消える
地獄あたりの朝は暗い。漆黒の空が、ほの明るい灰色の曇天になるぐらいのものだった。西馬は目覚めた。いつもの寝床で、彼はひとりだった。
トウ子の姿はない。
西馬はむくむくと起き出すと、いつもの作業にとりかかった。伸びてしまったヒゲを剃らなくてはいけない。井戸で水をくまなくてはいけない。
(地獄かぁ……)
しみじみと思った。自分が思っていたのと違うことばかりが起こる。
カランコロン。
バーのドアベルが鳴った。振り返ると、中からトウ子がふらつきながら出てくるのだった。彼女は今夜もバーカウンターに突っ伏して眠ってしまった。だから、西馬はあえて起こさず、ほったらかしにして自分の寝床に戻ったのだった。
でも、黒猫に意味深なことを言われたせいで、ものすごく意識してしまう。トウ子は獄卒。しかし見た目は普通の、いや、普通以上に美しい女だった。透けるように白い胸元が見えた。
やばい。煩悩が。煩悩が起きれば地獄の責め苦が待っている。くわばらくわばら。
西馬は頭を振って水汲みにいそしんだ。
ガサガサ。……と、草むらが動いた。出てきたのは額に目のついた獄卒だった。
「あぁ、三目さん」
西馬が知り合いにでも声をかけるようなテンションで言った。
「こんなところでサボっていて大丈夫なんですか?」
しかし三目は答えない。彼が見つめているのは、ふらつきながら歩いているトウ子のことだった。その横顔を西馬は見ていた。一瞬だけ迷った。でも、口を開いた。
「三目さん」
三目は答えない。じっとトウ子を見ている。
「三目さん!」
西馬が怒鳴る。
「わっ!なんだよ!びっくりしたなぁ!」
三目がびっくりして振り返った。どうやら、今の今まで、ここに西馬がいたことに気がついていなかったらしい。恋は盲目を地で行っている。
「耳がキーンてなったぞ」
「あの、トウ子さんのことで伝えないといけないことがあるんですけど」
「……え!?」
三目のテンションが急に変わった。
「なんだよ!なんだよ!」
と、さっきとは打って変わって、食い気味に聞いてきた。すっごい至近距離。
「彼女……トウ子さんはもう間もなくいなくなってしまうらしいですよ」
「……は!?なんでだよ!」
三目がまさに鬼の形相になった。そして、西馬にぐいぐいと詰め寄ってくる。
「いや、ちょ……ちょっと待ってください」
「待てるわけないだろ?なんでいなくなるんだよ!言えよ!」
「ぐえ」
西馬は三目に襟を思い切りつかまれて声が出なくなった。
「なんだよ言えよ!」
苛立った三目が、鬼力で西馬のことを振り回してきた。西馬の体が宙を舞う。ぶんぶん。
(し……死ぬ……)
そう西馬が思ったとき、
「何してんのよ!」
と、女の声がした。トウ子だった。
ぴたりと三目の動きが止った。西馬の襟をつかんだまま、黙っている。その顔がどんどん赤くなっていく。
一方のトウ子はというと、三目の腕から西馬を引きはがすと、自分の大切なものを守るみたいに抱きしめた。そのまま三目を威嚇している。
西馬はというと、完全に思考停止していた。こんなふうに女性から抱きしめられるのは、子供の頃以来だろうか。
その腕の中の温度が思ったよりも温かかった。それに、彼女の体の曲線が思ったよりもリアルだった。頭がぼうっとなる。
(ダメだ……このままだとまた痛い目に合う……)
でも抗うことができない。
あたりは静かだった。ただ、西馬の耳に、小さなうめき声が聞こえた。耳を澄ます。それは、どうやらトウ子がもらしている声のようだった。
西馬はそっとトウ子の腕の中から抜け出した。ギュッと抱きしめられていると思ったが、すんなりと抜け出ることができた。
トウ子が苦しげな顔をしている。何かと戦っているような。その表情もどこか艶めかしかった。
と、その時だ。彼女の背後から、一瞬、鋭い刃をつけた枝が伸びるのが見えた。
(やばい!)
身構える西馬。しかし、これまでとは違い、危険な枝はすぐに引っ込んでしまった。トウ子の表情が、さらに険しくなった。
西馬は悟った。
彼女が戦っているのは、刀葉の木の枝だった。これまでに西馬を傷つけて、脅威にさらしてきたあの枝だ。トウ子は今、その枝が出てこないように必死で制御していたのだった。
西馬には、どうしたら良いか分からなかった。
やがて、不思議なことが起こり出した。
トウ子の体が透けて行き、その向こうの林が見え始めたのだ。
「お前、何やったんだよ!」
三目が怒って食いついてきた。
「いや、何もしてませんよ」
西馬がたじろぐ。
そうこうしているうちに、トウ子の体がどんどん透明になっていき、やがて消えてしまった。ただ奇妙な静けさだけが、そこに残った。
嵐の予感はあっけなく去り……




