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二章

  十二時四十分。

スピーカー越しに鐘が鳴る。

安っぽく、真実味の無い音。

思わず萎える。

昼休み、俺は自分の所属するグループの連中とともに、いつものように窮屈な教室を脱出してベランダへ繰り出すと、優の隣に腰を下ろした。

飯については、皆がそうであるようにやはり早弁。

去年まではエネルギッシュな昼バスケを日課にしていた俺たちも、この一年でぐっと落ち着いた。というか老いた。

今は昼の時間は丸々トークに費やしている。

俺達のグループは、杉内優一、佐藤直哉、前田俊樹、甲斐幸也、そして俺の五人から成っている。

佐藤と俊樹は高校から入学してきた生徒だ。

この二人は同じ中学出身だったらしく、当初から一緒に行動していた。

最初の内、彼らはなかなかこの学校に馴染めずにいた。

そこで、高1の一学期半ばに、二人の寂しげな様子をみかねた優が声をかけて、俺達のグループの一員となった。

そうは言っても、この二人は未だに俺達に完全には打ち解けられずにいる。

勿論、同じグループにいるのだから仲はいい。

ただ、それはあくまでも上辺だけのものだ。

例えば、俺達五人で雑談していた時、会話の中で佐藤と俊樹のいずれか一方あるいは双方が、俺達三人のうちの誰かの考えを否定したとする。

その時、俺達が少しでも不機嫌なそぶりを見せようものなら、彼らはあわてだし否定した際に用いた自分の意見を丁寧に取り消す。

また、厚かましいと思われることを案じてのことなのか、彼らは俺達の相談には嫌な顔一つせずに乗るが、自分達の相談を俺達に持ちかけたことは一度たりとも無い。

ようするに、彼らは俺達に気を使っている。

別に俺は気を使われるのは嫌いじゃない。

そのため、彼らが同じグループにいることに、違和感を覚えたことはない。

ひどい物言いかもしれないが、友人A、友人Bとおいてもなんら支障なく友達をしていける、気遣い無用の友情が楽なことは事実だ。

お手製のノリ弁当を眺めながら、サッカーの話題に盛り上がる三人を尻目に、俺は今日初めての食事に箸を伸ばした。

優と甲斐は中学からそのまま上がってきた。

この学校は公立にしては珍しく小中高一貫なのだ。

俺は家庭の事情から中学2年の頃に、この学校に入学した。

その頃の俺は不幸の絶頂にいて、完全に心を閉ざしていた。

全ての人間に、嫉妬していた。

そんな俺に声をかけてくれたのが、優と甲斐だった。

甲斐は現状に満足しない癖があるため、新しい刺激として俺を仲間に誘っただけかもしれない。

でも、優は違った。

入学してから一ヶ月たったが、俺には友達が一人もいなかった。

それどころか、学校内で口を開くことすら稀だったはずだ。

俺が誰も寄せつけなかったのだと思う。

今思えば、母さんの人嫌いが伝染していたのかもしれない。

しかし、そんな中、俺に話しかけてきた一人のクラスメイトがいた、それが優だった。

優のくどき文句は強烈だった。

「まーたく、斎藤は相変わらず暗いね。友達いないみたいだし、作る気もないみたいだし、笑ったところ見たことないし。他人を拒絶するのには、それなりの理由があるわけ?」

はなから優一は挑戦的だった、多分、俺を怒らせたかったのだろう。

俺のような人を拒絶するタイプの人間に心を開かせるには段階を踏む必要がある。

その第一ステップは感情を揺さぶることだ。

そして、怒らせることによって、そいつの本心さらけださせる、そこからなんとかして、触れ合う糸口を見つける。

優が考えていたのはそんなところだろう。

優は昔から頭が良かった。

でも、あのころの俺に感情の起伏などありはしなかった。

俺は優の挑戦的な態度をかわし続けたが、優は諦めなかった。

毎日俺に話しかけるようになった。

小細工は通用しない、時間をかけゆっくりと歩み寄るべきだ、そう考えたのだろう。

「俺達とつるまない? 絶対楽しいって」

優が欠かさなかった毎朝の挨拶だ。

気付いてみると、優の挨拶は心地よくなっていた。

そして、俺の人生の転機とも言うべき時がきた。

あの時の記憶は今も鮮明だ。

真夏が静寂に染まったあの日、俺はセミが絶滅したのかと、本気で心配した。

音の無い夏日には、いたるところに空しさが転がっていた。

道路に落ちた小石を蹴ってみると、案の定寂しさが増した。

その日、俺は遅刻することなく学校へたどり着いた。

そして、誰とも会話することなく教室へと向かった。

途中、ずっと床下を見つめたまま。

ここまでは普段どおりだった。

しかし、俺が教室に入った瞬間、俺を取り巻く全てが変わった。

俺の視界に入ったものは脅威そのものだった。

俺を嘲け笑いながら指差す人。

俺の机にせっせと桐でひたすらなにかを刻んでいる人。

俺のことを哀れそうに見つめる人。

全ての人の表情が歪んで見え、全ての色が滲んでいた。

甲高い笑い声が背筋に張り付いた。

膝が楽しくもないのに笑っていた。

寒気がみぞおちを冷やし、凍えそうだった。

俺は相変わらず、うつむいたまま自分の机へと向かった。

こめかみから汗が垂れた。

それは、運動後の健康な汗とは違う、

心の疲労あるいは異常を知らせる汗だった。

俺が歩き出すのと同時に、笑い声は鳴り止んだ。

俺の机を取り囲んでいた彼らは、意外にも俺にからかいの言葉一つぶつけずに俺の椅子を引いて、そのまま自分達の席へと帰って行った。

途中、何度も噴出しながら。

俺は状況を理解できないまま彼らの引いた机に座り、そこに彫られた読みにくい文字を見つめた。

