やってきた男
大きな鏡に映るのは、ひとりの男の生涯だった。男の名前は神崎龍之介。彼が命を落としたのは40歳の誕生日の翌日だった。翌日といっても、日が変わったばかりの深夜のことだった。
死因は後頭部強打。すっ転んで後頭部を花壇にぶつけたのだった。
なんですっ転んだのかというと、酒に酔っていた。もともと神崎は酒を飲めない性質だった。一滴でも飲んだら顔が真っ赤になってヘベレケになるのだ。記憶をなくす。
なのに、どうして飲んだのかというと、チョコレートを食べたせいだった。キレイな女性客がプレゼントしてくれたチョコレート。その客は天然ボケだった。だから気がついていなかった。
それがチョコレートボンボンだということに。
アルコールが一滴も飲めない神崎は、チョコレートボンボン1個ですっかり酔っ払ってしまった。
よろめきながら女の肩を借りてバーの外に出たのだが、その直後にすっ転んだ。
しかも、その日、街を明るくしよう的な活動がなされて花壇が整備されたのだ。運の良し悪しというのは誠に不思議。おかげで神崎は後頭部を強打して、あの世からお迎えが来ることになった。
遠ざかる意識の中、女の甲高い叫び声が聞こえたような、聞こえなかったような……。
神崎は女運が良いとは言えなかった。幸か不幸か甘いマスクで、彼の興味を持つ女は後を絶たなかった。彼と一夜を楽しみたい系の女もそれなりにいた。
そのため、気がつくとベッドに寝ていて、横に知らない裸の女がいるなんてことが何度もあった。
というような彼の人生が、大きな鏡に映しだされた。
「どうしようもない人生だったな……」
閻魔大王が言った。
「返す言葉もありません」
神崎がしおしおと答える。
次に鏡に映しだされたのは、彼がグランドピアノを弾いている場面だった。その音は軽快で、時に天邪鬼。風のように鍵盤の上を駆け抜けたと思ったら、何かを訴えるかのように激しく叩きつける。
彼はジャズピアニストだった。バーの片隅に置かれたピアノを夜な夜な弾いていた。一滴も酒を飲めないのにバーでピアノ弾き。そういう人生なのだった。
店のオーナーは彼が飲めないことを、もちろん知っていたから、アルコールを含まないカクテルを彼のために作ってやっていた。
神崎の十八番は「テネシーワルツ」だった。古い友達に恋人を奪われる女性が主人公の切ない曲だ。
「テネシーワルツ」はそのままカクテルにもなっている。もちろんアルコールが入っているので、オーナーは神崎のために、「テネシーワルツ風ノンアルコールカクテル」を作って出してやるのが常だった。
アルコールを飲まない人によくあるように、神崎は甘いものが好きだった。そのため、「テネシーワルツ風ノンアルコールカクテル」も女性ウケしそうな甘いものだった。
「Sweet heart」というそのネーミングは、「テネシーワルツ」の詞から取ったものだ。
「My friend stole my sweetheart from me」友が私から恋人を奪った……というフレーズからだ。意味深である。
もともと「テネシーワルツ」というカクテルにはカカオリキュールを使う。
「Sweet heart」は、それにならってココアやチョコレートシロップを使う。さらに「テネシーワルツ」にも使用される、甘味を足すためのグレナデンシロップ。そこにほろ苦さを出すためのエスプレッソ。そしてソーダで割る。しっかりと泡立てた生クリームを浮かべる。
だから、このノンアルコールカクテルは甘く、ほろ苦い。神崎は気に入っていた。
そんな彼の姿が次々に浄玻璃の鏡に映しだされた。彼がバーでピアノを弾くシーンが大写しになると、閻魔大王は強く心を動かされた。これまでも「あの世」にやって来たピアニストなんか数えきれないほどいる。でも何故か今回、すごく興味を惹かれたのだった。
それは、地獄あたりに西馬のバーができたということも大いに関係していた。
閻魔大王は決めた。
この神崎という、しょうもない死に様の男。この男が行くのは地獄でも天国でも、修羅道でも、畜生道でも餓鬼道でもない。何のためかというと、閻魔大王自身の娯楽のため。
「お前はここでピアノを弾け」
閻魔大王が厳かに言った。鏡に映るのは、西馬のバーだ。
「え?」
神崎は目を真ん丸にしたが、やがて、その表情に生気が戻ってきた。死んでいるのに。
「でも、どこにピアノが」
「ここはお前が生きていた世界とは違う」
神崎をまっすぐに見据えて、閻魔大王が言った。
「つまり、そういうことだ」
やって来たのは下戸の男
みき☆たにしの好きなように進むお話。




