六章
優へのいじめが正式に成立するか否か、その決定が下る日。
いつものように学校へ赴いた俺は、戸を横に引くなり教室をざっと見渡した。
期待を超えていたせいか、朝の教室は恍惚として見えた。
教室の後ろに並べられたロッカーの下で、ベーダー卿は昨日と同じように転がっていた。
セーターは羽織っていなく、白いワイシャツにこびりついた上履きの足跡はあらかじめプリントされていたようにも見える。
どうやら2対2で、彼をボールにサッカーをしているらしい。
亮太の取り巻きである、義人、慶介に加えて小泉も参加している。
審判は亮太が務めていた。
亮太・・・恐ろしい奴だ。
この世に俺よりも性悪な人間がいるとしたらこいつくらいだろう。
亮太は俺の描いた作戦に添って動いていたが、彼の持つ展開力は俺の予想をはるかに超えていた。
「うら、エラシコ」
「こっちはマルセイユ」
華麗なサッカーの技の応酬。そられは全て優に向けて繰り広げられていた。
優の頭が左右に揺れた。
その姿を見ても、何の感情も湧いてこない。
でも、それでいい。
今の俺を動かすのは使命感だけ。
最初は意志だったのかもしれないが、結果に差異がなければどちらでも構わない。
「くそ、足裏で転がさないと動かねー」
観客は男子生徒二人、遠めに見ているので定かではないが、恐らく、菊池と吉田。
二人ともかつて、学級委員に立候補していた気がする。
特に楽しそうには見えない。
試合にもギャラリーにも女子は一人も参加していない。
試合の開催地からもっとも離れた場所になる、黒板の手前にある教壇近くの窓際で3、4人の女の子が固まっている。
わきあいあいとはしていない。というか話をしていない。
別にもう一つの女子グループが、長年使用されていないヒーターの前に形成されていた。
位置としてはさっきのグループより、少し、優に近い。
他の女子生徒は個々に椅子に座りじっとしている。
その中ではっきりと泣いているのがわかるのは2、3人だけで、残りの4、5人は机に突っ伏していたので表情が読めなかった。
佐藤と俊樹の姿は見えない。
欠席でないのなら、ベランダにいるのかもしれない。
男子も大半が机に座っていたが、黒板側の引き戸近くで、権藤と本田が地べたにあぐらをかいていた。
この二人と話したことはほとんどない。
二人は俺が教室に入るのに気づくなり、急に立ち上がり詰め寄ってきた。
「お前! よくもぬけぬけと」
「ああ、おはよ」
机に向かおうとすると、権藤が腕をつかんできた。
「この嘘つきやろーが、はめやがって・・・」
「おい、やめろよ。こんな奴にかまうな。ほっとけって」
本田が俺がそうする前に、権藤の腕をふりほどいた。
「決めただろ。関わんないって」
亮太から報告は受けていた。
携帯電話を媒体に「今後の身の振り方」についての連絡網がまわったらしい。
このメールを最低でも、D組の仲の良い四人の生徒に回して下さい。
他のクラスの人には回さないほうが身のためです。
決断! アバウトい・じ・め。
今日は衝撃的な展開が続きました。
しかし、俺達が優一を連れて教室を出ることを黙認した時点で、皆さんはもう選択したことになります。
クラスの選択なのですから、皆さんには従ってもらうほかありません。
恐れながら、今後の身の振り方を提示させてもらいます。
今回の選択肢は3つあります。
1、いじめに参加する。
2、黙って見てる。
3、ベーダーを助けようとし、みんなを危険にさらし、処刑。
答えが決まり次第、亮太まで。
あと、昇をどう処理するかは明日の放課後に話し合いましょう。
PS明日は休まないで下さい、なにがあっても。
こういった文面が載ったA4紙を渡された。
俺のほかにも携帯電話を持っていない奴がいるのだろうか、亮太は携帯の画面をプリントアウトした紙を数枚用意していた。
やはりな、と思った。亮太は俺のことも排除するつもりなのだ。
「誰も、まったく責任をとらないわけにはいかないだろ? 実際、お前は皆をはめたわけだしな。まあ、いじめの対象が二人もいたんじゃやりにくいだけだから、お前のことは総シカトぐらいですむように取り計らっとくよ。こう見えて、感謝してるしな」