「不幸なのは自分だけ・・・僕は哀れな少年なんです・・・構わないでよ!」

文字の周りでは木屑が体を反っている。

俺は唖然とした。そして、教室を見回した。

すると、俺の目の前にはいつのまにか一人の男子生徒が立っていた。

亀井亮太。

このクラスでは優につぐリーダー格だった。

腫れぼったい一重瞼の奥に潜む、絶望に飢えた眼差しは忘れもしない。

こいつのいるグループはbullyと呼ばれ、いじめの常習犯をとして有名だった。

「嫌だよ。君みたいな不幸な少年を放ってはおけない・・・ねえ、構わせてよ」

彼は不気味に高笑いした。俺がなにも答えられないでいると、彼は鼻で笑い、のどを低音で鳴らした後、俺に黄色の混じった唾をかけた。

それは俺の髪の毛に命中した。

その瞬間、歓声がわきあがった。

どうやら亮太は俺にタンを吐き掛けることでヒーローになったようだった。

俺は自分のボストンバックのサイドポケットから一昨日の朝に駅でもらったテレクラの宣伝広告の入ったポケットティッシュを取り出し、頭についたタンを拭きとった。

それは、唾よりも鼻水に近い色をしていた。

男子は指をさして笑い、女子は腹をよじりながら笑った。

残りのわずかな同情の眼差しは、俺の状況を説明してくれた。

俺は無意識のうちには席を立ち、廊下へと逃げていた。

わずかに意地が残っていたのか、最初は早歩きだったが、教室からは追いかけてくる笑い声に、俺はとうとう走り出した。

廊下で優の前を横切った。

あの時、優は俺に何か叫んでいた気がする。

俺はそれを無視してより遠くへと駆けていった。

どこへ向かったかは覚えていない。

覚えているのは、どこまで逃げても追いかけてくるあの笑い声だけだ。

俺はそれから五日間学校を休んだ。

あの五日間は葛藤の日々だった。

いじめから逃げるための口実なんかじゃない、本当に体調を崩しただけだ。

自分自身に言い聞かせていることは明白だった。

何度も涙を流した。

なにより現実から目をそらしている自分が情けなかった。

憧れていたヒーローから遠ざかっていく自分を感じた。

母さんの理想から遠のいている自分を知った。

何度も体温計を刺したが、熱は一向に上がってはくれなかった。

家では、俺の看病は兄貴がしくれた。

兄貴は俺の熱が上がらないことには一切触れなかった。

代わりに俺の手を強く握り続けてくれた。

どこまでも母さんと似ている。

兄貴の手は冷たいくせに温もりを感じさせてくれた。

兄貴が俺を守ろうとしたのは、俺のためではなく、約束を果たすためなのだとはわかっていた。

それでも、救いのない世界で、俺は兄貴の温もりに癒された。

ひとしきり泣き続けた後、明日は学校へ行こうと決めた。

事実から目をそらしては、あの時の母さんとなにもかわらない、そう考えたからだった。

五日ぶりの学校、多分その日は雨だった。

覚悟はあった。

しかし、いざ教室の前に立ってみると足がすくんだ。

俺は心臓の放つ重低音を耳にしながら、教室の扉を開けた。

だが、そこに待ち受けていた景色は予期せぬものだった。

彼らの憎悪の詰まった笑い声は聞こえることなく、いじめの主犯グループは、俺に見向きもしなかった。

机は新しいのに代わっていた。見た目も手触りもつややかだった。

あれは教師の手配だったのだろう。

そして、罵倒のかわりに別のものが耳に届いた。

『よう、元気にしてた?』

心地いい声だった。今も昔も、優のカリスマ性は絶対だ。

ひょうきんでいながら頭が切れ、強い心を持ちながら優しさを持ち合わせる。

あの瞬間、現在の親友は俺の憧れと重なっていた。

俺は優の強さに羨望を抱いた。

「仲間に・・・入れてほしい」

「もち、俺から誘ったんだからな。よーし、絶対に笑わせてやる!」

今でも覚えている。

「笑わせてやる」

鳥肌がたつよ。それぐらい臭い台詞だ。

蒸し返してはからかってやるが、最高のくどき文句だった。

恍惚の中、気になったのは亮太の存在だった。

恐怖の中、視野を広げると、亮太は優の背後にいた。

そして、おぞましいぐらいに悪意に満ちた目でこちらをにらんでいるのが見えた。

だが、なぜか視線は合わなかった。

それ以降、奴が俺に絡んでくることはなかった。

今では、俺は心優しきひょうきん者にべた惚れだ。

そして、毎日、あいつの持ち前のギャグセンスに笑わされている。

一方、俺をいじめた連中は優に相当きつくどやされた様で、あれから俺をからかうことはなくなった。

結果として、亮太は完全に孤立した。

しばらくの間はbullyのメンバーを除いて話しているところを見なかった。

クラスの奴らは亮太に罪をなすりつけることで、このいじめを「解決」したようだった。

いじめの怖さをもっと思い知ったのはこいつなのかもしれない。

それでも、亮太は高2の始めの頃には、再びベスト二の地位にまで上り詰めたように見えた。まあ、今となってはどうでもいいことだ。

今は、自分をいじめた奴らと雑談にいそしむことすらある。

だが、未だにあの時の話しはタブーとなっている。

彼らにとってはその場のノリでからかっただけ、それも一日だけだったし、いじめには入らない。

そんな風に割り切っているつもりだろう。

だが、深層心理では「いじめた」という事実を拭いきれていないように思える。

俺が彼らと仲良く話し共に笑えば笑うほど、彼らは胸の奥にわだかまりを感じることだろう。そして、彼らは同窓会などで旧友に再会した時も、中学二年の思い出は語ることが出来ないだろう。

