雨とともに蘇る過去
長い長い夜が明けて、客たちは帰って行った。変な酔っ払い方をするものはいなかった。獄卒トリオは何をいくら飲んでも全く平気だったし、トウ子さんに関しては、西馬が調節したので難を逃れた。
すごく緊張した。トウ子さんの恋心を刺激すると、自分に火の粉が降り注ぐのだ。
ふと見ると、クッションの上で、黒猫が顔を洗っていた。いつもより、念入りにくるくると洗っている。とても平和的で懐かしい光景だった。
現世にいた頃、猫が顔を洗うと雨が降るなんていうことを聞いたものだ。それは地獄あたりでも通用するのだろうか。そもそも地獄に雨なんか……。
そんなふうに思っていたら、西馬の耳に懐かしい音が飛び込んできた。
思わずバーのドアを開けた。
降っていた。雨だった。
見上げると、いつもより僅かに厚みの増した雲が、頭上を埋め尽くしていた。うすぼんやりとした仄かな明るみが漂う空から、無数の白い糸のような雨が降り注いでいるのだった。
それは、とても不思議な光景だった。
懐かしい雨音だった。しかし辛い雨音でもあった。西馬の胸の奥に、もやもやと黒い煙のような記憶がよみがえってくる。
西馬はそれを自分の頭から追い払おうとした。でも、いったん蘇り始めた記憶は、なかなか出て行ってくれないのだった。
ふいに、風鈴の音が聞こえた。チリンチリン……と、どこからともなく。雨脚が強まってきても、ふいに微かな音を立てるのだ。
その儚げで美しい音が、しかし西馬の胸を大きくえぐった。西馬はすっかり思い出していた。生きていた、あの日のことを。西馬はめくるめく記憶に目まいを感じて、目を閉じた。どうしてだろう。周囲の温度がどんどん上がっていくような気がした。
チリンチリン……。チリン……。
目を開ける。そこは見覚えのあるアパートの一室だった。ひとり暮らしのためのワンルームだった。
体にまとわりつくような熱気を感じる。モーター音を鳴らしながら、扇風機が首を振っているが、生ぬるい空気をかき回す程度の威力しかなかった。
部屋の中が妙に暗い。時計を見ると、まだ6時をすぎたばかりだった。
窓の外からは、しきりに風鈴の音が聞こえる。窓の外にぶら下げていた洗濯物がゆらいでいる。空には真っ黒な雲が低く垂れこめているのが分かった。夕立が来るかもしれない。
洗濯物を取り込んだ方が良いのかもしれないが、起き上がって手を伸ばすのが億劫だった。
扇風機の風が体を舐めていく。汗ではりついたシャツを、西馬は脱ぎ捨てた。決して筋肉質ではないが余分な脂肪もついていない引き締まった体をしていた。水商売をやっていた頃は、客の女からそういう目で見られることが多々あった。
決して悪い気はしなかったし、西馬自身がこの頃よりもずっと若かった。
冷蔵庫の中には第三のビールとも言われる発泡酒が冷やしてある。喉が渇いていたので、缶を開けると一息に飲んでしまった。そしてため息。もう1缶開けようかと思って冷蔵庫のドアに手をかけた時、スマートホンが振動した。
いやな番号からだった。
西馬はスマートホンを耳に当てるやいなや、
「バカ野郎!」
と、罵声が飛んできた。
「何回電話したと思ってんだ!」
「あ……すみません……」
「とにかく、もうすぐ着くから。出られるように用意しとけ」
「分かりました……」
投げやりに通話が途切れた。
西馬はスマートホンを床に投げ出すと、数少ない洋服の中から、わりと新しい黒いシャツを取り出して袖を通した。綿のシャツはまだ少しごわつきがあり、汗ばんだ肌にあたって不快だった。
鏡を見ると、無精ひげが伸びていた。ヒゲを剃るべきだろうか。それよりも、なんという暗い表情なのだろう。頬はこけているし、目の下にクマができていた。髪を切ったのはいつだったか。とにかく、ひどい状態だった。
風鈴の音に振り返る。窓の外で、また洗濯物が揺れる。西馬は小さく舌打ちをすると、洗濯物を無造作に引っ張って部屋のすみに放り投げた。
窓を閉める。薄暗い部屋の中にひとり。世界から隔離されたような錯覚を覚えた。このまま消えてしまっても、きっと誰にも迷惑がかからないのだろう。
スマートホンが振動した。西馬が電話に出ると、一言「出てこい」とだけ言われて切られた。耳から入ったその声は、鉛のように重たくなり、西馬の体の底にずっしりと沈んだ。
手のひらで顔をこすると、西馬は黒いスニーカーに足をつっこみ、部屋の外に出た。アパートの前には、黒い乗用車が停まっていた。窓にはスモークが焚かれている。後部座席の窓が静かに開くと、
「乗れ」
という声がした。
西馬がシートに滑り込み、ドアを閉めるのと同時に、車は走り出した。
西馬が地獄に落ちてきた経緯が、明らかになって行きます……。




