バーに来ためんどうな客
黒猫にせっつかれて、今日も西馬はバーカウンターに立っていた。やらされている感。バーテンダーとしてのプロ意識は、どこかに置いてきたらしい。
そもそも、こっちの世界に来てから、よく分からないことが多すぎた。初めて来る世界なのだから、仕方がないと言えば仕方がない。
それにしても、生きているうちは雇われバーテンダーだったのに、死んでから店を持たされるとか、思ってもいなかった。
しかも、客は閻魔大王だけときた。その客ですら、来たり来なかったりなので、あとはひたすらグラスや酒瓶に積もり続ける埃を拭きながら、突っ立っているだけなのだった。
黒猫がいつものクッションの上で耳を立てた。西馬はグラスを磨いていたが、つられるようにしてドアのほうを見た。
カランコロン。
ドアが開く。黒猫は黙っている。西馬は驚いた。なぜなら、そこにいたのは閻魔大王ではなく、見たこともないような美しい女だったからだ。長い髪が艶やかだ。
女は困惑げに店の中を見回している。この後、進むべきか、それとも、引き返すべきか、分からなくなっている感じだ。慣れていないらしい。
「どうぞ」
西馬が声をかけると、女が振り返った。西馬の目をまっすぐに見つめてくる。不思議な薄暗い光のある、底の知れない瞳だった。西馬は、動揺を悟られないように、カウンターの真ん中の席を手で示して、もう一度、
「こちらへどうぞ」と、言った。変な脇汗が出てきた。
女は言われるまま、店の中に入ってきて、カウンターに座った。体重がないみたいに、ふわりと。
黒猫はというと、相変わらず黙っている。ただ、イカの耳みたいに、耳をピンと立てて、女のことをじっと見ている。何かに警戒しているみたいだった。
かと思ったら、西馬のことを見て、ニヤリと笑い、クッションの上で、シッポを抱えるようにして丸くなってしまった。
(引っかかる。すごく引っかかる)
沈黙。
女はカウンターの向こうから、じっと西馬のことを見つめている。すごい目力のようでいて、こちらが視線を合わせると、やはり底知れない海のような。神秘的と言えなくもない。
ただ、神秘的と言うには、やや印象の暗さが勝っている感じだ。その深いところに引き込まれそうな、ズッシリと重たい吸引力があった。
西馬はしばしばと瞬きをした。体の奥底のほうで、何かがうずく感じがして、再び脇汗が出てきた。さらに手汗。
沈黙につぐ沈黙。それを破るように――。
「にゃお」
「え!?」
西馬はびっくりして黒猫を見た。いつもふてぶてしい人間語を喋る黒猫が、急に猫らしいことを言ったのだ。何事?悪いものでも食べたか。西馬と目が合うと、黒猫はつんと鼻先を突き出して、女を指した。
(やることをやれ。客だろ)というふうに、言っているように見えなくもない。
「ごき……」
ご機嫌いかがですか?と言おうとして、西馬の声が裏返った。この期に及んで「ご機嫌いかがですか」も、あったものじゃない気がするが、とっさに思いつかなかったのだ。しかし声が裏返ってしまった。
「ごき」って何だ「ごき」って。あの黒光りした、昆虫界きっての嫌われ者か?
クッションの上で黒猫がプルプルと震えている。笑いたいのを必死でこらえているのだ。
西馬はグラスを磨きながら、小さく咳払いをした。
(落ち着け。落ち着け自分。大丈夫だから)
それにしても、目の前に座った絶世の美女の視線がすごい。顔面に突き刺さってくるのだ。突き刺さって、突き破って、脳の根幹から体の下のほうへ向かって音速で駆け抜ける、みたいだ。
西馬も、生前、誘惑的な女の視線に会ったことがない訳ではない。ただ、それらの視線とははるかに引力の度合いが違っていた。
「ねえ」
女の声が言った。たった一言だったが、雷に当たったような衝撃が走った。そして例の視線だ。それらがあいまって、ダイソ〇の掃除機の数百倍の吸引力で、男ゴコロ(すごく婉曲的に表現した)を吸い寄せる。
西馬は、急に目まいを感じた。すると不思議なことが起こった。
気がつくと、目の前に見たことのない光景が広がっていた。さっきまで女が座っていた場所に、今は、おどろおどろしい具合に枝を伸ばした一本の大きな木が生えていた。枝の一本一本に、ツヤツヤとした肉厚の葉が茂っている。空は赤く黒く、異様にマーブル模様を描いている。
木のてっぺんに、女が座っているのが見えた。まっすