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四章

 土に脆い氷の膜が張る。

東京の冬は霜で始まる。

手は寒さから凍え、やがて麻痺する。

ふと考える。

死とはこの感覚なのかもしれない。

病院で優から絶縁を言い渡されて二ヶ月。

あれから一言も言葉を交わしていない。

俊樹と佐藤の二人は優と離れ、俺達のグループは消滅した。

優の意思らしい。

優は俺のことを気にしてそうしたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

今の俺には優の考えを理解することはできない。

違うか。今も、だ。

優自身は違うグループに引き込まれた。

色んなところから引っ張りだこだったらしいよ、とララから聞いた。

俺はこの二ヶ月で多くのことを調べ上げた。

全ては優を連れ戻すためだ。

優はあれから元気がない。

甲斐のことがよほどショックだったのだろう。

それはイコールで俺が許しを乞えないことにつながる。

だが、このままでいいはずがない、俺がよくない。

俺にはあいつが必要だ。

これは苦渋の決断だった。

悩みすぎて鬱になりかけた。

それでも二度と後悔はしたくなかった。

恐ろしく聞こえが悪いが、優を調教することにした。

変な意味じゃない。

ただ主従関係を作り教え込むだけだ。

今度は俺があいつの上に立つ。俺があいつを支配する。

上手くいけば、優は俺の元へ帰ってくるのだ。

ただ、莫大な代償を払う必要がある。

優をどこまでも追い込まなければならない。

ぐちゃぐちゃにして、ずたずたにして。

明日、ついに最初の計画を実行に移す。

俺が立てた計画は大掛かりなものになる。

先ず、情報提供者が必要だ。

単に協力者という名目で、その候補となる人間はララが教えてくれた。

選ぶ際には、いかに優に危害を加える意思を喚起させやすいかを重視した。

というのも、説得の際に拒まれれば、俺が優に危害を加えようとしていることが学校にふれまわり、計画の破綻を招くことになる。

結果をいえば、現在、二文に所属する田仲幸助を選んだ。

田仲は中学の頃は優とつるんでいたらしいが、志望大学の系統が違ったために振り分けられる先のクラスも異なり、高校でのグループ編成では別々の所に所属したようだ。

今は挨拶程度の仲らしい。

現在、田仲には友達という友達がいないらしい。

孤独は田仲にどんな影響を与えたのだろうか。

まずはこいつを味方につける。

作戦はある。

落としてみせる。

俺がこれほどまでに自信を持てるのには理由がある。

俺はララを味方につけることに成功したのだ。

俺のことを「おきに」にしてくれているララは曲がったことを嫌う。

だから、ララを口説くのには工夫が必要だった。

俺は優から絶縁を言い渡された事をララに話した。

大筋は正確に伝えたが、細かいところは俺の有利になるように捏造した。

内容に軽く触れると。

「優は俺のことを許さないって。尾崎にもう一度俺の処罰を検討してもらうってさ。甲斐が先に手を出しのに。優は現場を見ていたのに・・・甲斐にたぶらかされているんだ。それに、これからは俺のことをシカトするとも言われたよ。でも、悪いのは優じゃない、甲斐なんだ、全部あいつのせいだ。」

「痛ましい話だね。でもね、昇りー、話を聞く限りじゃおかしいのは甲斐だけじゃない優もだよー。庇う必要は無いさ。一方の話だけ聞いて状況を判断するのはおかしいかもしれないよ。でも、会話主が昇りーなら話は別だ。僕は昇りーが物事を客観的にみれることは知ってるもん。それに、優に対する配慮が君の話し方からひしひしと伝わるしね」

ララは一息つく。

俺はその間、たじろいでおく。

「それらをふまえた上で、優に非があるって言っているんだよん」

ララはなかなか頭のきれるデブだ。

俺の作戦にはこいつぐらいの頭と人徳は欠かせない。

でも、俺より思慮深くては困る。

だから、こいつがベストだ。

悪いな、ララ。

「いや、優は悪くない、悪いのは甲斐だけだ。あいつは異常だ。嘘をつくことに抵抗が無いんだ」

俺は首を小さく横に振りながらララに言った。冷静ではいけないが、熱くなりすぎたら疑われる。ここが一番難しかった。

「違う、昇りー・・・それは違うよ。優は頭がいい。対して甲斐は厨房だ。逆はあっても優は人に騙されたりはしないよん。それは昇りーが一番よくわかってるでしょ」

厨房とはなにかと未発達な中学生の意味。

「ああ」と脱力して答える。

「優の事だから、なにか考えがあってこんなことしているんだろうけどさ、親友だった昇りーの退学を望むのは僕には理解できないし、僕は昇りーがこの学校からいなくなるなんて絶対嫌だね」