いじめた事実は大人になるにつれ、汚点へとかわる。

彼らにしてみればいっそ俺に謝罪したいはずだ、しかし、そんなことは認めない。

いわばこれは制裁なんだ。

昔のことを長々と思い出し、少し感傷的になってしまった。

思考に集中していたためか、箸の動きはいつのまにか止まっていた。

弁当はまだ半分も残っている。

皆のサッカーの話もひと段落したようだった。

「なあ、何ボーとしてんの」

優が俺の背中に手形のつくほどの活をくれた。

追憶は止めよう。

ここでの俺には今がある。

友達も親友もいる。

それでいいじゃないか。

「なんでもないし!」

俊樹に活をわけてやる。

「おーう、熱いのもらっちゃったよ。お次は・・・」

リレー式の張り手が届き、佐藤は痛そうに背中をさする。

甲斐には活が行き届かなかった。

今日も学校は俺に優しかった。



  今日の話題は、先日行われたサッカーの日本代表戦についてだった。

「てか、昨日の試合、選手交代おそくなかった?」

実際はそこまで気になっていなかったが、あえて興奮して皆に問いかけた。

「確かに。てか、あそこで内田から加持にかえるべきだったって」

甲斐も熱を帯だした。

「いやいや、ディフェンスを変えても得点に繋がらないから、玉田から大久保に変えるべきだったよ」

対する優はキング牧師を真似た姿勢とレクチャーで熱弁する。

「俺も優に賛成かな」

少しばつの悪そうに発言したのが俊樹。

こいつは最近、自分の意見を主張する様になってきた。

そろそろ自分の立場に嫌気がさしてきたのだろう。

キャラ変えに挑戦中といったところか。

一方、ひたすら笑みを浮かべているのは佐藤。

校長を彷彿とさせることから、あの一件以来、佐藤の作り笑いにイラつくようになってしまった。

優のことだから、この二人が未だに自分達に溶け込めずにいることを気にしているのだろう。最近になって、俊樹と佐藤に自分を出すことをそれとなく提案したんじゃないだろうか。

だが、佐藤は根が弱く、俊樹のようにいかないようだ。

「佐藤、お前の意見はどうなの?」

とうとう、優が強行的な姿勢に出た。

「いや、俺は・・・うーん、よくわかんねーや」

笑うことで逃げているのは明らかだった。

優は悲しそうな顔して、そのままなにも言わなかった。

なるほど。これはあるいみ博打だな。

脆弱な佐藤に対していくらお膳立てしても何も変わらない。

そこで、自己主張をしなくてはならない状況に陥れる。

プレッシャーを与えるというわけだ。佐藤がプレッシャーに潰れるのか、あるいは優の思惑通りに事が進むか。

傍観者である俺は、不安のような、期待のような、張り詰めたこの場の空気にゾクゾクしてしまう。

優は決して熱くならないし、引き際をわきまえている。

潰れさせるようなところまで、この作戦を引っ張るはずがないか。

そう考えると、多少の安心感と、確かな興ざめを覚えた。

いくらなんでも、感想が不謹慎過ぎるだろうか。

「なあ、もう鐘なるから、教室移動しようぜ」

俺は熱く語る甲斐をなだめるようにして、教室から連れ出した。

俺は普段は人目を気にしたり、他人の意見に流されたりするのは嫌いだが、例外もある。

一人で廊下を歩くのは寂しすぎるのだ。

人目が気になり、妙に手持ち部沙汰になる。

仕草ひとつに気をつかう。

自意識過剰かもしれないが、学校で一人の空間は心細いものだ。

恐らく、甲斐と共有できる唯一の感受性。

俺達はもう高校2年生だ。学校側も受験を視野に入れ出すため、専攻する分野によって教室が分けられる。

文系か理系か、国立狙いか私立狙かでクラス編成が行われ、更に、英語や体育などの必修科目を除き、専攻する科目により授業を受ける教室が変わる。

去年の内に自分が受ける大学を受験するのに必要な科目を選んだのだが、俺と甲斐は文系で、国立大学の同じ学部を第一志望に据え置いてあることもあり、選んだ授業がことごとくかぶっている。