もう、クラスをわがもの顔だった。
あの時は場を取り繕うためにああ言ったが、小泉がクラスをまとめられるとは思わない。
優がいなくなった後、クラスの柱になるのは亮太だろう。
「このメールはミーナにも?」
「連絡網が正確ならな」
ミーナは教室にはいない。早苗もいない。
どこにいて、なにをしているかなんてわからない。
権藤は本田に引っ張られ、もとにいた場所へ戻っていった。
「死ね、くそやろー」
陳腐な去り言葉だった。
2度目の朝の鐘が鳴る。
教室へ入ってきた尾崎がのっそりと教卓へ向かう。
皆ものっそりと、各自の席へ戻る。
亮太はぐったりしたベーダーを窓側の一番後ろ、つまりは隅に用意された椅子に座らせたあと、最後に席についた。
ベーダーは浅く椅子に座り、うなだれていた。
張りつめた空気が漂う教室で、尾崎が暗い顔を上げる。
「じゃあ・・・朝礼を始めるぞ」
思いつめた口調だった。この様子だと、尾崎は昨日のうちにいじめを把握したようだ。
チクリ・・・当然だ。
だが、教室の最前列に座る義人はひどく気にくわないといった顔で、後ろを振りかぶった。
犯人探しでもしそうな勢いだ。
なにがおかしいのか、亮太は笑っている。それが一番怖い。
尾崎は淡々と、朝礼を進めていく。
手元にある座席表に目をやるばかりで、優にはおろか、教室にも目をやろうとしない。
学校がいじめを解決するために行動を起こした、なんて話は聞いたことがない。
必死に隠蔽して、いじめられた生徒が死を持ってその事実を明かし、責任を取って教師が一人か二人、時には校長が辞職して決着、なんていうのはよくある話だ。
あの校長は認知しているのだろうか。
俺はもう一度優に目をやった。
仮面を被ったままなのは泣き顔を見られたくないからか、それともとる気力さえないのか。
もし泣いているとしたならば、何が悲しいのか。
誰も救いの手を差し伸べないことか、亮太や小泉に殴りつけられることか、それとも、俺に裏切られたことか・・・それはないな。
もし、それで悲しむようなら、こんなことにはなっていなかった。
期待などしない。使命を達成するまでは、俺は心のない人形なのだから。
朝から3度目の鐘が鳴る。
これほどまでに響く鐘の音はきっと、世界中どこを探して見つからないだろう。
その安っぽい音色は騒々しい学校の記憶に直結した。
沈黙と鐘の音は白と黒のコントラストのように鮮烈だった。
放課後、俺はそそくさと教室を後にした。
廊下をすれ違う生徒は視線を流し、向こう正面からやってくる生徒はみな、道を空ける。
驚く余地などないが、俺のとった行動はすでにクラス外に漏れていたということだ。
手すりもない階段を降り、校舎を出て、校門に向かって歩みを進める。
日が沈むにつれ冷めていく空気に小雨が混じり始めた。
朝はカラッと蒸し暑く晴れていたのだから、複数の季節が混在したような日だった。
視線を感じ首だけ振り返ると、校舎のベランダのひとつから複数の顔が見えた。
俺は体を返し、にらみつけた。
俺のクラスの二つとなり、1理の連中だ。
理系の連中が文系の俺のことを詳しく知っているとは思えないが、興味津々といった顔をやめない。
文系のいざこざなど、理系の連中にとってはニュースの報道と代わらないのかもしれない。
連中の一人が、にやつきながら手をふってきた。
俺は無視してまた歩き出した。
雨足は強まることもなく、たんたんと降り続けた。
亮太から連絡があると思ったが、暗い廊下に音は鳴らなかった。
制裁が始まったということだろうか。
夜中、ベッドの中、そして、夢の中。
毎夜のような騒音に嫌気がさした俺は「静かにしてくれ」と叫んだ。
すると、騒音は間隔を空けるようになった。
結局、鳴り止まないのだからたいしたものだ。
続く悪夢はもはや偽りがたく、だからといって、見つからない解法をそう何度も探る気にはなれない。
小窓に打ち付けられる雨音が俺を深い眠りへいざなうまで、そう長くはかからないだろう。
あれから一週間、俺はほとんど人と言葉交わしていなく、話し方を忘れてしまいそうなほどだった。
それでも、いじめの経過を確認するためには、毎日、学校に通わなければならなかった。