親友か、俺もそう思っていた。でも、それは俺の片思いだったみたいだよ。

「でも・・・」

こんなやりとりを長いことした。

「僕なら協力するよ。わかったろー、優には軽いおしおきが必要だよ。昇りー、優に今自分がしていることは間違いだって教えてあげるんだ」

会話は見事にララの熱意を煽り、最後の方は語尾を伸ばしたり、小さな「ん」がついたりしなかった。

女性なら瞼を閉じればドキッとするかも。

俺にはわかっていた。

俺が優に対しそうであるように、ララは俺に執着している。

かといって、温和な性格のララのことだから、優をつぶそうなどという発想には至らないのだろうが、俺の手助けをし、親睦を深めたいと思っているのは事実だろう。

利用するようで心苦しいが、俺にはこうする他なかった。



 監督作業があるわけだから、家でも優のことばかり考えている、というわけにはいかなかった。

ここのところ、母さんは騒がなくなった。

死体度が増したというだけの話だ。

本人は今日もソファーで熟睡している。

俺には母さんの寝顔を眺める癖がある。

そうすると昔の母さんの顔が、その記憶と共に浮かび上がってくるからだ。

アンパンマンのマーチの歌詞をラと偽った母さん。

自分を生きることを放棄した母さん。

そのくせ人には強くあれ、と願った母さん。

そして、儚げに微笑む母さん。

どれも俺の母親だった。

最近は不可思議なことが起きる。

顔立ちは異質なのに、母さんと優が俺の中で重なるのだ。

頻繁に起こるその現象に、悪寒を覚える。

冷風が開いたドアから玄関に、そして、リビングをつき抜け吹きぬけを昇る。

そこから逆さまに下降しとうとう俺の足先へたどり着いた。

兄貴が帰ってきたようだ。

晩御飯の支度をしないと。

次の日、甲斐が正式に退学した、と尾崎から告げられた。



 好きな花。

ベスト3に入るかは怪しいが、まあ好きな花として、花菊がある。

母さんからは天皇家の家紋だったとか聞いたが、そんなことはどうでもいい。

俺は単にその大ぶりな花びらが気に入っている。

太く、たくましく、凛々しく、どこか厚かましい、そんな花は嫌いじゃない。

花に関心を持つなんて、当時では考られないこと。

今なら母さんとの話にもぱっと明るい花が咲いただろう。

咲く花は、そうだな、やっぱり桜がいい。

今日は作戦決行の初日。

優とは直接的には関わらないが、勝負の日である。

ここでの失敗は許されない。

今朝も母さんは素直だった。

抵抗などしない。

本当に死体を縛り上げている気がしてただただ気味が悪かった。

そのため、いつもよりだいぶ早く学校へついた。

まあ、いい、今日のターゲットはこの時間帯にはすでに学校にいるのだ。

だが、そのまえに会議がある。

といっても俺とララのふたりだけの、しかも場所はトイレという小規模なものだが。

「ララ、わかってるよな? ここでしくじったらおしまいだ。くれぐれも援護のほう頼むよ」

俺は水道の囲いの小さなスペースに、無理やり尻を乗っけた。

「わかってるさー。僕が説得するまではあんなに弱腰だったのに、いざ、本番となるとやる気満々じゃないですか」

「ああ、やるからにはな。優には理解してもらいたいし」

尻が湿ったのがわかったが、気に留めるに値しない。

ララは納得したようで、うん、うん、とうなずきながら網目の複雑な床にじかにあぐらをかいた。

不潔という感覚を持ち合わせていないようだ。

「じゃあそろそろ行くかいな、昇りー」

ララは俺の隣で水カビがとれない鏡に向かいながら、髪を右手でぐっと掴む。

そうすることで癖をつけるのだ。

これがララ流の髪のセットらしい。

だが、ちりちりの天然パーマの彼の髪の毛は10分もすれば元通りになる。

どこかで、頻繁に髪を触る人はナルシストの素質があると聞いたことがある。

でも、ララはどうなのだろう。

格好良い格好悪いの前に、顔に脂が乗りすぎていて原型がつかめない。

俺が思うに、ララは髪型そのものにほれている。

器用にも顔と髪を切り離して考えているのだろう。

確認のために軽く手順を確認した後、俺たちは廊下に出た。

外気は小便臭い会議室のものよりずっと健康的だった。

少し直線を行き、上下の階段と左右とに分かれた交差点を右に曲がれば、すぐに目的の文系2組につく。

ララは移動の間も髪をいじくっていた。

その行為を可哀想に思ってしまう自分を叱る。

2文の教室の前に立つと緊張した。

1文の俺にとって、ここは禁断の地。

今更タブーなど知ったことではないのだが。

田仲は教室の最前列で机いっぱいに教科書を広げ勉強に励んでいた。

噂で聞いた。

最近やけにがり勉になったらしい。

友達がいないおかげで、机に向かう時間が長くなったようだ。

ララは前方の扉の後ろに待機させた。

こいつの出番は後だ。

俺は教室の後ろ側の扉から入り、田仲に近づいた。

向かう途中に通り過ぎる机の表面を、指でつたわせる。

指と机の摩擦する音が教室にこだまする。

田仲は俺に気付いたようだが、気付かないふりを下手くそにする。

2文の連中にとっては、あの傲慢な甲斐を自主退学に追い込んだ俺は危険人物に違いない。

ましてや1文の人間がずかずかと2文に入ってきているのだ。

田仲の危機意識は極限まで高まっているのだろう。

田仲は煙たがるというよりは萎縮しているように見える。

可笑しいぐらいに期待通りの状況・・・まずは圧倒してやる。

俺は奴の背中に回ると、そっと椅子の背もたれに手を乗せた。

指先が少し背中に触れるようにしてやると、彼はびくっと体をしぼませた。

噴出す汗はうなじをつたっている。

田仲はこっちを見ない。

最初のうちは教科書の文字をひたすら読んでいたが、今は何も書かれていない黒板をひたすら凝視している。

「汗、大丈夫?」

映画の悪役を演じる気分。

妙に威勢のいいやられ役じゃない。

物腰の柔らかい喋り方をして、それでいて逆らわせない威厳を周囲に撒き散らす。

外見からではなく、中身から凶悪さを滲ませる悪役。

「なにか用?」

田仲は腰をひねり、顔をこちらに向ける。

辛そうだ、腰はそんなに可動範囲の広い場所じゃない。

それにこっちを向いたはいいが、焦点が合っていない。

「田仲、君に協力して欲しいんだ。ちなみに拒否権は認めないから」

俺は田仲の椅子を、さっきまでとは逆の向きになるように半回転させた。

おかげで田仲は腰だけ残して、また黒板を見つめることになった。

「わけわかんないよね。大体何を手伝えって?」

「優にけじめをつけさせる。それを手伝ってほしいんだ」

田仲は腰を元の位置に戻す。

「・・・はっ、なんて言ったの」

「だから、優に今回のことでけじめをつけてもらいたいんだ。君にはそれを手伝ってほしい、もちろん見返りはある。成功したあかつきには田仲も一緒に優や俺らと、つるめばいい」

俺は今、どれほど冷たい目でこいつを見つめているのだろう。

田仲は呆然と座りすくむ。俺はまた椅子を半回転させる、調整完了。

田仲は勢いよく席を立った。

よく見るとつながっている両眉の片方を落としている。

威嚇なのか。

「けじめって・・・なに言ってんの、頭平気?」

はっきりと口にしやがった。

俺はてっきり田仲は佐藤タイプかと思っていたが、こちらの手の内が明かされると豹変した。気が弱いわけではないみたいだ。

ごりおし、アンド、プレッシャー作戦は失敗か。

「なあ田仲、前は優と仲良かったんだよな、でも、今はなんだ。親友って言える友達が一人でもいるのかよ? いや、それ以前に友達はいるのか? 優はお前に飽きたんだよ。お前はギャグの一つも言えないし、なにをしても並より少し上。はっき言って一緒にいても面白くない。だからだよ」

途中、田仲が口を挟もうとしたので声を張り上げた。

「聞けって。この情報は正確だ。俺はお前の代わりとなって優と親友やっていたし、証人もいる。お前は悔しくないのか、俺なら悔しい、優に嫌われないよう機嫌を取りながら過ごしてきたのに、つまんないから、飽きたから、そんな理由であいつから遠ざかっていく。許せんのかよそんなの。そりゃあ、あいつは良いところもいっぱいある。だけど、間違っている部分だってあるんだ」

まくしたてるように喋ったので疲れた。

「俺がそんな話信じると思う? 第一、俺は君とは違うよ。俺たちはクラスが変わったから仕方なかったんだ、いわば自然消滅だよ。君の言ったことをそのまま返すよ。もし、俺が君の立場だったら悔しいだろうし、もしかしたら優を恨むかもしれない。君の噂は聞いたよ、ま、どこまで本当だかわかんないけどね。でも、この分だと、優と絶交したというのは事実っぽいね。友達を失って哀しいのはわかる。だから、同情はする、今日のことは内緒にしてやるから、早くどっかいけよ」

