君の名は
ゆるゆると静かな時が流れて行く。気がついた時には、太っちょのトラパンがカウンターにつっぷして居眠りを始めていた。その鼻から、鼻ちょうちんがふくらんで、はじけそうになって、縮んで、またふくらんで、縮んでというのを、さっきから繰り返していた。
したしたと黒猫がカウンターの上を歩いてきた。かと思ったら、居眠りをしているトラパンの耳にかみついた。
「ぎゃっ!」
トラパンが止まり木から落っこちる。黒猫は軽く身をかわしたあと、にやっと笑ってお気に入りのクッションの上に戻って行った。
(別に、わざわざ起こす必要もないのに……)
西馬はグラスを磨きながら心の中だけで呟いた。
尻をさすりながらトラパンが立ちあがる。その横で、一本角とデコ目が楽しそうに笑っている。女は黙ってうつむいていた。
この時、西馬はあるひとつの問題について考えていた。それ解決するためには、まず問うてみよう。意を決した彼が口を開いた。
「ところで、みなさん。お名前はなんて仰るんですか?」
しーん。
回答はなぜか静けさだった。しかし、そんな沈黙は一瞬で消え去った。獄卒たちが口ぐちに言いたい放題に言い始めるからだ。
「お名前って……なんだ?」
「いや、聞いたこともない」
「それって、美味しいものなのかなぁ」
最後の言葉は太っちょのトラパンだった。
「こいつらに名前なんか、あるはずないだろう」
あっさりと言ってのけたのは黒猫だった。
「お前ら、そのへんに生えている雑草に名前をいちいちつけるのか?」
西馬には、返す言葉がなかった。地獄で働いている数多の獄卒たちは、そのへんに生えている雑草と同じという黒猫の言葉が刺さった。とたんに、目の前にいる連中が可哀想に思えてくる。
「名前って何だ?おい、俺たちに教えてくれよ」
好奇心旺盛な少年のような目で、地獄の獄卒が聞いてくる。黒猫が「雑草」と言ってのけた彼ら。きっと「雑草」の意味すらも分かっていないに違いなかった。
「名前というのは、ひとりひとりに与えられる記号みたいなもので……つまり、その、世の中にはたくさんの人がいるので、名前をつけないと何かと不便なんです。例えば、お三方」
西馬がデコ目、一本角、トラパンを手で示す。
「お三方が並んで歩いている時、そのうちの1人を、後ろから呼ばなくてはいけなくなったとします」
「ふむふむ」
「もしも、名前があれば、呼びたい人だけを呼ぶことができるじゃないですか」
「へぇ~、そういうこと」
「……というか、みなさんは名前がなくて、どうやってお互いを呼び合っているんですか?」
すると、再びの沈黙。獄卒はそろいもそろって、きょっとーんとしている。そんなこと、考えたこともなかった、という風情だ。
「お前が付けてやればいいだろ?」
クッションの上で丸くなっていた黒猫が口をはさんできた。
「名前がないと呼びにくいと思っているのはお前なんだから、適当につけてやれば良いのだ」
「え?良いんですか?」
西馬が目の前の獄卒たちにたずねる。
「いいぜ」
一本角がすぐに答えた。
「よく分からないけど、名前ってのがあるほうが便利なんだろ?なんか、良いのつけてくれよ!」
デコ目もトラパンも頷いている。
その隣に座っている女も、頬を赤く染めながら、小さく頷いた。
「分かりました」
そうは言ったものの、これまでの人生で名前なんか考えたこともなかった。もしも、結婚したり子供をもうけたりしたなら、命名するという経験をすることもあっただろう。あるいは、ペットを飼うというシチュエーションがあったなら。
つまり、彼の人生において、「名前をつける」という経験値はゼロだった。
なのに、唐突に、目の前にいる獄卒たちに名前をつけろと言われても困る。アイデアなんか全く沸いてこない。
太郎、二郎、三郎、花子……。
くわたけいすけ、はらゆうこ、……ほかのメンバーの名前が思い出せない。
西馬は悩む。グラスを磨く手が止まってしまうほどに悩んだ。名前をつけることを「命名」という。つまり、命を宿す的な重大なミッションなのだ。
そんな、とんでもなく重要なことをやれと言われても。
「名前は単なる記号なのだろう?」
黒猫があくび混じりに言った。
「お前、さっき自分でそう言ったの忘れたのか?記号なら、なんだって適当につければよかろう。バカなのか、お前は」
西馬が黒猫を見ると、黒猫は半目になってシラッとした顔をしていた。
(ひとこと多いな……)
西馬がため息をついたが、黒猫は気にもとめない。
たしかに名前のことを記号といった。でも、まさに記号をつけるというのも、あまりに味気ないと思った。どうしよう。
マンガのキャラクターにウォッカとかジンとかテキーラとか付けてる漫画家がいたっけ。でも、あれって、そこそこ子供向けのマンガじゃなかったのだろうか。
悩む西馬をよそに、獄卒たちは勝手にお喋りをしている。
「決めました!」
西馬が宣言する。獄卒たちのお喋りがぴたりと止まった。
「あなたは目が三つついてるから三目さん」と、デコ目に言った。
「あなたは角がはえてるから角田さん」と、1本角に言った。
「あなたは太っているからブーさん」と、トラパンに言った。
「あなたは……」衆合地獄の女と目が合いそうになって、緊張が走る。「……トウ子さんです」
トウ子の「とう」は「刀剣」の「とう」だった。彼女と関わり合うと、全身を刀剣で刻まれるような責め苦にあうというのを、死んでも忘れないために。
いや、死んだから、ここにいるんですけどもね……。
登場人物に、やっと名前がつきました。ゆっくりのんびりと進みます。なんせ地獄は時間の経つのが遅いのですから。