ミーナと早苗はあれから姿を見せない。
このまま、二人で転校するつもりだろうか。
俺の理想を遂げられる関係にある二人ならありえる。
ミーナがいなくなる・・・嫌だ。
乾いたはずの空から雨が降るような気持ちになる。
そうなのだ、俺の計画が成功を収めたとしても、俺は、俺達はミーナの前から姿を消すことになる。
前からわかっていたことなのに、いざ、想像すると、結局俺の心の穴は埋まらないことに気づく。
ならばどうするのか、優と同じようにボロボロになるまで追い込み、俺にすがるしかない状況を作るとでも言うのか。
貧困な発想にそれこそ泣けてくる。
大切な人を傷つけることでしか側にいられないというのなら、俺はあまりに不幸な存在だ。
殴るや蹴るなどといったことは、いじめの序の口だった。
俺達には知恵があり、好奇心がある。
そして、寛容な大人がいるのだから、いじめがバリエイションをもち、次第に残虐性を増すのは必然だ。
3日目にはボロボロになったベーダー卿の仮面は取り外され、優は、優としていじめを受けるようになった。
力で憎しみの連鎖を断ち切るように、蚊をばらした4時限目が終わり、退屈な昼休みが始まった。
空気と同化した俺がトイレに入ると、手洗いの場のすぐ近くで、両脇を義人と慶介に押さえつけられている優の姿が横目に映った。
ドアが開くたびに、廊下の通行人に見えるであろう位置だった。
優の下半身には何も纏われていなかった。
上半身は真っ白なワイシャツを身につけているため、俺から見て右向きにくせのついた、陰毛が栄えて見える。
ワイシャツは前日まで着ていたよれよれのものとは違い、襟元がくすむこともなければ、右肩の部分が裂けていることも、足跡がプリントされていることもなかった。
真相を知る手段はないが、優の母親が哀れに思い買い与えたとしたなら、それは結果的に屈辱的に思えるコントラストを生みだしているわけで、皮肉。
もし、生徒の誰かが悪意をもって新品のワイシャツを用意していたとしたなら、同じ理由で残酷。
女子トイレは男子トイレの奥にある。
通りすがる女子達は目を伏せたり、露骨に顔を背けたりした。
気の毒というよりは汚いものを見たくない、という感情が零れていた。
小便をすましてから手を洗っていると、視界にぎりぎり入る位置で、優の手が自分の下半身の大事な部分を握らされているのが見えた。
「どうした、はやくしろよ?」
視界に入らない位置で、俺が声では誰か判断できないぐらいの知り合いの男子生徒がはやしたてた。
珍しいことに、亮太は不参加らしい。
優の手が上下にすべり、手に握られたものが赤みを増して肥大化していくのがわかった。
俺は左の薬指のつめにたまった、固形化した緑の絵の具を落としていた。
二コマ前の美術の時間に入り込んだものだろう。
無理やり取ろうとしても、逆に奥にはいってしまい中爪が痛むので、洗面台の上に置かれたレモン石鹸で、それを溶かし始めた。
悪者の声が盛り上がり。優の声が微かにあえぐ。
液体化した緑を流し終えた。
排水溝に流れていく緑の液体は俺の感情そのものだった。
出ようとして驚いた。
おおっぴらに開いた出口に、無数のギャラリーが少し離れた場所でたかっていた。
中には女子もいた。
口をあんぐり開け、わいわい、がやがやしている。
そのギャラリーが出口の片側に密集しているのは、俺が見物の邪魔をしていることを示唆していたので、俺はさっさと退場した。
出口をから二、三歩いたところで、歓声と悲鳴があがった。
歓声は男子で、悲鳴は女子だろう。
もういい。いや、まだ早い。
手に乗った露を振り落としながら、わずかに猛る感情を噛み殺し、平静を装う俺は悪魔でしかない。
別の日のこと。教室の最前列の真ん中の席で、優は半裸で授業を受けさせられていた。
上には紺色のセーターを羽織っていたが、下はまた丸出しだった。
この時間は国語総合で、担当は挨拶もまともにできない新任女性教師の西川だった。
教壇からは優の座る席の机の下が死角になっているようで、彼女はしばらくの間気付かなかった。
優の右側には亮太が座っている。
本来は早苗の席だったが、彼女は今日も欠席している。