俺に都合のいい噂はララが流してくれたが、それを鵜呑みにするわけはないか。

なかなか秀才な田仲はなかなか客観的な男らしく、言っていることは大概的を射ている。

厄介な相手だ。

もう8時を回った。

もたついていると、このクラスの奴が誰かしら登校してくる。

しょうがない。ララの出番だ。

田仲に背を向けて、引きとの裏にいる切り札を呼ぶ。

「ララ、来てくれ。」

ララの名前が呼ばれると同時に、田仲は、今度は両眉をひそめた。

それもそのはず。

ララがトイレか自分のクラス以外に移動するのは極めて稀なことだ。

本来は動けぬデブなのだ。

ララが重く沈んだ扉を横に引く。

体の肉を波打たせながら、ふてぶてしい様でやってきた。

ララ・・・体が重そうだ。

こいつの登場シーンにあえて一曲選曲するならば、ゴジラのテーマソングがよく似合うだろう。

アイドル怪獣に劣らぬ巨体は左足をひきずりながら、なんともいたたまれない面で俺の横に到着した。

5分間立っていただけで、足をつってしまったのだろうか。

「の、昇りーの言ってたことは・・・本当だよん・・・僕が・・・ん、保障しちゃう」

息が荒い、卒倒しかねない様子。

「なんで神田君がここにいるの?」

ララをララと呼べない、そんな生徒もごく少数いるのだ。

「田仲君、そんなことよりさー昇りーが・・・はっ・・・言ってたことに・・・ぐふ・・・ついてのほうが重要でしょん。全部本当だからね・・・んはー」

嘘か真か、通常より明らかに息継ぎの回数が多い。

「ちょっやめてよ。神田君が言うと嘘には聞こえないよ、ジョークにしては性質が悪いな」

笑えてない。

ララは嘘の情報を掴ませない。

情報の真偽を見極めてからじゃないと人に話さないのだ。

今の「ララ」という強烈な個性を持ったキャラクターが周りから認められ確立しているのには、それだけの理由がある。

だからこそ、俺のついた嘘はいずれララの何かを壊してしまうだろう。

ララは何も言わない。

「マジなの? でもさ、俺は・・・いくら君が保障しようとその話を信じるわけにはいかないよ。俺は優のことを信じている。それは今も昔も変わらない。俺と優は本当に仲が良かったんだ。いつも一緒に行動したし、俺の悩みを親身に聞いてくれたり、その逆もあった。それに・・・」

「黙れよ!」

口から言葉がこぼれた。

田仲の話をこれ以上聞きたくなかった。

「優にとってはお前なんか必要ないんだよ。いいかげん気づけよ」

誰に言っているのかわからなくなる。

「親友だった? お前の勘違いなんじゃないのか? 優はお前を放っておけなかっただけなんじゃないのか?」

言葉が数珠繋ぎになって口から脱走する。

「お前は惨めだな。馬鹿だ。裏切られたと思っている。違う。最初から優はお前を特別視してなかった。たまたま自分のクラスにかわいそうな奴がいたから救ってやった、それだけのことだろ。実際、クラスが分かれてからは構ってもらえなかったんだろう? あいつも万能じゃないからな。自分のクラスをまとめあげるので精一杯だったんだよ。お前はひと時、同情を買っただけだ。お前は裏切られたんじゃない・・・はなからお前らの友情なんて成立してなかったんだよ」

「昇りーなんか変だよ?」

変なのはお前の発汗量だ。

「そもそもさ・・・お前さ、優の親友になれてないことに気がついてたんじゃなかったのか? だから、必死に優の機嫌をとって金魚の糞みたいにくっついて、それで周囲から親友じゃんって言われることでその気になろうと努力した。違うか? おい、聞いてんのか? これ、お前の話だよ?」

「昇りーやめろよな」

「惨めだなーほんと。やわいやわい、自分にすら欺かれちゃわけないわ。素敵に最悪だね・・・おい、聞いてんのか? てめーの話してんだよ!」

「昇、やめろよ!」

ララが俺の肩を鷲づかみ耳元で叫んだ。

非常に高い音が俺を呼び戻した。

なんだ、なんでこんなにムキになっているんだ。

俺は誤魔化していたのかもしれない。

優を失ってからじゃない。

優と友達になってからずっと。

ワナワナと体が震える。

自己欺瞞。

それも、母さんの時とは違う。

自分に嘘をついていることの自覚すら、偽った。

究極の自己欺瞞。

信じられない。

俺はなんて弱いのだろうか。

自分に対する怒りからか、震えがとまらない。

その性質に差異はあれど、自分に嘘をつくのはこれで二度目。

そして、その嘘を看破して苦悩するのもこれで二度目。

一体、俺は何がしたいんだ? 

ララが俺の肩に手を乗せる。

「元気出せよ、のぼ・・・」

最後まで言わせまいとして、肩にのった脂ぎった手を振り払った。

俺の言葉は効果覿面だったようで、いつのまにか田仲の姿はなかった。

今は自己分析をする時ではない。

嘘偽りなく、俺には優が必要なのだから、俺のすべき事は変わらない。

「ララ、今日はありがとう。もう皆が来る。トイレに戻ろう。とりあえず今日のは成功だな。作戦の続きを話し合おう」

俺はララに肩をかしながら、トイレへと戻った。

途中、窓越しに見えたのはよくある学園の風景。

生徒達が学園の門をくぐり、階段を駆け上がり、自分達のクラスへ向かう。

わいわい騒ぎながら、無知な笑い声を上げながら、楽しそうに歩く。

だが、時がくれば、この高校校舎二階フロアの様相は一変する。

あるものは罪悪感にさいなまれ、あるものは優越感に浸る。

やがては娯楽が一つ増えるだけとなり、さらにやがてはその娯楽とかつての娯楽がこの学校から消えるだけとなる。

学校の変化を恐れつづけた俺が自ら革命を起すことになるとは、皮肉なものだ。

ちなみに、優は今日、多くの友人によって笑顔を取りもどした。



 枕に沈みかけた意識を電話のコール音にすくいあげられた。

家に電話は珍しい。

たまに親戚の加藤さんから、母さんの身を「案じて」かかってくるぐらいだ。

自分の部屋にいた俺は下に急いだ。

我が家の電話は廊下の玄関寄りにある一機しかない。

先週の日曜に俺が掃除した廊下はまた薄汚れし始めた。

リビングは泥棒対策として明かりをつけっぱなしにしているが、最近は電球の調子が優れないため、扉を閉めてしまえば廊下に明かりが漏れたりはしない。

先に広がる漆黒の廊下は、人の行く末を象徴しているように思えた。

「はい、斉藤ですが」

「田仲です。斉藤君なの?」

正直意外だった。

俺の放ったのはボディーブローで、後から効いてくるはずだったが、軌道を誤りあごに入ったらしい。

「うん。どうしたの・・・て決まってるか、俺の味方につく気になったの?」

こいつとの会話は駆け足になってしまう。

つくづく俺は弱い。

相手の番だが返答がない。

キャッチボールをする気はないようなので、俺は続けた。

「自分の口からは言いにくいのかな。じゃあ明日7時半に二階のトイレに来てくれよ。そこにいたらOKてことで・・・返事ぐらいしよーよ」

また返答なし。

俺は待つことにした。

正直なところ、こいつが明日確実に来るという保障が欲しい。

田仲はようやくボールを投げ返してくれた。

「君の言う通りかもしれない。認めたくはないけど。それに神田君が嘘の情報を話すとは思えない。多分本当だろう。そっか・・・俺はつまらないと思われてたんだ。恋人じゃあるまいし、こんな言い方おかしいけどさ」

