こんにゃく焼酎オンザロック
黒猫の耳がぴくりと動いた、と思ったら……。
カランコロン。
静けさを破るように、ドアに取り付けられたベルが鳴った。西馬が顔を上げる。その視界の端を、しゅっと黒い影が横切って行った。
「いらっしゃいませぇ~。お待ちしてましたよぉ~」
キャバ嬢も顔負けってぐらいの甘ったるい言い方。発したのは黒猫だった。文字通りの「猫なで声」というやつ。客の足にまとわりついて、嬉しそうに体をこすりつけている。そのシッポがぴんと立っている。ご機嫌さんだ。
客は閻魔大王だった。黒猫の頭を撫でてやると、スタスタと歩いてきてカウンターの真ん中に座った。顎のあたりを痛々しそうに撫でている。
「閻魔大王さま、まさか……」
カウンターのあちら側の、下のほうから声がする。黒猫は今、閻魔大王の足元にいるらしい。
閻魔大王は顎を撫でながら、眉間にしわを寄せて頷いた。もともと顔面の作りが怖いので、そういう表情をされると怯む。
「お可哀想に……。閻魔大王さま……。悪いのは頭の悪い人間どもなのに……」
西馬からは黒猫の様子は見えない。ただ、たいそう悲しそうな声だった。ラジオドラマみたいだ。
「おい」
急に黒猫の声のトーンが変わった。いつもの声に戻った。
「ボケッと突っ立ってないで早くお出ししろ」
ギク。
どうしてボケッと突っ立っていたのがバレたのだろう。見えてないはずなのに。いや、見えているのか?なんたって閻魔大王の使い魔だし。
閻魔大王も西馬を振り向いた。
ビクッ!
閻魔大王はもともとの顔面の作りが怖いので、ちょっと眉間のシワが追加されただけでも、殺されることを覚悟したくなるような顔になるのだ。「鬼の形相」のさらに上をいく感じのやつだ。
西馬はごろんとした寸胴のグラスを取り出した。プルプル、プルプル。尋常じゃなく手が震えている、チワワみたいだ。と思ったら滑って落ちた。ガシャン、とガラスが割れる音がする。
「どんくさいやつ。掃除なんか後でやれ。まったく」
カウンターの向こうから冷たい声。剣山みたいに尖がりまくっている。ほんとうにひどい。何この態度の違い。
ガラスの破片を拾いかけていた西馬は、さっきよりは少し落ち着いて新しいロックグラスを取り出した。正式名称オールド・ファッションド・グラス。
この飾り気のない古風なグラスに大き目の氷をからり。閻魔大王のお気に入りの「こんにゃく焼酎」をとくとくとく。
(地獄の氷……)
そう思うと、この小さな氷が大きな氷山のように見え、凍てつく世界でガタガタ凍える罪人たちが見えるような気がする。くわばらくわばら。
閻魔大王はほんのちょっと、グラスに口を付けると顔をしかめた。怖。普通のオンザロックなのに。お気に入りの、こんにゃく焼酎なのに。なになに。西馬の背筋が凍る。
「おい。何か変な物入れてないだろうな」
黒猫の声に殺意が宿る。怖。
(変なものなんてここにないんですけど)
「いや……」
閻魔大王が言いかけて、痛そうに顔をゆがめた。
「ああもう!お話にならないでください!閻魔大王さまのお気持ちなら痛いほど分かりますぅ~」
黒猫の声のトーンがくるくる変わる。
閻魔大王はため息をついた。グラスを手に取って口にふくみ、顔をしかめては休み、一言もしゃべらずに、グラスが空になるまで続けた。
西馬がおかわりを作ろうと、焼酎のボトルを持つと、閻魔大王はそれを手で制して立ち上がった。
「もうお帰りですか?」
寂しそうな黒猫の頭を撫で、閻魔大王は出て行った。
カランコロン。
ドアの向こうの暗がりに、閻魔大王の姿がとけこんでしまっても、黒猫はシッポを垂れたまま、しばらく見送っていた。
さすがの西馬も少しへこんだ。何かいけなかったのだろうか。
「おい」
黒猫の声のトーンがまた激変。すっごく低い。やな予感しかしない。
すと。
小さく音を立てて、黒猫がカウンターに飛び乗った。
「さっさと掃除しとけ。クソ人間」
それだけ言うと、カウンターを横切り、いつものふかふかのクッションの上に座った。いらいらと小刻みにシッポを震わしている。さわらぬ神にたたりなし。
西馬は床にちらばったグラスの破片を拾いはじめた。チクリ。痛い。またチクリ。どうして?ガラスの破片が、自ら率先して指に刺さりに来ているような気がしてならない。チクリ、チクリ。泣けてくる。
「ここが地獄の続きだからだ」
黒猫の言葉がまた蘇ってきた。