白昼の教室で、亮太達が堂々とその作業を行っていたからわかることなのだが、セーターの中では、ぐるぐるに巻かれたガムテープが優と椅子を結びつけていた。
そのせいで、背筋はピンと伸び、やけに姿勢がよくなっている。
足にも、枷のようにガムテープが何重にも巻かれていた。
動きを封じられたわけだが、優には抵抗の意思がないように思えた。
もう諦めている、そんな感じに。
教室に異常があることは男子の笑い声やら、女子のうつむき加減やらが発信しているのだが、西川は首を傾けるばかりだった。
50分間も、ただ半裸で辱めるだけで満足する亮太ではなく、西川が黒板に向かう間に、優の机を蹴り倒した。
優自身でなく机を蹴り倒したのは、半裸で転げまわるよりも、半裸で姿勢よく座っている姿のほうが滑稽だと判断したからだろう。
黒板に向かっていた西川は、机が蹴り倒される音に驚いたようで、振り向き、教卓をまたぐように優を覗き、叫んだ。
青ざめた顔でわなわなと震える様子はまるで、男性器を見るのは初めてといわんばかりだった。
恐らく、まだ二十三歳とかその辺の年齢。
地味な外見からみても、本当に初めて男性器を目にしたのだとしてもおかしくはない。
西川は泣きながら教室を出て行った。
自分がいじめられたと感じたのかもしれなかった。
優は動かせる唯一の部分である首を後ろに回した。
優の表情を仰ぐ準備のなかった俺や他の生徒は完全に不意をつかれた。
泣いていない。怒っていない。
力の抜けた目端をたらし、気だるそうにしている。
恐ろしいというよりは奇妙だった。
優の背後に立った亮太は、優の髪の毛をわしずかみにして元の位置に戻していた。
「へーバイアグラきいてんね。しっかし、俺の父親もこうなってると思うとむなしいよ」
同じように優の背後に立つ、義人が笑いながら亮太をこづく。
「これ一粒三千円もすんだろ。こいつに飲ませるにはもったいなくね?」
「いや、家庭崩壊阻止のついでだし、いいよ」
「ああ、お前の親父これ、秘書相手に使ってんだっけ」
「今頃、EDパニックだろうよ」
そう言ってるお前も二、三個くすねてるんじゃない? という発言を手の甲で払いのけ、亮太は優の乗った椅子をそのまま持ち上げ、俺達のほうに向けるようにして、机の上に乗せた。
もう恒例になった叫び声が上がる。
赤みを帯びた棒が、明らかに強制的な勢いでそそりたち、ひくついていた。
優はかしげていた小首を真っすぐ上げると、舐めるように教室を見回す。
教室の後ろの方の視線はすでに下がっていた。
俺もそうしようと思ったのだが、遅れた。
虚ろな黒目に吸い込まれそうになる。
目を離そうにも離せない。
優の口がゆっくりとパクパク動く。
一言分の口の形を作り終える度に一度口を閉じ、次の文字の形を大きく作る。
7文字。それだけははっきりとわかる。
俺の頭に浮かぶ、ネガティブな言葉。
殺してやる・・・は六文字。
呪ってやる、これも六文字。
優は付け加えるように、にやついた。
なんとか視線をそらし「笑うなよ」と叫ぼうとしたところで、優の小首はまた下がった。
笑うなよ・・・対照的に、かつての友の言葉が蘇る。
「絶対に笑わせてやる」
笑わせてやる・・・自分の口で実演してみると7文字で、口の動きまで一致した。
いじめ方は毎日変化した。
いじめを題材にしたドラマが始まれば、その中で使われるいじめの手法を取り入れる。
作品にこめられた正義のメッセージは確かに彼らに届いている。
でも、彼らはその勧善に逆らうことに喜びを見出せる。
残酷な自分が好きな人間もいるのだ。
いじめの現実をリアルに伝えれば伝えるほど、自分と重ね合わせて、亮太のような奴は燃え上がるのだろう。
亮太は新しいいじめを求めた。
その探究心はやり方をエスカレートさせた。
もはや、センセーショナルないじめなど存在しないというのに。
母さんはいじめが嫌いだった。
誰かが誰かを傷つけることよりも、誰かが誰かに傷つけられることが嫌だったのだろう。
優もいじめが嫌いだった。
誰かが誰かを傷つけることも、誰かが誰かに傷つけられるも嫌だったのだろう。
かつては、俺だっていじめが嫌いだった。でも、もう二度とはそう主張できないのだ。
