バーに来ためんどうな客・2
黒猫は前足のメンテナンスが終わると、体をバネのように縮め、パッとカウンターに飛び乗った。そのまま、したしたと歩いて女のところに行くと、
「お前、衆合地獄からどうやってここまで来た」と、聞いた。
「え!?何この猫……喋ってる……」
女が驚いている。しごく、まっとうなリアクションだった。
「どういうこと?」
「はい……」
西馬はごく自然に、客と接するみたいな気持ちで目を合わせた。すぐにハッとして目を逸らす。さっきはこの女と目を合わせたばかりに、幻覚のようなものを見せられて痛い目に遭ったのだ。
急に目の前に変な大木が出てきたと思ったら、女の怪しい色気に変な気分を起こさせられた。好きでもない木登りをさせられて体中に大怪我をした上、何故か黒猫にまで引っ掻かれた。その傷だけは今も頬に残っている。
手狭なカウンターでできる限り後退する。すぐにバックバーにぶつかる。咳払いをして気を紛らす。意味はないかもしれないけど、目を細めてみたり。
(あれ?)
さっきのような目まいもないし、体の奥底が疼く感じも全く起こらない。そもそも、女が発していた異様なまでに男を引きつける吸引力がないのだ。コンセント引っこ抜いちゃったみたいに。あるいはブレーカーが落ちちゃったみたいに。(たいした違いはない)
そういえば、さっきの女のリアクションも、普通の人っぽかった。黒猫が喋っていることに驚いているあたり。
「わしは閻魔大王様の使いの者だ」
黒猫が尊大に言い、女は反射的に立ち上がった。
(その気持ち分かるー、すごく分かるー)
心の中で大いに頷く西馬をよそに、女は狭い店内を入り口に向かって走り、ドアに飛びついた。ガチャガチャやっている。叩いたり、勢いをつけて押したりしている。
(そのドアは引かないと開かないんですが……)
カウンターから身を乗り出すようにして、西馬は見ていた。女がドアノブをガチャガチャやっている。普通ならくるりと気持ちよく回るはずのドアノブが、固まってしまったみたいに途中までしか回らない。
「バカめ」
黒猫がぽつりと言った。西馬が驚いてそちらを見ると、黒猫は慌てふためく女を見て、にやにやと悪い笑みを浮かべているのだった。
バァン!
ものすごい音がして、西馬は肩をすくめた。黒猫も反射的に耳を伏せた。女が肩で息をしている。どうにも開かないドアに体当たりをしたのだ。さらにカウンターの椅子を持ち上げた。
「ちょっとお客さん!」あ、久しぶりに言った、このワード。
しかし、女の勢いは止まらない。椅子を振りかぶって、思いっきりドアに向けてドーン!……しようとしたところで、
「愚か者!」
怒鳴ったのは黒猫だった。女はビクッと体を硬直させた。
「その扉はお前には開けられない。諦めろ」
(いやいや、もっと早く言えばよくないですか?そもそも、立ち上がった時点で、そのドアは開かないから無駄なあがきは止めなさいとか言わないですか、普通?ねえ)
なんてことを考えながら黒猫を見たら、目が合った。しらーっと目を細めて見返してくる。
(ごめんなさい!)
西馬はとっさに頭を下げた。黒猫はツンとそっぽを向くと、はっきりと通る声で言った。
「座れ」
戸惑いながらも、女は元の椅子に戻ってきた。やはり、さっきのような異様な引力を感じさせなくなっていた。西馬も、ようやく、落ち着いて女の前に立つ気になった。
「で、どうしてここに来た」
黒猫の問いに、女は体を硬くしたまま黙っている。黒猫は座ったまま、いらいらとシッポを大きく振り出した。やがて、すたっと立ち上がると、したしたと歩いて女の目の前に立った。女が椅子に座ったままのけぞる。ものすごい怖がりようだ。
「そんなに怖がらなくったっていいにゃ」
(――にゃ!?)
西馬は耳を疑った。黒猫がこんな可愛いことを言うなんて。しかも、その声が優しい。西馬は今まで、こんな声で黒猫が話すのを聞いたことがなかった。何か悪いものでも食べたのだろうか。
「何を言われても怒ったりしないから大丈夫にゃ。ほれ、言ってみれ、言ってみれにゃ」
黒猫がシッポをバタンバタンと振っている。顔は笑っているが、これは非常にご立腹されている合図だ。やばい。西馬はまた、変な汗をかき始めた。
「ほんとうに大丈夫ですから」西馬が援護射撃した。
「この猫、実はすごく人懐こくて可愛いんですよ。ほら」
手を伸ばして頭を撫でる。
(やばい、手が震える。可愛い猫を撫でてるはずの手が震える……!)
変な脇汗をかきながら、西馬は精一杯の笑顔を作った。わしゃわしゃと、黒猫は黙って頭を撫でられている。
ただ、長いシッポがパタンパタンと無言で西馬の腕に当たるのだ。それどころか、
(いい度胸してるな……)
という、怨念めいたものを感じる。
「すごい汗」女が西馬の顔を見て言う。
「いやぁ、暑いな……なんでだろう。あはは……」笑い声尻つぼみになる。
西馬の必死のトライが功を奏したのか、女の表情がほぐれてきた。警戒心が薄れてきたらしく、口を開いた。
黒猫が、西馬の手を頭で押しのける。西馬もすぐに我に返って、手を引っ込めた。怖かった。でも気持ち良かった。シルクでできてるみたいな手触りだった。
「空に点みたいな光が見えて……そこを目指して飛んだら、何か暗い狭い場所に出て……でも上のほうに光があったから、もう一度飛んだら、そこの林の横に出て……。ていうか、井戸の中を通って、こっちに出てきたみたい……」
(〇子!?この人もしかして貞〇?)
長髪の女が井戸から這いずり出てくるとか、それはもう「〇ング」の〇子しか考えられないじゃないか。
「で、この建物があったから……」
「ふうん……」
黒猫はシッポを振るのをやめ、女の顔を覗き込んだ。女が身を引く。そんなのはお構いなしに、黒猫はしたしたと歩き、やがて女の膝の上に飛び降りた。女が声にならない悲鳴を上げる。西馬も思わずカウンター越しに身を乗り出すが、黒猫が何をやっているのかは見えなかった。
一方の黒猫はというと、女の膝の上をくるくると歩き回って、太ももの具合を確認した後、自分の体がすっぽりと収まるポジションを見つけて座り込んでしまった。
その間、女は両手をホールドアップしたまま、黒猫の様子を見つめていた。泣きそうだった。しかし、黒猫が座り込み、ゆったりとシッポを振り始めるのを見ると、少しずつ肩から力が抜けていった。
「お前は選ばれたのだ」黒猫が言った。「座り心地もいい」
(なんだそりゃ)西馬はまた、ツッコミを入れたい気持ちをぐっと抑えた。
「おい、お客に何か出してやれ」急に、いつもの尊大な口調に戻って、黒猫が言った。「こっちの世界の連中はいくら飲んだって大して酔わない。三途の川の水で鍛えられている。だから心配するな」
(何その根拠!?)
西馬は釈然としないまま、バックバーに並べられた酒瓶と向かい合った。この女……は、どうやら2番目の客らしかった。
読んで頂き、ありがとうございます。まだまだ続きますので、お付き合い頂ければ幸いです。