田仲は口を濁す。

「大丈夫、そんなところは引け目を感じるところじゃないよ」

言ってしまえ。

一度口に出せば漠然とした怒りも形になる。

「俺は捨てられたんだよな、優は俺に飽きたんだよな。悔しいよ」

それでいい。十日ほど前、ララを通じて2文の加藤という男に間接的に田仲の話を聞くことが出来た。

加藤によると、一度は田仲も2文に溶け込んだが、徐々に周りに距離を置かれるようになったらしい。

原因は、田仲が極めて面倒な性格をしていることにあるらしい。

田仲はとにかくナイーブで、ふとした一言に深く傷ついたり延々と根に持ったりするとか。

加藤はララに、きっとあいつは俺らを恨んでるよ、と聞かせたらしいが、ホントに田仲が恨んでいるのは優に違いなかった。

すぐに離れていく薄っぺらな友情を嘆くたびに、強固だったはずの友情、つまりは優のことを思い出し、そして、恨めしく思ったはずだ。

どうでもいい奴に対する怒りなど、大切な奴に裏切られたと感じた時に負った深くえぐられた傷とは比べようもない。

田仲の気持ちがわかる。その上で彼を利用しようとしているのだ。

「5年もたって今更だけど、俺は優を許せない、それに君にも同じ思いをさせてるんだろ?」

「ああ、そうだな、俺も同じ気持ちだよ」

「明日は必ず行くから、トイレに7時半だよね」

「うん、それで合ってる」

「わかった、俺、この気持ちをずっと心の隅に追いやって気がする・・・自分に嘘をついてたんだ・・・ようやく人に言えた。そういう意味では君のおかげだよ」

鼻をすする音が聞こえた。

愚かだ。

田仲は自分の孤独を優になすりつけていることに気づいていない。

いや、どうかな、もしかしたら本当は気づいているのかもしれない。

自己欺瞞、田仲はまだこの迷宮から抜け出せないでいるだけなのかも。

同士が増え、前進した。

この調子だ。

一歩一歩着実に目標へ近くなる。

そして、また一歩ヒーローから遠ざかっていく。

この日は久々に母さんの歌を聴いた。

何を求めていたわけでもなく、ただ寂しい耳のより所を求めていた。

何度だって言おう。

俺の心は人にわけてあげられるようなものじゃない。



 7時半に、俺がトイレに着いた時にはすでに田仲はそこにいた。

「悪るいね、遅れた。あれ、ララは?」

田仲は首を振る。

元気が無い。

自分がやろうとしていることに戸惑いを感じているのだろうか。

「・・・田仲やめるなら今のうちだよ。どうすんの?それとも優のために俺らのことを探りにでも来たか?」

おおげさにまた首を振る。

「田仲、頼むよ。今日は訊きたいことが山ほどあるんだから」

「ああ」

田中は小さくそう呟いた。

トイレの小汚いドアが大きく開く。

ララだ。

ララは俺と田仲に朝の挨拶を済ませると、鏡とにらめっこを始めた。

窓を開け外を眺める。

見えるのは鯨雲とそれに隠れてかすむ太陽。ありがちな空だ。

小便用の便器の周りにそれぞれ違った姿のまだらな模様が浮き上がっている。

見たくもないが、ぼっとん式便器のわきには汚物が昂然とこびりついているだろう。

それでも、俺には出来すぎの会議室だ。

ララが手を洗い、髪をセットし終えた。

「それじゃあ、さっそく話をきかせてくれ」

田仲のたれ目をまじまじと見つめていった。

ララは平仮名で大きく「ぺ」と刻まれたハンカチで手を拭く。

いまどきハンカチを持っている高校生は希少だ。

田仲は強い顔つきになった。

「わかった」

「まずは2文の連中が優に対しどう感じているかだけど・・・」

今日もしっかりと予鈴はなる。

掃除係のおばさんにも見習ってもらいたい。

長い間、田仲を聴取した。

おかげで、今朝は貴重な収穫を得られた。

事態は俺の有利に進んでいる。

というのも、加藤を中心とした2文のリーダー格の3人は、宿敵である1文をまとめ上げ強固にした優をひたすら煙たがっているらしい。

事実、体育際でも球技大会でも、2文は1文に負かされ続けている。

さらに最近の期末試験における共通科目では、レコード級の点差をつけて1文が圧勝した。

運動においても学力においても大敗を喫した2文の連中(特に幹部クラス)はいかに、1文を弱体化させるかに執心しているという。

いくらなんでも優を蹴落とすことに協力するとは思えないが、止めようとも思わないか。

聴取が終わった時点で田仲の必要性はなくなっていたが、利用価値がなくなったからといって切り捨てれば、田仲が何を言い出すかわからない。

それに、人手としてみればまだ使い道はあるのかもしれない。

だんだん、己の残酷さに慣れつつある。

田仲から聞いた話を整理していると、自分がしようとしている事が無謀でもないのだと思えてきた。

もちろん、困難ではあるが。

俺の作戦においてなにより肝心なのは、周りの行動をなるべく正確に予測することだが、その精度をあげるためにいくら観察や情報収集を繰り広ようとも、推測であることに変わりはない。

ならば、俺はせめてより可能性の高い道を探り、選んでいくしかない。

事実になるだけの推測を立てればいいのだ。



 週の初めの日、俺は急に母さんを連れ出したくなった。

いつかのように、屍に妙な感情を持ち込んだわけじゃない。

思い出にひたるそのきっかけとして、母さんをある場所へ持ち込むのだ。

ここのところ母さんは静かだし、問題は起こらないだろう。

ただ、やはり人に見られるのはまずいので、早朝に家を出ることにした。

午前四時。

目覚ましは変わらない騒音でしっかりと俺を起してくれた。

どうせ兄貴に言っても反対されるので、勝手に連れ出すことにした。

行き先は貝殻公園。

俺は冬物のジーンズに厚みのあるフリースを合わせた。

フリ―スの下には使い古してよれよれになったユニクロの長袖、更に下にはタンクトップを着込んだが、冬も近いのでこれでも足りないくらいだ。

母さんの洋服が収納されているタンスは、俺の部屋に隣接している空き部屋に置かれている。母さんには寝巻きの上に厚手のブラウスを、その上から兄貴が母さんの今年の誕生日に買ってあげた紺のバーバリーのセーターを羽織らせた。

母さんは着膨れしてだいぶ丸くなってしまった。

母親が着ているズボンを脱がせて他のものに変えるのはいささか気が引けた。

だから、最終的には腰から上だけおしゃれで、その下は花柄の寝巻きという噛み合わせの悪い格好になってしまった。

朝ご飯として味の無い食パンを二枚焼いたが、母さんは食欲がないようで俺が処理することになった。

母さんのような死体を玄関までは抱えていった。

玄関の端にある靴箱から新品のブーツを取り出した。

購入した時から未使用のまま一年以上、埃のかぶった箱に収納されていた。

こっちは去年の母の日に、俺と兄貴が金を出し合って買った物だ。

ブーツのチャックは長いこと使っていなかったので噛み、締めるのに苦労した。

聞いたこともないブランドの革製のブーツは二万円以上もした。

それでも閉店セールに買ったのだから質は良いと思う。

尖った靴先は少し上がっている。

ベージュの真ん中を堂々と遮る金のチャックが、全体をまとめあげている。

ヒールはほとんどないというほど低めで、その面積も大きくしっかりと大地を踏めそうだ。

ブーツに収めるために母さんの足首を掴むと、その細さに驚いた。

これ以上壊れてしまわないように慎重に取り扱った。

最近はヨーグルトやプリンなどの柔らかいものしか食べない、というより口に押し込んだら、そのまま噛まなくても支障なく胃まで運べるものが、それらの乳製品なのだ。

俺が母さんを誘導したのはそこまでだった。

俺はゆっくりと玄関のドアを開けた。

冷めた外気は母さんの屍に命を吹き込こんだ。

初めて白い髭をたくわえた初老のサンタを見た時のような、その正体が父親だとわかってしまった時のような、混じりけの無い驚嘆の顔つき。

母さんは子供のように屈託なく笑う、はしゃぐ、両手をばたつかせる。

あらゆるものを指差す。

俺は新たな生命の誕生を目の当たりにしたような、神々しいとでもいうのだろうか、とにかく珍しい気持ちになった。

母さんが外の世界で最初に興味を示したのが自分の家だった。

我が家をまじまじと見つめている母さんが、気が触れた人というよりは赤ん坊のように見えてしまう俺の目は曇っているのだろう。

母さんは気が触れている、それが事実なのだ。

この新たに吹き込まれた命は歓迎できるものじゃないのだ。

母さんはその後も形成された童心を露呈する。

公園に向かう道中、全てを気にかける。

横切る車。全身ジャージのハイカー。

息子の顔。

俺はそんな母さんをまともに歩かせことに苦労した。

将来的にも子供はいらないな、と思った。

どうにか目的地である貝殻公園に着くと、母さんは疲れたらしく真っ先にベンチに向かった。市民から苦情があったのだろうか、剥がれ木のベンチはプラスチックのものに置き換えられていた。