この学校から優の居場所が消えた。
そして、優はその強さを失い、恐らく今はつらいと感じる感情さえ失おうとしている。
仕上げの時期なのだ。
俺は自分の計画をやり遂げる。
優の手を引き、悪意のない世界へ連れて行くことはせめてもの償いなのだから。
笑わせてやる。それは俺のセリフだ。
母さんの手を3週してロープをベッドの脚に巻きつけた。
「兄貴、結びの固さはこんなもんでいいかな?」
「ん? もう少しきつく結んだほうがいいな・・・いいよ、貸してみ」
母さんの足を固定し終えた兄貴が俺の方へやってきた。
母さんの頭が向いているほうから見て、ベッドと壁の隙間は人一人分しか空いていないので、俺はそのスペースから退出したあと、ロープを兄貴に手渡した。
俺は母さんの足元まで下ると、結び付けられたロープに注目した。
どう考えても、結びがきつすぎる。
兄貴は俺の固定の仕方がまったくもって気にくわないらしく、母さんの手に巻かれたロープを三週まわして、ほどいた。
「硬い結び目だね?」
巻き直しの3週目にさしかかった兄貴は聞こえないふりをした。
「硬い結び目だね? 兄貴」
「そうでもないよ」
「でも、圧迫されてるよ。いいの?」
「ああ、大丈夫だ」
「・・・そう」
最近では食卓でさえ会話がないせいか、俺は兄貴と会話するのが苦手になっていた。
今日の夜中、母さんはとち狂ったように、騒ぎ出し、兄貴の部屋から飛び出した。
最近下のリビングで寝るようになった俺はその声に飛び起きた。
階段を慌しい音が下り、追って、荒々しい音が下った。
音を探してうろつくと、暗がりの廊下へ導かれた。
手探りで見つけた電気のスイッチを入れると、長い直線の先で、兄貴が母さんを羽交い絞めにしているのが見えた。
「兄貴?」
「来るな昇!」
たしか、こんなやりとりをした。
遠すぎてはっきりとはわからなかったが、どうせ鬼のような形相の兄貴に怒鳴りつけられた。一瞬の出来事に戸惑いながらも、俺はリビングへ戻った。
去り際に電気を消そうと手をのばしたら、そのままでいいと、兄貴が言うので、言われた通りにした。
リビングに戻り、寝具となったソファーに横になり目をつむると、ぐっすり眠れた。
朝になると母さんは落ち着いていた。
だが、またいつ騒ぎ出すともわからない。
兄貴は仕事を休むことができないので、代わりに俺が学校を休み、母さんの監視にあたることになった。
そして、今に至るというわけなのだが、優のことが気になる。
タイミングが悪すぎる。
母さんの拘束を終えると、兄貴は朝食もとらずに仕事へ向かった。
母さんが拘束されたベッドの下に寝転んだ。
「母さん、頼むよ」
何をだよって話か。
「母さん、俺はだいぶ疲れてんだよ」
「・・・う」
「あんまり心配かけさせないでくれ」
俺はベッドの脚に頭をよりかけた。
あの歌を口ずさんでみる。
屍の前でこの歌を歌うのは久しぶりだ。
音が上がりきる前に、母さんは眠りに落ちていた。
俺は立ち上がり、歌う部位を喉から鼻にかえ、キッチンに向かった。
明日だ、明日、ひどい仕打ちを受けている最中の優を学校から連れ出し、人気のないところ、そうだな、体育館裏なんかいいかもしれない、そこに連れて行き、すべてを打ち明け、新たな世界へ逃避することを提案するんだ。
断るなら断ればいい。
そうしたらまた時間を置き、優が俺にすがるしかない状況になるまで待つだけだ。
もし、優が俺になにも言わずに転校したら、調べ上げて同じ所へ通うつもりだったが、優はどんな仕打ちをうけても学校を休まずにくる母親思いの・・・それともほかに理由があるのか・・・優等生だった。
そういえば、朝に家を出て、顔の傷を増やして帰宅する息子に母親は何をおもうのか。
なぜ、校長や担任に働きかけたり、当てにならないならば、自ら乗り込んだりしないのだろう。
以前に、優は母親の愛情を疑うようなことを言っていたのを思い出したが、くすぐったい記憶なので、胸の奥に追いやった。
やはり、あいつの傷を癒すのは、俺しかいない。
大筋は描いたストーリー通りに進んだ。
最後の大勝負だ。
