オンザロックその後
西馬のテンションは下がる一方だ。そもそもテンションを上げる要因になるようなものが、ここには何一つない。普通なら「癒し」になりそうな猫さんも、西馬に対しては「ツンデレ」の「ツン部分(しかも強烈)」しか出してこないから近寄りがたい。
当の黒猫は、今はクッションの上で丸くなっている。さっきまでイライラと揺らしていたシッポも、どうやら少しは落ち着いたらしい。
こんにゃく焼酎のラベルがまっすぐに正面を向いている。先ほど出した1杯分だけ、ボトルの中身が減っていた。それがいやに現実的だった。他のものは、だいたい現実味に欠けているのに。
やることがない。閻魔大王が使った寸胴のグラスを、西馬は丁寧に洗った。さっきみたいな痛い目に遭いたくないので、グラスを落っことして割るわけにはいかない。
グラスを伏せて置き、しずくを切る。ため息。一仕事を終えた感。そして思い出す。さっきの閻魔大王の表情だ。さらに言うと、たった1杯しか飲んで行かなかった。閻魔大王に限って、体調を崩すなんてありえないし。鬼のかく乱の上を行く感じになってしまう。
(そんなにまずかったのか……)
自分が出した酒に、あんな顔をされたのは初めてな気がする。イヤなことがあって飲みに来て、飲んでイヤなことを思い出して顔をしかめる客なんかはいたな。頭をかかえて反省している人とか。泣いちゃう人とか。いろんな人がいた。
はぁ~あ。
すっごく、でっかい、ため息が出た。地獄の端っこみたいなところでバーテンダーの真似事なんて、やりたくてやってる訳じゃないよ。でも何なのだ。このモヤッた感じは。もう、なんだかな、もう。
「うるさい」
静けさを切り裂くナイフのように、冷たい黒猫の言葉。
「空気がよどむ。ため息つくな。むしろ息するな。うるさい、黙れ」
西馬に喋る隙を与えない、黒猫の言葉の波状攻撃だ。西馬はただ口をぱくぱく。水槽の金魚みたいだ。口から泡出しちゃう。ぷくぷく。ぷくぷくって。
はぁ……と、口から出かけた息を飲み込む。
「黙れ!なんか言ったらどうだ!いや黙れ!口を開いたら引き裂くぞ!って言うか!」
黒猫が立ち上がった。したした。カウンターを歩いてくる。目が怒りのために爛々と燃え上がっている。殺意の塊みたいだ。めちゃくちゃ怖い。
「お前らクソ人間がいつまで経ってもクソだから、閻魔大王様があんな辛い目に遭わなきゃいけないのだっ!うるさい!黙れ!」
「そんなこと言われても」の「そ」の形のまま、西馬は固まった。黒猫が何を怒っているのかも分からないし。ただ、両手をホールドアップして、狭いカウンターの中をじりじり。後ずさりするにも限界。すぐバックバーにぶつかってしまう。
「クソが」
それだけ吐き捨てると、黒猫はクッションの上に戻って行った。
結局、なんのために黒猫がぷんすかと怒っているのかは、よく分からない。ただ、人間のことは基本的に好きじゃないみたいだ、というのだけ分かった。
(うん。なんとなく感じてはいたけど)
それに閻魔大王の表情の訳も。よくは分からないが「辛い目」に遭ったのが原因だったっぽい。なんだか急に人間味を感じる。閻魔大王が相手だというのに不思議だ。
手に触れた布で、さっき洗っておいたグラスを磨くことにした。布を片手の上に広げて、そこにグラスを置いて、余った布をもう片方の手で持って……。
どんなにキレイな色の美味しいカクテルを作ったって、グラスが曇っていたら台無しになってしまう。だから、西馬は「グラスを拭く」のではなく「磨く」と考えていた。
無心になってグラスを磨く。光を透かして見る。完璧だ。グラスを棚に戻す。もう、やることがなくなった。そう思ったら、隣のグラスが曇っているように見える。西馬はそれをとって磨くことにした。
(はいはい、キレイになった)
これも棚に戻す。すると、不思議なことに、さらに隣のグラスが曇っているように見える。あれれ?怪奇現象?
西馬はグラスをとって磨き出した。なんとなく、ふわっと思い出す。
昔はこんなだった。暇さえあればグラスを磨いてた。お客と喋りながらも、だいたい手が動いてた。グラスがちょっとでも曇っているなんて、あり得ないことだ。ピカピカのガラスに照明がきらり。至福。にんまり。ちょっと変態だったのかしら。いやいや。
無心になってグラスを磨き続ける西馬。この後、ドアベルを鳴らすものは何もないのだった。