開店準備お掃除編その1
西馬に与えられた名前もない小さな店(?)は、4人も入ったら満員になってしまうようなバーカウンターしかない。でも、どことなく懐かしいような感じがあった。この手狭な感じも、何故だかよく分からないが落ち着く。
カウンターの片隅にふかふかのクッションが置いてあり、今は黒猫が気持ちよさそうに丸くなっている。猫ってやつはだいたい眠っているのだ。
だからといって掃除の手を抜くと、お得意の忍び足で近寄ってきてバリッと引っ掻く。猫の忍び足はほんとうに忍んでくるので怖い。
(見てないようで見てるんだよな……)
西馬は白いシャツの腕まくりをして床を磨いている。客なんか待ってたって来ないのに、
「なんでこんな汚れるかな……」
「ここが地獄の続きだからだ」
声のしたほうを見ると、黒猫がさっきと違う格好で寝ていた。ただ、その耳がぴくぴくと動いている。西馬の独り言を聞いていたらしい。
こういうのを「地獄耳」って言うのだ。
妙に納得しながら、西馬は掃除を続ける。
いつの間にやってきたのか、一匹の蜘蛛が巣をかけようとしている。背中に星のような模様のある、見たことのないような蜘蛛だった。
しかし不思議なことに、西馬がそちらを見ると、あきらかに目が合った。蜘蛛に表情があるとは思えないが、なんだか困っているように見える。
(こっちだって困る)
蜘蛛の巣なんかをほったらかしにしていたら絶対に黒猫が怒る。あいつに引っ掻かれるの、やだし。痛いし。だって普通の猫の爪よりとんがってるし凶暴なんだもん。
「こんなところに巣をかけたって何にもかかりませんよ」
西馬が言うと、蜘蛛はいよいよ泣きそうな顔になった。蜘蛛にそんな顔をされても、どういう気持ちにもっていって良いか分からないし。
とにかく、らちがあかないので実力行使に出よう。追っ払っちまえ。そう思って西馬が箒を握ると、蜘蛛はやおら尻から糸を出し、するすると糸の先にぶら下がって床にたどり着き、さかさかと逃げていった。その途中で振り返って西馬を見上げた。小さくため息をついたように見えた。そのままドアのほうへ這って行った。