開店準備ヒゲそり編
(死んでもヒゲは伸びるものなのか……)
あばら屋のかたすみ、壁にかけた鏡を覗き込みながらヒゲを剃る。西馬はふと手を止め、剃刀をまじまじと見つめた。
この剃刀は、黒猫がくわえて運んできたものだ。
そのとき、西馬は藁のベッドですやすやと眠っていた。胸の上に重みを感じたので、眠気と戦いながら薄目を開け……るつもりが、ばっちり目が開いた。
西馬の鼻先にギラリと光る殺意めいたもの。
(こ、殺される!?)
硬直する西馬。自分がすでに死んでいることを、このときもすっかり忘れていた。
したっ。
西馬の頬に冷たい肉球。したした。黒猫がわざわざ西馬の顔の上を歩いていく。黒猫が口にくわえている剃刀が見え、いつその小さな口からぽろりするんだと西馬は気が気ではない。
そんなのおかまいなしに、黒猫は西馬の頬を踏みつけ、眉毛を乗り越えて額にたどり着くと、そこで勢いよく飛び降りた。
一瞬、西馬の額に猫の全体重がかかり、その衝撃に「んぎゃ」と変な声が出た。
とっ。
黒猫が着地したらしい音を聞いて、西馬はほっと一安心――して、いられなかった。
剃刀をくわえたまま黒猫が振り返ったのだ。西馬の前髪が数本、さっと切れた。鳥肌。
そんなことお構いなしに、黒猫は剃刀を西馬の頭の側に置き、
「これで毎日ヒゲを剃れと、閻魔大王様からのお達しだ。ちょっとでもサボってみろ」
と言ってにやりと笑った。怖。何がなくてもヒゲ剃るし。西馬はそう思った。
それから、西馬は必ずヒゲを剃っている。剃刀をまじまじと見つめる。それにしてもよく剃れる剃刀だ。何でできているんだろう。黒猫に聞いてみたいが、聞くのが怖い気もする。
かつて信頼していたオーナーのもとでバーテンダーとして働いていたとき、毎日きちんとヒゲを剃ったし、髪もばっちり整えていた。身だしなみを整えるもの仕事のうちだと思って、そのルーティーンを欠かしたことは一回もなかった。
ヒゲを剃る手がふと止まる。
そんな昔のこと思い出したってしょうがない。もうあのときの自分に戻ることはできないのだ。
なんたって死んじゃったし。
次に生まれ変わるとしても人間になるか分からないし。
「お前みたいなやつが次に行くのは餓鬼道か畜生道だ」
黒猫が不敵に言い放つのを思い出す。
西馬はまたヒゲを剃り始める。それにしてもよく剃れる。世の中には知らない方がいいことがたくさんあるって、大人になるとどうして理解できてしまうんだろう。どうでもいいんだけどね。