母さんは体全体をベンチに乗っけるとそのまま胎児の姿で眠りについた。

俺は母さんの隣に腰掛けた。

母さんの頭を無理やり浮かせ、その中にあらかじめ持ってきておいたハンカチを詰め込もうとしたが、下に向かう力を持ち上げるのは思っていた以上に大変で、その重さに耐え切れなくなった俺は、そのまま母さんの頭をベンチに落としてしまった。

無理やり持ち上げられていた反動から、頭は勢いよくベンチに落ちた。

痛そうな音がしたので焦った。

「ご、ごめん母さん、大丈夫?」

母さんは何事もなかったかのよう頭だけで寝返りをうつ。

「・・・そりぁ、そうか」

母さんの体は心とは違って丈夫なのだ。

まったく、猫と会話している気分だ。

五、六年くらい前だろうか、この公園に母さんと来たことがある。

この街に引っ越して来るずっと前のことだった。

たまたま母さんは俺を連れ、たまたまこの公園に立ち寄った。

羨ましげに公園を眺める俺を見かねて、母さんは公園の砂浜で一緒に遊んでくれた。

砂浜の位置は今も同じだが、昔は滑り台がなかった。

というより、この公園のあちらこちらに見える遊具はほとんど俺の記憶には無い。

変わらないこともある。

泥団子、砂のお城、皆同じようなことをし、同じような笑顔をするのだ。

今日もあの対照的な二人の少女が見えない。

日曜なら朝早くからでも、子供は遊ぶものだろうと踏んでいたのだが、彼女達はいない。

やはり、近所の子ではないのかもしれないが、少しだけ粘ってみることにした。



 一時間近くたった気がする、この公園には時計がないので正確な時刻はわからない。

今みたいに時の流れを気にしないで過ごすのは久しぶりだ。

いつからだろう、事柄を終えるたびに時計を見るようになったのは。

中学からか、それとも高校からか。

今後も一生この習慣が抜けることはないだろう。

さらに三十分くらいたっただろうか、あの二人組みらしき子供達がやってきた。

顔をはっきりと見たわけではないので、彼女達かそうでないかを判断するのには服の色彩と更に行動を見る必要があった。

というのも、片方の子はこの前と同じ黄色の洋服を着ていたものの、もう一人の子はうって変わってピンクの洋服を着ていたのだ。

しかし、次の行動で今ここにいる彼女達がこの前ここにいた彼女達であることを確信した。

彼女達は滑り台の十段にもみたない階段を駆け上がった。

黄色の服の子は、以前と同じように階段を上りきる動作から、坂を滑り落ちるまでの動作をシームレスで行った。

ピンクの子は相変わらず、滑り降りることを躊躇している。

以前と同じで先に下りた女の子が手引きする。

だから彼女は滑り落ちることが出来る。

気弱な女の子が滑り落ちると、彼女達のダンスが始まった。

あどけない幸福のダンス。

母さんの手を取りはしゃいでいた自分が重なる。

幼女達が放つ柔らかな力に魅了される。

視線はそのままに隣の母さんに呟いた。

「悲しいね」

起そうとして隣を見ると、母さんの目は見開いていた。

体勢は同じままでじっと彼女達を見据えている。

母さんは目端をうっとりと落とす。

俺は母さんの手の甲にそっと自分の手を重ねた。

意味なんて無い行為だ。

俺のと似すぎて、触れ合っている感触が怪しい。

質量の無い冷えた手。

彼女達のダンスは思ったよりも長かった。

お互いの手をしっかりと握り、遠心力を使用して激しく、しつこいくらいに円を描いていた。踊り終わると、回りすぎて平衡感覚が一時的に崩れているのだろう、彼女達は腰から崩れた。そして、馬鹿に大きな声で笑う。

彼女達の踊りはしっかりと俺から時間を奪ってくれた。

目の前で繰り広げられた幸せが欲しくて、俺は今も奔走している。

なぜ、人から愛されるのはこんなに難しいのだろうか。

人通りが増えてきたので、そろそろ帰ることにした。

俺達が公園を出るまで、彼女達の笑い声は耐えなかった。

彼女達が引き離されるところを見ないですんだことが、なんだか嬉しかった。

帰路の半ば、歩道の隅の舗装されてない部分からひょこっと顔を出している黄色い花があった。

コンクリートの隙間を見つけ、根を張り、しぶとく咲いている。

花菊か。

こんな野暮な咲き方をする花でもないだろうに。

俺は一本の菊を茎の半分のところでちぎり取った。

花を失った茎は惨めなものだった。

俺は母さんの手に花を渡した。

母さんは俺のプレゼントには喜ばず、花菊を手に取るとすぐにその場に投げ捨ててしまった。あまりに無慈悲な行為だ。

面の粗い凸凹なアスファルトに叩きつけられた花菊がいたたまれなくて、それをわざわざちぎりとった自分がもっといたたまれなくて、そのままにはしておけなかった。

俺はもう一度大輪の花を拾い上げると、今度は母さんの髪のなかに茎の方からそっと刺した。母さんは気づいたようで、俺を罵る顔をしたが、取るのも面倒になったにかもしれない、そのままにしてくれた。