この学校においては、科目数の差を踏まえずとも偏差値から言えば国立狙いの生徒の方が、私大狙いの生徒よりも勉強ができる傾向にある。

性格の幼稚さは勉学に必ずしも影響するわけではない。

甲斐を見ているとよくわかる。

次は地理の授業だ。

新学期が始まり、座席表が配布されたとき、俺は気が重くなった。

面倒なことに隣人は甲斐だった。

こいつは嫌いじゃない・・・が好きでもない。

ただ、授業中に関して言えば別だ。

甲斐は天才肌で勉強に力を入れない。

そして、気遣いを知らないため、まじめに授業に励んでいる俺のような生徒に飽きることなく話しかける。

これに関しては、はっきりとウンザリだ。

優も俊樹も佐藤もいない教室で、俺は一人この男の相手をすることになるのだ。

目的の教室へつくと、俺と甲斐は要点のない会話を進めながら、指定された席へと座った。

「なあ、知ってる?」

甲斐は手の甲をこちらに向ける形で、鼻を隠しながら言った。

甲斐は体つきこそ華奢だが、目は切れ長で、唇は小さく形もいい。

髪形は短めで、トップを立てて、恐らくアクセントをつける意味で前髪をひねり下ろしている。

顔のパーツはほぼ完璧。

髪型は今風。非常に惜しい。

甲斐の面には本人も気にしている欠点がある。

油で光り、毛穴の黒ずみが無数に散りばめられているなんとも醜い団子鼻だ。

甲斐が話を続ける。

「知ってるわけ無いか、鮮度抜群だもんこの情報」

甲斐は狩人の眼差しで構えると、急に空気に襲いかかった。

彼は空中にいるらしき何かを捕まえたようだ。

それは暴れているようで、捕まえている甲斐の腕が激しく上下する。

「ほららぴちぴちだぜ」

笑ってあげた。

始まった。ここはもう甲斐の手中。

教室でなく喋り場だ。

甲斐は普段はそこまで俺に絡んでこないのに、授業となるとよく喋る。

声がもともと低いのと、こそこそするのが上手いため、教師に注意されることはほとんどなく、むしろ仕方なく相槌を打つ俺の方が叱られる。

そうすると甲斐は満足げな表情をして、悪かったよー、とほざく。

つまり至極面倒なわけだが、ここで「知ってるよ」とか「興味ない」などの発言をしたらこいつは怒り出すだろう。

甲斐は人にあしらわれることを嫌う。

だから、俺は何も言わずあごをしゃくってやる。

「向井のやつ中三と付き合ったらしいぜ、マジうけるよな、あのロリ野郎」

向井というのは理系の生徒だ。顔はお世辞にもかっこいいとは言えないが、天然キャラが売りで、学校全土でそこそこに認知されている。

「まあ、いいじゃん、恋愛に年は関係ないだろ」

「いや、何いってんの、関係あるだろ。相変わらず頭悪いな」

「・・・まあ、とにかく、今は授業に集中しようぜ」

こいつは二人で話すと異様に毒舌になる。

よく喋る割には、まともなコミュ二ケーションをとることが、苦手なのだろう。

甲斐の話に完全に無視を決め込むのは多少気が引けたが、仕方がない。

家の経済状況を考えれば、俺は国立を狙わなくてはならない。

それに甲斐の機嫌ばかり気にしていたら身が持たない。

しばらく黙っていると、甲斐はふてくされた様子で別の生徒に話かけた。

いざ授業に集中しようとする俺に、聞き流せないような言葉が届いた。

「あいつの家、かなり大変らしいよ」

「えー、ひどいね」

俺の席からそう遠くない席で、数人の女子生徒が驚嘆の声を随所に入れながらこそこそと話していた。

嫌な汗が背筋に流れる。

あいつ? 誰のことを指している。

家が大変? どんな風に。

その場で、彼女達に問い詰めてやりたい衝動に駆られる。

「マジで。そこまでいくと、同情するね」

聞き上手な女子達は、一間おきに言葉を挟む。

それがわずらわしい。

俺が聞き耳を立てていることに気付いたのか、彼女達の内の一人がこっちを怪訝そうな顔で睨み付ける。

自分でも意識しない内に、俺の顔は彼女達の方を向いていたようだった。

その話に動揺していることに気付かれるわけにはいかない。

苛立ちとあせりの中、俺は黒板の方へ向き直った。

何を怯えている。

今までだって似たような事態は何度もあっただろう。

あの校長の存在が頭によぎる。

まさか・・・いや、いくらなんでも教職についていながら、生徒の秘密を守れないほど愚かじゃないよな。

そう、校長は俺の問題を処理することができない。

だから、当分は放置するはずだ。

この考えに行きつくのにずいぶんとかかったんだ。

今更振り出しにもどっていいはずがない。

「いや、さすがに、それはなくない」

いつも何気なくつかっている「なくない」の意味がわからない。

あるのか、ないのか、はっきりしろ。

耳がひとりでに声を拾う。

俺は彼女達の声から逃げる手段として、甲斐に喋りかけた。

「なあ、甲斐、明日体育なにすんだっけ? ソフトボールだっけ?」

震えた言葉が先に、追って顔が甲斐のほうへ向く、事の順序などどうでもよかった。

甲斐はなぜか小さく笑っていた。

声をあげるのをこらえているように見える。

禍々しい冷笑だ。

俺は思わず目を反らす、状況が理解できない。

ふと、頭に過去の記憶が蘇る。

似ている。

俺に微笑む憎悪、理解を超えた状況。

そして、この恐怖。

後は俺がここから逃げ出してしまえば完璧だ。

俺はひどく呼吸を乱しながら、甲斐のほうへ向き直る。

しかし、そこに俺の想像していた悪意はなく、甲斐は不気味なものを見るかのように俺を窺う。

「どうした? 顔色悪いぞ」

錯覚・・・だったのだろうか。気がつくと、女子たちの話題は昨日のお笑い番組に移っていた。

前を向き黒板を見ると、文字もそれがすすけた黒板消しで消された痕跡もなく、全面艶のある緑だった。

すっかり忘れていたが、この授業はテストが近いため、最初の十分以降は自習の時間だったのだ。

教師はいつのまにか教室を出ていた。

体から力を抜こうとすると、思うようにはいかず逆に力が入った。

そのショックでいつのまにか握っていたシャーペンの芯がへし折れて、目にも止まらぬ速さで、俺の目もとに激突した。

「おい、お前ちょっと面白すぎじゃん」

甲斐にお褒め頂いた。この授業中はあまりいいやり方とは思えないが、シャーペンを分解したり、それを組み立てたりして気を紛らわせた。



  部屋の窓から見える隣近所の桜が絶滅した。

多様な花は咲けども、ピンクのない景色に華は咲かない。

校長室から覗けた八重桜はどのように散ったのか。

あれからもう二ヶ月近く経つが、あのことが女子達の話題に上がることはなかった。

そこから判断するに、この学校の生徒の話ではなかったようだ。

しかし、未だに釈然としない。俺は常になんらかの不安にさらされている。

今日は創立記念ということで学校は休みだった。

学校の誕生日は祝わなくていいの? そう母さんに訊いたことがある。

母さんがなんて言ったかは思い出せないけど、父が祝われ事が苦手な奴もいるんだよ、って教えてくれたのは覚えている。

父もそうだった。

誕生日は祝わせてくれなかった。

誕生日は家に帰ってこなかった。朝帰りというやつだ。

だから、母さんと兄貴と俺の三人で昔の家の居間でこっそり祝った。

父が好きなチーズケーキにロウソクはたてなかった。

多分消すときに惨めになるからだと思う。

俺はチーズケーキが苦手になった。

我が家の記憶は綺麗なものじゃない。

それでも幸せだと思えたのは俺が無知だったからなのか、そんな寂しい理由じゃないはずだ。昨日、俺は優に映画に誘われた。

いつもなら、母さんの看病があるためきっぱりと断る。

優はしつこくせがんだりしない。

だが、今日は兄貴の仕事が休みらしく「たまには遊ぶ時間も必要だろ、いいよ、母さんのことは俺に任せろ」と兄貴が言ってくれたため、俺は明日一日、自由の切符を手に入れた。

それならば優の誘いを断る理由はない。

二言でOKした。

優はだめもとで誘ったらしくとても驚いた声をだしたが、それ以上、反応には出さなかった。どこまでも気のきく奴なのだ。

俺は携帯電話を持っていないため家電で優と話し合い、その結果、行き先は渋谷に決まった。久しぶりの外出だ。

心躍る。

翌朝、俺は予定の待ち合わせの時間より1時間近く早くハチコウ前に着いた。

俺はわずかな緑を囲む手すりに尻を乗っけながら待った。

足が地面に届きそうで届かない。

まさかの短足。

久しぶりの外出、しかも、行き先が渋谷ということで、今日は服にも気合が入った。

肩のあたりに斜めのチャックが入った、深いVネックの黒長袖。

それに合わせて、こちらはシンプルにLeeの青のジーンズ。

お尻の位置についたブランド名の刺繍された革ラベルがポイント。

ちなみにこれらの洋服のほとんどは、来年で二十歳になる親戚のおさがりとして譲り受けた。それらは包装こそされていないものの汚れやしわなどどこにも見当たらない、新品同様の服だ。

