血みどろ女にブラッディ・マリー
磨いていたタンブラーを光にかざす。きらり。一遍の曇りもない。西馬は頷き、丁寧にバックバーにしまった。
今夜は久しぶりに作るカクテルに、背筋がピンと伸びるような気持になった。手の感覚が取り戻せるだろうか。
それでも、重みのある酒瓶を手に取り、キャップをひねり開けた時に、なんとも言えない感慨深いものがあった。体の中から、じわーっと込み上げてくるような感覚だった。
ふかふかのクッションの上で眠っていた黒猫が、キューッと伸びをして欠伸をした。
(夜が明けたか……)
バックバーにグラスを仕舞い、西馬は首を回した。
(……)
カウンターには髪の長い女が突っ伏している。すやすやとお眠りになっている。さっきはイビキをかいていた。どうしようもない、酒癖の悪さだ。
そこへ、したしたと黒猫が近づいてきた。女の顔に鼻先を近づけて、しかめっ面になると、すぐに引っ込めた。
「ひどい匂いだ。お前、何を飲ませた」
「いや、ご覧になっていたでしょう?最後はトマトジュースしか差し上げていませんよ。そもそも、何を飲ませても絶対に酔わないからって言ったのはそっちじゃないですか」
西馬が言い返す。黒猫は目をぱちくりさせた後、しらっとした視線になって言った。
「ほほう……そんな口のきき方をして良いと思っているのか……」
「あ」
西馬が慌てて口を押える。無意味。覆水盆に返らず!
こんなやり取りが繰り広げられているとも知らず、目の前でイビキをかきながら眠っている女。
この女、元は衆合地獄の「刀葉の木」の上から男を誘惑する役割を担っていた。
誘惑された男は本能に突き動かされて木に登り、刃となった木の葉に体中を切りつけられる。男が木のてっぺんに着く頃には、女は木の根元に移動していて、そこから男を呼ぶのだ。
エンドレスで男は木を登ったり降りたりし、そのたびに体中をズタズタにされる。
西馬も大怪我をさせられ、体中のあちこちから流血した。今、頬についている引っ掻き傷は黒猫の仕業なのだが、これに関しては怖いから黙っている。
こんなことがあったから、黒猫から「客に飲み物を出せ。何を飲ませても酔わないから大丈夫だ」と言われて、思いついたのが、ブラッディ・マリーだった。血みどろマリー。ブラッディ・メアリーとも言ったりした。
すると、女はいたく気に入ったらしく、あれよあれよという間に飲み干してしまった。そして、
「おかわり」
西馬は同じものを作って出した。それも、すぐに飲み干してしまった。
「おかわり」
こんなことが繰り返され、ウォッカのボトルがどんどん軽くなっていった。それだけではない。
女の顔色が変わってきた。それに、目がすわってきた。西馬の視界の端を、黒猫が横切って行く。さっきまで女の太ももの上に寝そべっていたのだが、何か感じたらしい。いつものふかふかのクッションの上で香箱座りになった。
心配になった西馬が、新しいグラスを用意しながら提案する。
「お水でも……」
「はぁ!?」
(うわ。たち悪っ!酒乱!?違うよ?あなたがさっき言ったのと矛盾してるよ?)
西馬が黒猫を見る。黒猫は香箱座りのまま、あさっての方向を見つめていた。
「早く……!出せっ!」
女が声を上げた。黒猫が耳を伏せる。猫は基本的に大きな音を立てられるのが好きじゃないから。
(そもそも!あなたが大丈夫だって言うから……)
西馬の心の声を察したのか、黒猫がしらっと目を細めて吐き捨てた。
「大丈夫かどうかぐらい自分で見極めろ。お前、仕事だろ?」
「え!?」絶句する西馬。
「お前、仕事だろぉ!?」女がカウンター越しに怒鳴る。
(何このシチュエーション……?)
