古井戸のほとりで
頬のかさぶたを撫でながら、こっちの世界であてがわれた小さなあばら屋を出る。
外は、ぼんやりと明るい。決して、空が晴れているというのではない。
こっちの世界に来てから、西馬は「快晴」というのを見たことがなかった。常に、薄い雲が垂れ込めているような、ほの暗い光に満ちている。
あばら屋のまわりには、名前も分からないような木が何本も、大きく枝を張っている。ここは日が当たらないから影もはっきりとできない。
それが、なんとも言えない不思議な光景を作り出していた。
1本の木の根元には古びた井戸があった。時代劇に出てくるような古いタイプの井戸で、縄の先についている桶を落として水を汲まなくてはいけない。ここで水を汲むのが、西馬の仕事のひとつだった。
あたりを見回すが、ここには黒猫は来ていないらしい。
しんと静まり返って、木の葉がこすれる音すらしなかった。
井戸のへりに置かれた桶を、するすると落とし込む。やがてポチャンと着水を知らせる音が聞こえる。深いんだか、それとも意外に浅いんだか。
西馬が井戸の中を覗き込んだ時――。
ドンッ!
と背中に重いものが落っこちてきて、西馬は大きくよろめいた。両手がわたわたと虚空をつかむ。真っ暗な井戸の底がぐっと視界に迫ってくる。かと思えば、上半身がのけぞって、ほの明るい空や、しげしげと生い茂った木の枝が見えた。
そんなこんなで、マンガの「おっとっと落ちる落ちるっ!いや、落ちない……。と、安心させておきながら、やっぱり落ちる落ちる!と思わせつつ、いや結局もちこたえた!」みたいな動きをしたあと、井戸のへりに手をついて、西馬はへたりこんだ。
「し……死ぬかと思った……」
「だからー、お前はもうとっくに死んでいる。バカなのか?」
ふさ……と、西馬の耳に柔らかい毛の密集が当たった。ふかふかする。パタパタとシッポが当たる。黒猫だ。キツイことさえ言わなければ可愛いのに残念。
よっこらしょ、と西馬は立ち上がる。やれやれ付き合いきれない。
「おっとっと」
黒猫が肩から落ちまいとして爪を立てた。ぎゅっと食い込んで、なかなかに痛い。
「急に立ち上がるな!落っこちたらどうするのだ!」
黒猫がぷんすか怒っている。
(あれ?猫。猫さんですよね。猫さんって最悪2階ぐらいの高さから飛び降りてもくるりんぱで着地できますよね。ですよね。あれ?あれれ?おかしいなー)
西馬は心の中だけで言い返す。