優が自身が壊れるまで俺を許さないか、それとも、その前にこの友情を受け入れていくれるのか。
いや、必ず受け入れさせてみせる。
そして、今度は、友情の主導権を俺が握る。
俺が優をコントロールするんだ。
転校先は公立でさえあれば、あとは優の都合の良い場所で構わない。
俺は通学時間もいとわない。
俺たちは誰にも知らない場所で、互いに手をとりながら、周囲と全く新しい絆を築いていく。でも、その絆を硬いものにはさせない。
絆はたくさん張り巡らされてもいい。
だが、太く、硬く、断ち切ることのできないような絆は1つ以上あってはいけない。
もう、脅かされたくはない。
互いが互いに負わせた傷をなめあい、やがては親友と認め合うことができるようになる日がきっとくると、俺は確信している。
そうなれば、もう打算はいらない。
後はどんどん、馬鹿になっていけばいい。
素敵な日々が待っている、そう思えば、残酷にもなれるんだ。
あらゆる感情を喪失した今でも、優に対する執着だけは根強い。
そんな器用な自分が嬉しい。
ミーナのことについても冷静になれないことはない。
もともと、付き合いたいとか贅沢なことを思っていたわけじゃない、ただ眺めていられればそれでいい。
学校が変わったからといって会えないわけじゃないし、変な話、優がいるかぎりミーナとのつながりが消えることはないだろう。
逆に、優のいない俺などに、ミーナが興味を示すわけもない。
俺はキッチンにつくと、今日の夕食のメニューを思案した。
そうだ、久しぶりにハンバーグにしよう。
音の外れた鼻歌は最高の盛り上がりを迎えた。
9時ごろになっても兄貴が帰ってこないので、晩飯を母さんと俺だけで済ました。
珍しく酔いの回った様子で兄貴が帰ってきたのは11時。
朝食同様、夕食をパスした兄貴はリビングに顔を出すと、すぐに二階に上がっていった。
俺は今、ようやく母さんをリビングのベッドで寝かしつけた。
真っ暗なリビングで弱よわしく映るテレビの画面に見入っていると、廊下の電話が激しく鳴った。
母さんを起こされてはたまらない。廊下に出た俺は小走りで、電話機に向かった。
時刻は深夜2時をまわっている。
受話器を取った。
「はい、斉藤です」
しばらく待ったが、返事はない。
「斉藤ですが・・・」
俺は耳をすます、が、やはり何も聞こえない。
いたずら電話をとんでもない時間に受けたのだと思い、受話器を耳から離すその過程で、女性の泣き声が聞こえた。
特徴のあるこの泣き方、知っている。
「早苗、なに? どうかしたの?」
もう二度と、会話することもないんじゃないかと思っていた。
「・・・死んじゃった、死んじゃった」
不吉な言葉だけを何度も繰り返す。
「早苗、大丈夫だから、とりあえず落ち着けよ。誰が亡くなったの?」
「ゆ・・・が」
「悪いんだけど、聞こえな・・・」
「優ちゃんが死んじゃったの!」
は?
「は?」
「どうすればいいの? ねえ、斉藤君が殺したの?」
何を言っている?
「何言ってんだよ?」
「私どうすればいいのか・・・斉藤君助けて」
「優、優ってあの優か? 優一のこといってんのか・・・しんじゃたって、おい!」
唇と受話器が震え出した。
揺れる受話器を握り続けるのが難しい。
「なんで・・・こんなことに・・・うう、優ちゃんが自殺しちゃったの」
ああーという絶叫とともに受話器から不通の音が聞こえた。
優が死んじゃった?
リビングのほうから皿のこすれるかん高い音がする。
兄貴が腹をすかして降りてきたようだ。
俺のせいで?
ままならない足取りのまま廊下を歩き、リビングのドアを開けると、ほのかなこうばしさが香ってきた。
明かりもついていない一室で、テレビが光っている。
優が自殺した?
テレビからわずか数センチの距離で、地べたにあぐらをかき、片手に皿を持った兄貴が赤い顔をして、肉のささったナイフを突き出してきた。
テレビの放つ弱光が兄貴の瞳に反射している。
「ステーキだけに・・・素敵・・・悪くないじゃんか、くく」
兄貴がだはは、と笑いきるまえにゲップに切られていた。
優が死んじゃった?
「早苗、悪い夢でも見たんだろ?」
そう電話口で確認しなかったことの後悔に、その場で腰を砕かれた。