて調和する。
融合するわけではない、それぞれを保ったまま絡み合う。
それにより生み出される旋律は、心に懐かしく響いた。
結局、曲の一番が終わるまで彼女も切り上げることなく、俺は最後まで聞き惚れてしまった。
「なにこれ?」
笑顔で首をかしげる彼女は、母さんのようにやはり美しい。
感じられる美しさの質は違う。
自然と薄いピンクの唇に目がいく。
それをミーナに気付かれそうな気がして、俺は彼女から顔を背けた。
「俺の母親がアンパンマンの歌をよく歌ってて、それで懐かしくなってね」
「お母さんのこと大事に思ってるんだね」
「・・・どうだろうね」
顔が歪むのが自分でもわかった。
「変なこと言ったかな」
別に、と笑いながら、俺はリモコンを手に取り、真っ青な画面に向かい停止のボタンを押した。
「俺の母さんはね、胸に傷を負ってまで自分を生きることができなかったんだよ。ほら、この歌の歌詞では、胸に傷を抱えてでも生きろ的なこと言ってるでしょ。あの人はそれが出来なかった」
俺は違う。
俺自身、つらい現実から逃避するために、それらしい言い訳を並べ立てているだけではないのか、と己の心内に潜むかもしれない可能性に怯えていたが、彼女を前にしてなら、その邪推をきっぱり否定できる。
彼女達の未来のために、俺が罪を清算するのだ。
心のどこかで、罪を背負ってでも、彼女と共に生きていきたいと強く思ってしまっている自分を自覚できるのが、何よりの証拠だ。
自身、曖昧だった結末の捉え方が大きく好転した。
全てはこの子のおかげ。
「自分を生きる・・・なんか、難しいね」
「だからって、逃げちゃ駄目なんだよな」
素敵な女性達が勇気の歌を奏でてくれた今なら、きっとこなせる。
彼女達はそんなことを望んで俺に歌って聞かせたわけじゃないだろうが、それでも俺は感謝している。
彼女の世界が居心地いいものだから、つい長居してしまったが、頃合いだ。
窓から見える空の色合いが、刻一刻と迫る、この美しき世界との別れの時を知らせていた。