察するに、家の財政難を見越して新しい服をよこしてきたのだろう。

しかも、気負いさせないためにおさがりといった形で渡してきたのだろう。

親戚の苗字は加藤という。

一家の主である加藤信也さんの仕事の都合上岩手に住んでいる。

加藤さんは、毎年数回に渡り家に仕送りしてくれている。

中身は洋服だったり、果物だったり、洗剤やらの生活用品だったりと、様々だ。

俺の服のサイズについては電話で聞かれる、加藤さんは仕送りが届く五日前ぐらいに電話をよこしてくる。

俺は一度だけ、親切な加藤さんに意地悪な質問をぶつけたことがある。

「いつも色々なものを送ってくれてありがとうございます。兄貴からもよろしく伝えてくれと言われています」

「いやいいんだよ、それにしても、昇君は電話の対応もしっかりしているね」

「あの、一つおききしたいことがあるんですが」

「うん、なんだい?」

「なんでいつも宅配なんですか、いつもいいものばかりもらっているから、きちんとあって御礼もしたいのですが・・・」

少し黙ってから加藤さんは言った。

「ああ、僕も昇君や、正君の顔を見てみたいんだが、岩手と東京じゃ距離があるしね。なにせ忙しくてね。まあ機会があったらね、その時は遊んでくれよ」

いつかは俺からこの質問をされることは想定していたのだろう。

てきぱきとした受け答えだった。

精神に疾患を抱える母さんにどう対応すれば良いのか、もし、俺達に泣きつかれたらどうするのか、加藤さんが家の事情に深入りしたくないと考えるのも理解できる。

それでいて、電話ではかかさず母さんの調子を訊いてくる。

俺と同じで心配なのは母さんではないのだろう。

親切な加藤さんはあまりにずるい。

服装は俺なりに頑張ったが、周りの若者達を見ると、自分の格好が田舎者臭い気がして、一人で恥ずかしくなった。

やはり渋谷は凄い。

俺は過去に二、三回来たことがあるが、その度驚かされる。

アミューズメントパークさながらのにぎやかさ。

日本一の人口密度。

人々の卓越したファッションセンス(中には行き過ぎの人もいるが)。

どれをとっても刺激的だ。

町田に住んでいる俺が言うのもおかしいのだろうが。

「よう、昇、」

優のご到着だ。

おしゃれなピンクの中央でミッキーマウスがよく栄えている。

大き目のデニムパンツをはいている。

紐式で全体的に軽い造りの靴は、彼がひいきにしている靴千代田で買ったものだろう。

緑色の紐が黒い生地でアクセントになっている。

優の洋服のセンスは奇抜すぎないでいい。

よくわからないが、恐らく流行を押さえているのだろう。

この町でも全然浮かない。

「お前早くない? 俺ですら三十分前なのに、いつからいんだよ」

「楽しみでしょうがなかったわけさ。君に会えるのが」

真顔で言ってみる。優は驚いた顔をして切り返す。

「困るな・・・いや、実は俺も・・・」

胸を掴んで俺と地面を交互に見つめる。

もじもじして、瞬きをたくさんする。

公共の場で、敢えて周囲からの誤解を誘発してみる。

周囲の反応がいい具合に冷えてきたので、俺たちは満足げにその場を後にした。

今日見る映画は最近、アメリカで興行収入の記録を更新したことで話題になったコード・ビザールというアクション映画だ。

俺たちが見る予定の回の上映時間までそう長くない。

人垣を裂きながら歩いたことでだいぶ疲弊した。

校長講和のために全学年の生徒が体育館に押しこめられた時と同等の密度を、常に体感しなければならないのだ。

こうまで数が多いと通行人は障害物でしかない。

ここは人は多いが、人間味の薄い所だ。

ビルに張り付いている大型ビジョンから流れる多種の宣伝。

右翼の天皇制復活と反米路線に向けての宣伝活動。

ハローキティのような格好をしたおばさん達の行進。

賑やかではある。

でも、住みたいとは思えない。

ここは賑やかだが寂しすぎる。

俺は町田も好きでないが、渋谷よりは幾分ましだ。

上映開始から五分経過したところで映画館につき、コードビザールが放映される五番スクリーンの指定された席に着くころには、十分ほど経過していたが、ちょうど来季の映画の予告やらが終わるところだった。