大の大人が大きな大輪の花を後頭部に携えると、さすがに知恵遅れのように見えてくる。

そして、証拠にもなく愚かしい行為をした自分に気づいた。

ほんとに馬鹿だ。

家の扉の鍵を開け玄関に入ると、ブーツが保管されていたローマ字のブランド名が横に彫られた縦長の箱が、ほったらかしたそのままの状態で、俺たちを出迎えてくれた。

玄関の門が閉まると同時に母さんは死体に戻った。

一足のゴムスリッパしか置かれていない玄関の床に、力を失い座り込む。

時間切れのシンデレラ、糸のほつれたれたマリオネット、いろいろと思いついたが、どれも寂しいものばかりだ。

俺はなんとか母さんの体を起こし、上がり框の上まで持っていった。

階段からたどたどしい足音が聞こえてくる。

俺が母さんのブーツを脱がせ終わったところで、兄貴は作業服で息を切らしながら俺達の前へやってきた。

昨日の夜は遅かったので、疲れて着替えることもせずにそのまま眠ってしまったのだろう。

兄貴は母さんの方をちらっと見てから、俺を見つめる。

俺はまともに見返すことができない。

兄貴は母さんに「おかえり」と言ってから母さんの体をまたぎ、裸足で土がついた玄関の床を踏む。

鬼のような形相をしている、俺も怒ったときにはこんな表情をするのだろうか。

「なにしてんだよ、心配したんだぞ?」

雫がこぼれる。

鬼の目にも涙だ。

鬼の筋肉質な体が一歩前へ近づいてくる。

汗の匂いが鼻を突き抜ける。

鬼の上半身がねじれ、頭に巻いていたタオルが音も立てずに床に落ちる。

空気を掴み、くぼみをつくって横に軸移動しながら、ふわっと。

ごつい拳が視界に入る。頭が大きく揺れ、脳みそが上下左右に振られる。

俺は殴られた衝撃でドアに叩きつけられていた。

ドアに背を預けているが、踏ん張らないと腰が落ちてくる。

母さんがわけもわからず泣いている・・・泣いているといえるのだろうか、眼球から水を排泄、のほうが適当な気がする。

鬼は俺に追撃を加えようと、もう一度右腕を後ろにひいた。

もう一度喰らったら死ぬかもしれない。

しかし、鬼は突如母さんのほうへ向き直った。

母さんがその人の裾を引っ張っていたような気がする。

兄貴は母さんの顔を自分の煤けた作業着で拭う。

拭いても拭いても涙は止まらない。

ごしごし拭かれているので、まぶたが痛いのかもしれない。

兄貴は気にせず拭き続ける。

拭くたびに兄貴の作業着の汚れが母さんへ移る。

兄貴は気にせず拭い続ける。

独善的という言葉だけで、この人のすべてを形容できそうだ。

「ごめんよ、昇を殴ってごめんよ。もう二度としないからね母さん」

母さんが俺のために兄貴の裾を引いたとは思えない。

母さんなら兄貴を叱る前に俺を心配するだろう。

瞼が閉じようとする。腰が落ちてくる。

俺はドアの前で尻餅をついた。

母さんの足元に花菊が散っていた。

どの拍子に踏まれたのか、自慢の花びらは砕けていた。

生首のような茎が俺に何か言いたげだ。

「よくももぎ取ってくれたな。痛いじゃないか」

こんな感じか。

母さんはありのままの自然を愛でた、花を摘んだり、草を刈ったりするのを嫌った。

舞い上がりすっかり忘れていた事は、忘れていいような事じゃなかった。

人の事を言えた義理じゃない。

目をつむると、意識がすーとこめかみから抜けていった。

薄れていく意識の中で変なことを考えた。

俺はなんのために生きているのだろうか? 

家族が壊れ、母さんが壊れて、兄貴との腐敗した関係は続く。

そして、友情には裏切られた。

良いことなんか一つもないじゃないか、嫌なことならたくさんあった。

比率がおかしすぎて、今じゃ比べる気もおきやしない。

死を身近に感じている。

自分とそう遠くないところにそれはある。

もし、優を取り戻せなかったら・・・死のうかな。

傷を負ってもなお生きろ、とはよく言ったものだ。

無敵の心を持つヒーローよりも、母さんの方がよっぽど人間的だ。

口ずさむまでもなく、アンパンマンのテーマソングが頭に流れる。

ラで歌詞を塗りつぶす俺達は、よっぽど人間的なんだ。



 目をさますと自分の部屋のベッドにいた。

隣には兄貴がいる。

泣きそうな顔で俺を見る。

「ごめんな、ごめんな昇」

兄貴は俺に謝り続けた。

傷口をなでられるたびに激痛が走ったが、ここで兄貴の手を振りほどいたりすれば、兄貴は当分立ち直れなくなるだろうから黙って耐えた。

もう大丈夫だからと言い聞かし、兄貴を部屋から帰したあとは、疲れていたので寝ることに努めた。

腫れた頬を、兄貴が持ってきてくれたビニール袋に入った氷で冷やしながら寝ていた。

結露した水分がビニールの外側を濡らして、そのまま俺の枕を濡らしているせいだろうか、眠りが浅い。

今日は悪夢を見た。

夢の中で出てきたのは歯軋りをする顔のない人間。

ぎしぎし、ぎしぎし、ベッドがきしむときになる音によく似ていた。

歯軋りをする人間は増殖する、だからより一層音もうるさくなる。

なぜか急に歯軋りのペースが遅くなったり止まったりもする。

荒い呼吸が歯の間から漏れる。

低く、甘く、野太い声が一方的にうなる。

ぎしぎし、ぎしぎし。

目は開いている。

見えているのは俺の部屋の天井。

音が途切れない。

ぎしぎし、ぎしぎし。

嫌だ。

不快だ。

この音は聞きたくない。

耳を押さえたらやっと音が小さくなった。

それでようやく眠れたのは二時ごろ。

今日は三時に母さんの部屋の見回りはしなかった。

必要がなかった。

母さんは、今日は兄貴の部屋で寝ているのだ。

だから、心配ない。

悪い夢だから心配ない。

そう、偽ろう。

そして、その自覚は今日限り失おう。

究極に偽るんだ。

俺にはそれができるから。



 田仲をこちらに引き入れてから四日。

冬休みがくるまで1カ月。試験中と試験休みの時間を除くと三週間。

たったの三週間。

これが残された時間だ。

冬休みに入り長時間、優と離れることになれば、優の記憶から俺が消えてしまうかもしれない。

だから、今学期中に行動を起こすのだ。

俺は慢性的に、胸の奥にわだかまりのようなものを感じるようになっていた。

俺が優にやろうとしていることは考えれば考えるほどおぞましいことだ。

今日とうとう優に直接手を下すことになる。

計画は頭の中でまとまっている。

あとは実行に移すだけだ。

優は絶対強者だが、人を捕食してそこまで昇りつめたわけじゃなく、だから蹴落とすのが難しい。

比べて俺は中堅どころ、あるいはその少し上といったところかもしれない。

とにかく優に歯向かうには無謀すぎる地位だ。

優のようにトップにいる者に対し、一つや二つ位を落とそうとしても駄目だ。

そんな甘い気概では脅かすこともできないだろう。

トランプの大富豪と同じだ。

転覆させる心いきでいかないといけない。

それがたった一つの手段だ。

計画には大きな悪意が必要だったから、俺は優を憎む努力をした。

ただひたすら努力した。

途中でくじけてしまわないように。

初恋の時、相手の顔はもう思い出せないが、名前は後藤ゆかりか後藤ゆりだった。

俺は自分の未熟な恋を叶えるために、小学生らしい発想のまじないを実戦したことがある。

種類や大きさは関係なく、とにかく紙であればいい。

そこに毎日30回、意中の人の名前を書くというものだ。

恋は惨敗したが、これをしたことでその子に対する気持ちがより確かなものになったのを小学生ながらに感じた。

それを応用した。

俺は憎むべき対象・・・優の名前を回数制限することなく毎日ひたすら書き続けた。

ペンは赤のボールペンを選んだ。

血の色だから残酷になれる気がした。

優の名前がびっしりすきまなく書かれた紙は、目がちかちかするぐらい赤くなった。

小指から手首にかけて赤インクが乗り移ってきた。

三日もすればペンを握る指は痛み、人差指の内側にはペンだこができていた。

まるで試験前のようにペンを五本も消費した。

優を憎むには名前を書くだけでは足りなかった。

最初にこれを書いた時、だから、書き始めてから五日目の時はつらかった。

ペンが震えるので、右の手首を左手で押さえつけながら書いた。

「優」のあとに続けて、「落とす」、「消す」、「潰す」これらの類の言葉を羅列した。

十日目に書いた文字は「殺す」だった。

赤で書かれた「殺す」はリアルだった。

根暗なおぞましい行為のあと、少し、ほんの少しだけ、優を陥れる心構えができたような気がした。



 夏前だと言うのに今朝は静かだ。

この間から煩く鳴り始めたセミ達は、時機を見ていたかのように沈黙した。

この静寂、懐かしい。

手前の小石を蹴ると、芸もなく寂しさは募った。

そう、今の俺はあの頃と同じ。

今はこの世の全てが煙たい。

トイレでは、ララと田仲が俺を待っていた。

二人ともそれぞれの顔をする。

焦りからか、自分のしようとしている行為への疑問からか、田仲は唇を震わせる。

大きな存在に喧嘩を売ることへの緊張か、冬なのに暑さからか、ララは自前のハンカチで汗を拭う。

ハンカチに刻まれた今日の文字は「ぬ」だ。

俺は優を取り戻すことができることへの嬉しさか、それとも優を、皆を陥れることへの、今まで中で一番重い罪を犯そうとしていることへの畏怖か、唇は震え、汗が吹き出て、体の震えが止まらない。