西馬が女を見る。ばっちりと目が合った。すると、驚いたことに、店の中の空間がぐにゃりとねじ曲がり、再び、あの幻覚がやって来た。
おどろおどろしく枝を伸ばした大木。生い茂った葉は、すでに刀になっている。それどころか、大きな枝が大蛇のように身をくねらせて襲い掛かってきた。鋭く光る刃がいっせいに西馬に突き刺さろうとしてくる。制御不能。女が酔っ払っているせいだ。
やばい奴にアルコールを提供してしまったものだ。でも、後には戻れないし……。
「分かりました!出します出しますから!」叫ぶ西馬。命の危機。
死んだから、こっちの世界にいるのだが、そんなことは頭から吹っ飛んでいた。
「分かればいいんだよ……」
女は乱れた長い髪をかき上げながら言った。西馬の鼻先に迫っていた、鋭い刃の群れも消えた。西馬の額に、じんわりとイヤな汗が滲む。
いつ、何が起きるか分からない。やっぱり女は怖い。どうしても、酒をかき混ぜる手が震え、グラスに当たってカチカチと音を立ててしまう。
(落ち着け、落ち着くんだ自分)
呼吸を整えてから、マドラーをすっと引き抜いた。
「どうぞ」カウンターにタンブラーを置く、その手はなんとか震えずに済んだ。
女はタンブラーに口をつけると、音を立ててカウンターの上に置いた。それから、「マジでクソだな……」と、ボソッと言った。
「あいつら、マジでクソだ……。生きるうちはあのことばっか、死んでからもあのことばっか。朝も!昼も!夜も!いつでもオールウェイズ準備オッケーですよ的に、あのことばっかだ……。って言うか、あのことしか考えてないんだ。あいつらの脳みそは頭じゃなくて股間にあるんだ!……クソ!くっだらねぇ!……」タンブラーの中身をぐっと飲み、「お前もな……」と、西馬のことを顎でさした。
完全に、目がシットダウンしている。もとい、すわっている。
西馬は反論できない。確かに、腹の底がうずいて、何かが燃えたぎっているような感覚があり、突き動かされるように刀葉の木を登っていた。原因は、女の色気にやられたからだった。
「でも……だから。クソが死んでもクソのままだから、あたしたちが……いるんだ、ここに……。あぁ、マジでくっだらねぇ!やってられるか!」
女のタンブラーが空になると、西馬は試しにヴァージン・マリーを出してみた。それはつまり、ピュアなトマトジュースなのだったが、女は黙って飲み続けた。それを見て胸を撫で下ろす西馬。
女は苦々しげにつぶやいた。
「あいつらみたいなクソがいなきゃ……あたしは……」
女の手が、つかみ損ねたタンブラーが倒れて転がった。中の赤い液体が、本物の血のように流れ出る。西馬がそれを拾い上げる。乱れた長い髪の間から、それをぼんやりと見ていた女は、やがてカウンターに突っ伏した。しばらく、ごにょごにょとひとりで何か言っていたが、気がつくと寝息を立て始めた。
それからずっと、起きることなく現在に至っている。
西馬は黒猫を見た。これがもし自分だったら、黒猫は何のためらいもなくご自慢の鉤爪で引っ掻いてくることだろう。女が相手だと、それをやらないらしい。
「お客さん」と、声をかけてみる。女の寝息が相変わらずなので、何回か、繰り返してみた。やはり、反応がない。やれやれ。
仕方がなく、女の肩に手をかけ、軽くゆさぶる。無反応。徐々に力を込めていく。変化なし。どうしようもない。西馬は女の肩から手を離し、大きなため息をついた。すると、
ガバッ!
と、音を立てて女が起き上がった。よだれを垂れ流していたらしい。デローンと糸を引いている。とっさにお手拭をつかんで女に差し出す西馬。女はそれを見ていない。ただ、立ち上がると、ふらふらと歩いて店の外に出て行った。
カランコロン……。
ドアベルが鳴り、ぱたりとドアが閉まり、静かになった。ただ、女がいた場所にはよだれの洪水。西馬はそれを拭き上げながら、ただもう休みたいと思った。なんだか異様に、くたびれている。