上映時間は三時間・・・長かった。

席から立つ時、足がもつれかけた。

内容は黒人の主人公が相方の中国人と協力し、世界を揺るがすような悪だくみをする敵を倒す、という勧善懲悪のストーリー。

いつか、どこかでみたようなものだった。

酷似していたためデジャブーだ、と優に小声で伝えてみたり、名前は違うが中身は続編、というオチではと疑ってみたりと鑑賞とは別に忙しかった。

全体を通しての感想は微妙。

決して面白くは無いが、最悪でもないため、俺達のような毒舌な高校生の話題にも上がらない。

俺達は映画を見終えた後、近くにある小戸屋に行くと決めていた。

人ごみを嫌いタワーレコードの店内を通り抜けた。

人を避けるため上ばかり見ているので、足が地面を踏んでいる感触が鈍くなる。



 ロボットのように均一なテンポで話す店員が四十分待ちです、と当然のように言ってのけてから、すでに一時間近く待っているが、一向に呼ばれない。

優は苦笑しながらお手上げのポーズをとっている。

さらに十分後。

ロボットに案内された席はこの店の最奥だった。

優が手前の椅子の方へ座ったので、俺は奥のソファーに座った。

テーブルは控えめな大きさで椅子の数からして四人用の席のようだが、とても四人分の料理を並べられる面積はない。

店自体もビルの二階に敷かれ、空気は悪く横を向けばそこに壁がある。

その壁がじょじょに迫ってくるような気がして圧迫される。

俺は席に荷物を下ろすと、シーフードカレー大盛りで、と優に言付けトイレに立った。

すぐに小便をすまし戻り、注文した? と椅子を引きながら期待せずにメニューを持つ優に問いかけてみた。

すると、優はこちらをチラッと窺い、注文を決めたのだろうかメニューをたたんだ。

俺は意味もなくいつの間にか手にしていたメニューを、テーブルの上においた。

優の顔つきが変わった。

こうやって瞬間的に身の回りの空気を変えることが、こいつにはよくある。

「なあ、映画見た後なのに、全く関係ない話で悪いんだけど」

そこは全然問題ない。

「ん、何」

「俺さ今、悩んでるわけよ」

表情が堅い。

「・・・なについて?」

俺も真剣に聞き返した。

店員が水を注ぎに来たので、いったん話は中断された。

俺はガラスに入った氷を転がしながら優が話だすのを待つ。

氷とグラスは綺麗な音を奏でる。カラン、コロン。まるで―

「オレンジレンジの桜じゃん。それ」

俺の内心の言葉より一歩早く優が言った。

仲のいい友達と同じ価値観、感受性を共有できるのは嬉しいものだ。

「カランコロンまた広がる、カランコロンまた広がる、のフレーズだべ。懐いなーその曲」

「俺もそう思ってたんだよ、マジで、意思疎通完璧すぎだろ。いやー気持ち悪」

優は自分の両手で自分の両肩を抱いた。

俺達は周りを気にせず大きな声を出す。

自分たちは他の誰よりも楽しんでいる、と知らしめたい。

「さすがの小人もびっくりだわ。どんだけー」

優は人差し指を立てて左右に振る。

声が高いせいか無駄にリアル。

「いや、うるさいよ。小人とイッコウ混じると複雑だから。古いし。てか、それはいいとして、なに悩みって?」

俺達の会話に唐突はつきものだ。脈絡だっていらない。フィーリングでカバーだ。

「ものすごい切りかえしだな、クリスティアーノロナウドですかって感じ」

そうでもないらしい。

「はい、もういいから、で、なんなの悩みって」

優の顔が引き締まった。人差し指もたっていない。

「まあ・・・その、大きくわけて3つあるわけなんだ」

「おおお、3倍めんどい」

「ひとつは、2文のやつらのこと」

うちの学校は理系と文系が大きく隔てられている。

1、2組みには文系の生徒が、3、4組みには理系の生徒がそれぞれ在籍する。

更に、希望大学が国立の場合は文系で1組、理系で3組、私立大学の場合は文系で2組、理系で4組に編成される。

二つのクラスで生徒が入れ替わったところでさして変化がないせいだろうか、うちの学校にはクラス替えがない。

「うん、なにか問題でも。」

「2文の加藤いるだろ?」

正式にはそれぞれ文系1組、文系二組なわけで、省略するにしても、文1、文2なべきなのだろうが、うちらの学年では2文、1文といった具合にひっくり返して呼称する。

その理由なんて分かるわけもない。

「ああ、あいつがどうかした?」

「体育際が近いからかな? 最近やけに絡んでくるんだよ」

行事は基本クラス単位で行われ、また、勉学的なこともあり、1文と2文の間には大きな対抗意識がある。

例外はあるものの、1文と2文の生徒は基本的につるまないのだ。

「ほっとけよ、2文の奴のことなんか」

「まあね、でも・・・」

でも、心が痛い、と表情から伝わってくる。

「あいつ、たしかクラス委員長になったんだろ?」

「うーんそうだな、で?」

優は目を横に流し、窓の外を見つめながら喋る。

「いや、だからクラスの代表としてお前に対抗意識。」

「うちの代表は俺じゃくて、小泉だろ」

「建前上はね」

我が1文のクラス委員長は小泉という究極的に目立ちたがりやの男子である。

まあ、それは優が立候補しなかったからなんだけど。

「わざわざ、気に留めてやる必要もないんじゃない? はい、ひとつ解決」

「・・・二つ目はクラス内のことなんだけど、亮太、立候補しなかっただろ」

「クラス委員長のこと?」

優の表情がまた暗くなる。

自覚しろ。

おせっかいだから、そうやって色々背負うことになるのだ。

「そう、あいつが立候補しないなんて変じゃないか?」

「わかってたんだろ。自分には票が入らないって」

「でも、あいつ、どんどん暗くなっていくよな」

「自業自得だろ」

優は口をつぐんだ。

確かに、最近の亮太は不気味なほど静かだ。

ずいぶん素直にクラスから手を引いたものだ。

今ではクラスの連中にそれなりに影響力を持つと聞いたのだが。

「はい、二つ目解決。本題どうぞ」

優は笑顔でもって、うん、今日はいつになくスムーズだ、と言った。

優はいつも三つ四ついっぺんに相談してくる。

必ず最後にもってくる相談事以外は全てウォーミングアップでしかないのだ。

本人もこの癖に気づいているのに止めようとしない。いいけどね。

「甲斐についてなんだけど・・・最近おかしくないかな、あいつ。別に悪い意味でとか、そんなんじゃないだけど。俺達からこそこそしてない」

同感だった。

最近の甲斐は俺達から少し距離をあけるようになった。

「ああ、でも、あいつなに考えてるかわかんないから、それにこれは見間違いかもしんないけど、この前だっ・・・」

危なかった、俺はやってはいけないミスを犯すところだった。

俺はこの前、甲斐の見せたあの狂気の笑みについて、単に俺の錯覚だったという可能性を含めた上で、優に話すつもりだった。

しかし、そんなことをすれば、それまでのいきさつをも説明する必要がでてくる。

そうなれば、家庭事情を優に悟られてしまう。

「あー考えれば考えるほど、あいつなんかうざいわ!」

無茶苦茶だ。前後が繋がっていない。

「・・・酷すぎ! ウザイはないでしょ!」

優は腹を抱えて爆笑する。

俺はどこまでこいつに救われれば気が済むのか。

優は勘がいい。

俺は家のことについて優に話したことはない。

にもかかわらず、こいつは俺の状況を察してくれている(さすがに母さんが薬中だとは思っていないだろうが)。

今まで一度も俺の家庭事情を尋ねてきたことは無い。

また、甲斐や他の二人が話の流れで親について質疑応答していたとしても、その話が俺に来る前に、それとなく話しをそらしてくれる。

俺は優に感謝しているし信頼している。

だからこそ、我が家と優を結びつけてはいけない。

「なあ、今度は俺のほうから相談てか質問」

えー面倒、という発言を完全に無視して続けた。

「お前さ、ミーナにまだ気持ち伝えないの?」

「おいおい、唐突すぎじゃない」

優とミーナは相思相愛だ。

ミーナが最も笑う機会が多いのは優と話している時だし、優は自分の口から「俺、ミーナに恋した」と言っていた。

二人に対する想いを天秤にかけたとか、そんなに単純な話じゃない。

そもそも、俺にとって友愛と異性愛は別のステージに位置する。

同時に成立しうるからだ。

(異性愛と家族愛は必ずしも区別はできない。異性愛に傾いた時、家族愛は疎かにされることがある。経験にそう教わった)