「皆、いよいよだ。決行は今日の昼休み、いけるよな?」

内股な便所座りをする田仲へ、次にドア越しに便器に向かって力んでいるララに言った。

ララが大きなものを出し切った感をふー、というそれこそ大きな吐息で俺らに伝えてから答えた。

「もちろんだし・・・まあ正直緊張はしますけどね」

「見ればわかるよ、腹下してんじゃん」

「わわ、昇りーの洞察眼は恐ろしや」

「田仲はどうなんだよ」

田仲は今日一言も言葉を発していない。

かなり思いつめているように見える。

心臓の弱い奴だ。

育毛剤をかけてやりたい。

「いや・・・大丈夫だよ。俺はやれる。君こそどうなんだよ?」

足がつらくなったのか、俺と同じように壁にもたりかかりながら田仲は言う。

もたれかかる時に壁をじっと見つめ、汚れの少ないところを選んでいた。

実に神経質。

「俺は大丈夫だよ。じゃあ最後に手順を確認させてもらうよ。この前に言った通り簡単なことだから、頼むよ」

この前というのは3日前の金曜日。

俺はこいつらに作戦の手順を説明するための時間を放課後に設けた。

だいたい三十分くらいだっただろうか、たったそれだけの時間で説明会は終わった。

これに対しララは自分達を信頼しているのだと解釈したのだろう、文句一つ言わなかった。

対照的に、びびり屋の田仲はいやに不安がった。

「君ね・・・ほんとに大丈夫なの? 俺にはそうは思えないよ。前々から思ってたけど、君、少し考え甘いところあるよね」

田仲はたとえそれが2文でなくとも、自分の居場所を求めている。

無論、そんなことは文系間においては禁忌であるのだが、田仲自身が2文の連中に愛想を尽かしている今となっては関係ないのだろう。

積極的な性格ではないが、必死な彼の心中は穏やかではないはずだ。

実際のところ、この作戦は本当に浅はかでどうしようもないものだった。

内容などほとんどなく、ただ、俺の言う通りに動いてほしいとだけ伝えた。

こいつらに伝えた作戦は偽ものだ。

俺自身の行動が制限されてしまうのを嫌い、偽の作戦を凝ることはしなかった。

実際に実行する作戦は二人に伝えるわけにはいかないのだ。

逃げ出されても、反対されてもかなわない。

ララと田仲に話した作戦では、最終目標は優にクラス皆の前で俺に謝罪させ、俺へのシカトをやめさせ、更にはまとまりを失ったクラスを新たに再構築するというものだった。

もちろん優もそこにいる。

目指すは壁のないクラスの構築。

そして、生徒間の交流におけるあらゆる障害の破壊。

誰もハブいたりしないため、自ずと敷居は低くする。

田仲のような2文の連中でさえもなじめるように。

こんなスローガンを掲げてみせたものの、これは俺が考えていたものとは全く違った。

謝らせる。シカトをやめさせる。

クラスの再構築。

文系間の調和。

違う。

今すぐに許されようなどとは思わない、ましてやそれを強制する気なんて毛頭ない。

それに、俺と優がわかり合うには新しい環境が必要だ。

それはここじゃない。ここにいては不幸な過去に縛り付けられてしまう。

俺が必要としていたのは優がいたこの学校で、極端な話、今となってはこの場所がどうなろうと知ったことではない。

そもそも文系間の調和なんて、俺はそんな器じゃない。

それは多分、優の意思だった。

甲斐がこの学校にいたころの優の意思だった。

「田仲、今更何言ってんの、もう後戻りできないんだよ。わかってんだろ? 作戦が心配なら代案を出せ、それが筋って言うものだろ」

出来るはずがなかった。

軟弱な彼が責任の所在を求めるわけがない。

田仲は力なく「従うよ」と言った。

いちいち言葉を選んでくる。

朝から二回目の鐘が鳴り、俺たちは各々の教室に向かって歩き出した。

二人とも俺より早いスピードで前を歩いて行く。

横の窓から薄い日差しが降り注いでいる。

それを横面に浴びながら、硬い決意を持った二人の男が歩いていく。

喜怒哀楽、どれともつかない表情だ。

二人は分岐点にさしかかった、ララは理系だから右に、田仲は文系だから右に向かう。

二人の姿が見えなくなった頃、俺も分岐点へさしかかった。

横っ面に浴びた日光が凍てついた心を溶かすわけもなく、俺は右へ曲がった。



 朝礼が長く感じた。

俺は気の進まないことをするならば、早く終えてしまいたいと思う性質だ。

その時がくるまで、心の準備だとかいって緊張したり怯えたりするのは嫌なのだ。

しかし、俺は不器用にできていて、願いとは裏腹にこういうときこそ時間が長く、濃く感じられてしまう。

先週、中間試験の後で区切りがいいということで席替えが行われた。

俺は窓側から二番目、前から三番目の場所になった。

前にとても太めの男子が座っているせいだろうか、それとも後ろにだいぶ太めの女子が座っているせいだろうか、自分のスペースが狭く感じる。

優の席は壁側の最奥になった。

席替えの決め方は尾崎の独断によるものだった。

優と俺がここまで離され、その優の席の周りには、彼が今いるグループの男子が数人集まっている。

冴えない連中だ。

今日も優は欠席していた。

あの事件以来、休みがちになっていた。

尾崎は「優一はいるか?」と次に「だれか優一から欠席連絡もらってる奴はいないか?」と、尋ねた後「まーた、無欠席か」とため息をついた。

優の席だけじゃない。

他にも仲の良い男子同士や、女子同士が明らかに固まっている。

俺の左右にはそれぞれ俊樹と佐藤が座っている。

尾崎は生徒の意思を無視して独断で事を決めるような教師ではない。

彼に生徒の反感を買う行為ができるとは思えない。

だが、尾崎は独断で席替えを行った。

しかし、その内容は生徒たちが誰一人として文句をいわない、生徒達にとって理想の席替えだった。

尾崎もクラスが異常な状態にあることを把握しているようで、その証拠が俺と優の不自然なまでの距離として表れている。

尾崎は若いせいだろうか、この学校の多く生徒と似て他人の意思や空気に敏感だ。

俺は長い朝礼をじっとこらえた。

尾崎の号令で長い朝礼が終わった。

いつもの何倍も長い今日を、今朝のニュースとか、昨日見たドラマのことなどを考えたりして懸命に消化していった。

児童誘拐の速報をつたえる今朝のニュース番組で、犯人像をプロファイルして、その異常な性癖について分析していた心理学者のほうが顔からしてよっぽど変な性癖を持っていそうだな、と思っていたことを思い出したところで、朝礼の終わりを告げる鐘が鳴った。