だが、二つの愛情が俺とは無関係の場所で関係を持ってしまったら、話が変わってくる。

一つの愛情に対する行動が、連動的にもう一方の愛情になんらかの形で作用する。

二人の間に入り込む余地がない場合、その作用は負の属性を帯びるに違いない。

大切な二人をいっぺんに失ってしまうであろうリスクを冒す意味がない。

現状維持。

つまるところ、これが俺の答えだ。

「で、まだなの?」

「うん、まあ、近いうちにね」

優は再び目を流した。今度は店内を見つめている。

「そっか」

不意に優の眼差しがこちらへ向いた。

「昇、お前、ホントはミーナのこと・・・」

「まさか、ミーナは君のもの」

おどけてみようとしたら声が裏返った。

優が複雑な表情をしてこの会話は終わりを迎えた。

逃げ込むようにグラスを覗くと、綺麗だ。

注がれた水や氷が美しいオレンジに滲んでいる。

オレンジレンジネタはもうあきたのに。

優は薄い眉毛の片方をクイッと持ち上げると、すっかり忘れていたけどここ飯食うところじゃん、といいメニューをとり見つめている。

金欠らしいが、人から金を借りるのも彼のポリシーに反するらしく、少ないお金でいかにカロリーのあるものを頼むか、今、彼は思案にくれている。

水を一気に飲み干して気付いた。

グラスそのものがオレンジ色なだけだった。

優はポテトとチキンの盛り合わせを頼んでいたが、それでは彼の胃袋を満たせなかったようで、結局、俺がなけなしの金をはたきシーフードカレーをおごってやった。

飯を頼んで、食って、笑って話せることばかり喋った。

笑いすぎて腹筋が軋む。

明日の筋肉痛は確定か。



 暑いというよりは、熱い。顔を上げれば、窓越しに見える景色が揺れる。

今年の猛暑は凄まじい。

俺にとって辛い日々が始まる。

夏休みの到来だ。

毎日、母さんの調子を気にかけながら過ごし、兄貴の帰りを待ちながら晩飯を作る。

今まで、俺の夏はこれの繰り返しだった。

まるで専業主婦だ。

ここのところ母さんの様子が優れない。

今までの見てきた禁断症状とは違う。

より危険な反応をみせる。

完全に放心し、そのままほってとくと呼吸困難に陥る。

俺が深夜の三時に、母さんの様子を確認する時まではなんともない。

だが、四時間後、俺が起きたときにはすでに危険な状態にいる。

不信に思い、何度か徹夜で母さんの様子を見守ったこともあったが、その時は特に異常な反応は見せない。

嫌な予感がする。

最近は母さんが呼吸困難に陥る頻度が増してきた。

とにかく、このままほっとくわけにはいかない。

かといって入院は駄目だ。

それは俺の破滅を意味する。

とにかく母さんの身に起きている症状を突き止めるのが先決だ。

俺は近くの市立図書館へと向かった。

何度も足を運んだ場所だ。

母さんしかいなく、母さんを更生させられると信じていた昔から、他に守るものができ、母さんが手遅れだと気づいた時まで、俺は図書館に通い続けては薬に対する調べを進めた。