いつも通りの下らない思考に倦怠感。

全てが演技がかっているような気もするし、なぞってみてもやはり違う。

決して待ち遠しいわけじゃないけど、それでも鐘よ、早く鳴れ。



 俺は一週間まえからある一人の男子生徒をいじめている。

彼の名前は小池嘉人。

我が1文の代表的ないじられキャラだ。

小池は人に逆らえない性格で、背丈が俺の理想とするものに近かった。

それだけのことで、彼は俺の餌食になった。

はっきりしていることは俺のクラスにはいじめの好きやつらが多くいるってこと。

その中からあるひとつのグループを抜粋した。

皮肉としか言いようがないが、俺はbullyにコンタクトをとった。

メンバーの中には「小池かよー、新鮮さねー」と不満の声を上げるものもいたが、最終的に彼らは俺の話しに乗ってきた。

彼らと接してわかった。彼らは俺をいじめたことを気にもかけていない。

俺の行動なき制裁の対象にならない人間もいたわけだ。

優の「いじめはナンセンス発言」は、ポツダム宣言のようなもので、皆それを受諾し、我がクラスからいじめは消えた。

小池もいじられはしても、いじめられはしなかった。

優はあまり過激になりすぎと止めたが、そのキャラクターを尊重した。

佐藤とは違い、小池は自分の位置に疑問を抱いているようには見えなかったし、自分を押し殺しているようにも見えなかった。

キャラクターが確立されていた分、それなりにおいしい思いをしてきたということだ。

しかし、俺によって宣言破りのいじめが開始された。

このいじめは特殊だった。

俺とbully以外には知られないようにした。

彼らと集まる時は十分休みや昼休みに人気の無いところを選んだ。

ララや田仲に彼らと一緒にいることが知られれば、俺の作戦はそこで終わるからだ。

小池に対するいじめはそれほどひどいものじゃなかった。

暴力をふるうわけでもなく、馬鹿にするわけでもなく、ただ、3つのことを強要した。

写真を渡してその髪型にしてもらうこと。

これからは常に校則違反である灰色のカーディガンを羽織ること。

そして、ある一日だけ欠席してもらうことだ。

bullyも最初は不服そうだったが、小池がカーディガンについて教師に注意され、髪型を他の生徒に「なにイメチェン? しかも、それ意識してるべ」とからかわれると、喜んで言った。

「じわじわ行くタイプね」

そして、月曜日の計画を伝えたら彼らはもっと喜んだ。

「ここから本番に入るんだ。小池をみんなの前でぼこぼこにしよう。うん、心も体も八つ裂きにしてやろう」

「おまえも悪だね」

いやいや・・・と求められた応答をした。

彼らに伝えたのはララや田仲に伝えたのとはまた内容の異なった、第二の嘘の作戦だ。

彼らには多分、一番の犠牲者になってもらうことになる。

だが、自業自得だ。

この1週間付き合っていて、そう感じた。



 作戦決行の前夜、優に電話した。

「朝7時に1文の教室に来てくれ。明日を最後に俺はこの学校をやめる。もう、手続きはすんでる。なんで、甲斐を殴ったか・・・・最後に俺の口からも聞いておくべきじゃないか?」

それだけ言ってすぐに受話器を置いた。

もし、明日優が来なかったら次の機会に持ち越せばいい。

電話を入れる相手はあと二人、まずは、亮太に電話した。

「亮太、とっておきの話がある。bullyの誰にも伝えないでくれ、びびるやつがいると困るからな」

「・・・へーなんかおもしろそうだな。新しいいじめ方でも考え出したか?」

独特の静かな口調だ。

温かみをごっそり欠いている。

ぎりぎりまで言わなかったのは、亮太が長い間メンバーに黙っていられるか心配だったから。

「とにかく六時半に校門前に来てくれ。早くて悪いな」

「いや、構わない・・・楽しそうだな」

直感として、俺には亮太が本当の計画に薄々気づいているのではないか、と、そして、この時をずっと待っていたのではないか、と思えた。

警鐘を鳴らしているのか、体中の毛が逆立った。

最後に、ミーナの携帯番号をプッシュした。

優すら知らないミーナの携帯番号をなぜか俺は知っている。

難しい顔をした早苗から、相談に乗ってあげて、と言われ渡された。

優の事だとはすぐにわかったが、俺にも気持ちはある。

そうやすやすと電話をかけられるわけがなかった。

だから、ミーナの声を電話越しに聞くのはこれが初めてだった。

用件は小池に言ったことと同じ。

ある一日だけ休んでもらうこと。

「あ、斉藤昇だけど、ミーナ? ごめんね、急にかけちゃって」

「斉藤君? えっ?」

ドキドキした。

どんな時でも、ミーナの声は俺に新鮮な気持ちをくれる。

「ごめんね、その・・・番号は早苗から聞いたんだけどさ。ちょっと話したいことがあって」

「そっか、なんかびっくりした」

「はは、電話でも相変わらずだね」

「だね・・・なんか、なにこれ、ホントにびっくりしたよ」

「ほんと、あれだね、ミーナはマイペースだ。おもしろいよ」

ミーナの持つ世界観を俺も見てみたいと思った。

優はどんな風に笑い。

俺はどれほど間抜けに格好つけているのか。

花はどんな風に映るのか。

「ありがと、なんだろこの感じ、変だよ。なんかこうして二人で喋るの久しぶりだよね」

「そうだな。俺とミーナがしゃべるときは大体隣に早苗とか・・・優がいたよね」

最近は露骨に彼女を避けていた。

自分の穢れがミーナに伝染してはいけないと思っていたし、優がいない今、俺には彼女に近寄る口実がなかった。

「そう・・・だね」

「ミーナ、頼みがあるんだ」

「うん?」

「またびっくりさせるような提案なんだけど、明日、休んでくれないか? 風邪ってことにして。優と三人で原宿行こうぜ。学校なんてふけてさ」

「優一君と仲直りしたの?」

「これからするんだよ、それにはミーナの仲介が必要なわけさ」

こう言えばミーナは断れないだろうと踏んだ。

「うん、いいよ。私は斉藤君と優一君には仲良くいて欲しいから」

ミーナにしては強い口調だった。

「斉藤君、早苗は?」

「それじゃいつもと同じじゃん。たまには早苗抜きでもいいんじゃない? 俺たち三人の親睦会だよ」

早苗には悪いが、女子のリーダー格である彼女には、明日のイベントを欠席してもらうわけにはいかなかった。

早苗の媚びた笑顔を思い出す。

捨てたはずの情が込み上げてくるのを感じた。

「うん、早苗には悪いけど・・・わかった、私行くよ! 二人と一緒に!」

「おお、びっくりした。嫉妬するからさ、早苗には内緒で行こう。」

「それはいくらなんでも、失礼じゃないかな」

「ミーナ、早苗ならそうするよ。俺でもね。てか、前に一度、早苗と一緒にミーナに内緒で新宿まで行ったことあるしね」

「・・・そうなの」

廊下の闇に目をこらすと、うつむくミーナが浮かび上がってくるようだった。

「そうだよ、今度はミーナの番」

「うーん」

「じゃあ、十時半に原宿駅の改札口で」

「ねえ、斉藤君・・・」

「わかってるって。優にはしっかり伝えておくから。勝手言ってごめんね」

「・・・そっか」

「じゃあ」

「うん、明日ね」

体全体が汗ばんでいた。

ミーナだけは傷つけたくないから、惨劇を見せたくないから、加害者にしたくないから、休めと言った。

待ち人のいない原宿駅の改札口で、ミーナは何を思うのだろう。

裏切られた、騙された、優に会いたい。

それでも俺は、ミーナが自分に最愛を注がなかったせいだ、の一言で片づけてしまうのか。

もう、色々とわからない。

翌朝、俺は亮太の笑顔に恐怖を覚えた。

優は多くの味方をもつが、もっとも敵に回してはいけない相手を敵にしていた。

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