記憶を確信にするために、五冊ほど薬物について述べている本を調べたが、それらに載っている症状の事例と母さんのそれは大方一致していた。

正確にいえば症状でなく状態だ。

危険な時の母さんの状態はまぎれもなく、薬物の過剰摂取による呼吸困難だった。

とにかく、極めて危険な状態らしい。

この時点でもうだいぶ精神的にまいっていたが、俺にはもう一つ、どうしても確かめなくてはならないことがあった。

それは俺がずっと目をそらし続けていたものだ。

事が事だけに、現状維持というわけにもいかない。

怖いがやらねばならない。

俺は家に着いたらすぐに母さんの寝室へと向かった。

大掃除の時でさえも、俺が踏み込まないのは兄貴の部屋を除いて、この部屋だけだ。

寝室は俺の部屋以上に質素だ。

六畳ぐらいの和室。

175センチある俺の背丈より縦があり、俺の横より3倍近い長い横幅を持つ庭に続く大きなガラス扉。

その端に寄せられている障子。

丈のある鏡が部屋の様子を逆さまに写している。

この前までは緑色だった畳のうちのいくつかは、最近クリーム色に変色しだした。

内装は、母さんが寝るためのシングルベットと、古びた赤褐色の箪笥一寸、それ以外は何も無い。

昔は様々な家具が置いてあったが、どれも値打ち物だったため兄貴が売払ってしまった。

俺が図書館に行く前に、すでに母さんはリビングのソファーで眠っていたので部屋の中は無人だった。

俺は部屋の一番奥にある箪笥に手をかけた。

現在は、この部屋で物を収納できる唯一の箱ということになるのだが、正直気味の悪い姿をしている。

日本独特の錆びた鉄のような色合い。質素でひねりの無い四角。

日本人形を隣に置いたら良くあいそうだ。

なぜこの箱だけが残ったか、俺にはなんとなくわかる。

一度だって祝われたことのない結婚記念日に、初めて父が母さんのために買った箱、ということにして俺と兄貴が母さんに渡した箱。

そして、その場で母さんに感づかれてしまった箱。

かつて、母さんは大事なものを全てこの箱にしまっていた。

父との婚約指輪。

フィンランドに行った時に撮った家族の集合写真。

少し前までは俺の書いた作文も、何重にも折りたたまれてここに収められていた。

ある日を境に、母さんはその箱から中身を一つずつ抜いていっては破壊した。

家族の写真が破り捨てられた次の日、俺は最後に残った自分の作文をそっと持ち出した。

箱が象徴するのは、愛情と悲しみ。

母さんはどちらにひっかかり、この箱を前の家から持ち出したのかはわからない。

この中にあるものが例えなんであるにしろ、我が家の実態を明らかにするものだ。

そう思うと息が荒くなった。息を飲み、箱に手をかけた。

箪笥が開くときに鳴った、甲高く、それでいて乾いた断末魔のような叫び声が耳に痛かった。中には空間以外、なにもありはしなかった。

この瞬間、疑問は確信へと変わった。

なぜ、母さんが呼吸困難に陥ったのかではなく、なぜ、母さんが薬物中毒なのかについて。

とうとう、俺は真実を逃げずに見た。

だが、それだけでは不十分なことはわかっていた。

ならば現状打破・・・何を考えているのか、そんな気もないくせに。

嫌な感情が背中をつたうのがわかった。

なんでこんなことになったのかと、幾度となく繰り返した自問をした。

対して、お決まりの自答。俺が母さんに最愛を注がれて入れば、こうはならなかったんだ。

あんな屑を愛したことが母さんの最大の罪である、と。

ひどく疲れていたが、俺には夕食を作る義務があった。

母さんと・・・兄貴のために。

今日の料理は、そうだな、カレーでいこう。

昨日、カレーのレトルトを兄貴が買ってきたのだ。


  俺が食卓の準備を済ましてから30分くらいたったところで、兄貴が帰ってきた。

俺は普段どおり料理をテーブルに並べ、寝ている母さんの体を揺すり、テレビをつけた。

一家惨殺、児童誘拐、官僚暗殺未遂、ニュースは今日もおぞましい。

食事が始まった。

レトルトのカレーは甘口だった。母さんの好物だ。

兄貴は母さんのことを何でも把握している。

最近は俺が母さんの口に食事を運ぶ。

母さんは、一人で食事することすらままならなくなっていた。

一応訊いてみる。

「母さん、食べる?」

答えは返ってこないが、放心していないだけまだましだ。

俺はカレーと白飯を絡めた。

母さんの口に押し込むようにそれを入れようとしたとき、母さんが喋った。

もう何ヶ月も、うわ言しか言わなかったのに。

「あ・・・びがと」

ありがとうって言ったのか。

俺は兄貴の方を勢いよく向いたが、兄貴は俺の視線に気付くことなく飯を食い続けている。

カレーのルーが皿を飛び越えテーブルにこぼれている。

幻聴だったのか、母さんが意味の分からない単語を並べたのがそれらしく聞こえたか、あるいは俺が願いのままにそう聞いただけなのかもしれない。

でも、万が一にもありがとう、と言おうとしたなら・・・笑っていた頃の母さんの顔が頭によぎる。

同時に、ずっとごまかし続けていた、罪の意識に襲われる。俺はスプーンをカーペットに落とした。

カーペットに取れそうもないシミがつく。

自分の感情をコントロールできなくなり、その場に崩れた落ちた。

必死に涙をこらえた、それでも嗚咽だけは漏れてしまった。

「ごめん、母さん・・・・」

言葉など続きはしない。何を言ってもいい訳にすぎない。

母さんがルーを指ですくい、その指ごとしゃぶっている。

兄貴が俺を心配そうに見つめる、そして、優しく俺を慰める。

「どうした? 何泣いてんだよ。母さんの体調のことを気にしているのか? あれはおまえのせいじゃないよ。お前はよくがんばってるし、それに薬」

薬、という言葉をいい終わる前に、俺は兄貴の胸倉をつかみ壁に叩き付けていた。

兄貴の皿がひっくり返り、座っていた椅子が後ろに倒れた。

この人が赦せない。

違う、本当に許せないのは自分だ。

俺はゆっくりと兄貴の胸倉から手を離した。

兄貴ははっとし様子で、「悪い」とつぶやいた。

俺は母さんにもう一度「ごめんね」と言ったあと、席を立ち、家を出た。

走った。

あの時と同じで、行き先はわからない。逃亡だった。

俺はなぜ、兄貴の言葉を奪わなければいけなかっただろうか。

「悪い」

 そう呟いた兄貴の顔が忘れられない。

夜道に蛍光灯の薄らいだ明かりが、アスファルトに漏れている。

俺はその合間を縫うようにして駆ける。牢獄から逃げ出す囚人のように。

膝を高く上げ着地している時間を短くして、持てる力を余すことなく足に伝える。

そうだ、俺は真実を知った。

あの箪笥をあける前にわかっていたことなのに動悸が収まらない。

駆けるのをやめ、冷えた汗を手の甲でぬぐった。

人のいないアスファルトに腰を下ろした。

空気だけでなく、風景も冷えて見える。

空を仰ぐと、この町には似つかわしくない星が一等輝いていた。

近くの木々が音をたてて揺れる。

多分、風のせいで。

「母さん、ごめんね」

こうして謝ることすら矛盾しているのはわかっている。

これまで俺は母さんを死体として認め、扱ってきた。

その屍を軽蔑はしても、後ろめたさを感じす必要はないはずなのだ。

俺がこうして母さんに罪の意識を感じているという事実は、俺のしてきた行動を不都合なものにするし、今後も不都合が生じすぎる。

今まで作り上げた全てが否定される。

母さんが汚れものだと認めることになる。

ダメだろ、そんなの。

理屈に感情がついてこない。

あふれ出す罪悪感が胸を焦がす。

どうせ、渦巻く葛藤はいつもの答えへ終着するのだ・・・あれは母さんじゃない、と。

今日だけ、今だけ、罪を感じる自分を許そう。

歌った。

母さんの声じゃなく、今現在の自分の声で不釣り合いなヒーローソングを歌った。

一夜限りの粛罪とした。


  次の日の朝がた家に戻った。

また日常が始まる。

昨日の出来事は我が家の記憶から見事に消えた。

兄貴も俺も普段どおり過ごしていく。

日常を消化する。

不変の我が家で普遍の時が刻まれるだけ。

何も変わらない。

変えられない。

変えるわけにはいかない。

子供のころ毎週欠かさず見ていたアンパンマンを思い出す。

大好きなのに、今は彼を見ると、歌を聴くと、どこか憂鬱になる。

俺の心の中は空洞か、詰まっていたとしても不幸な感情。

だから、人に分けてあげられるようなものじゃない。


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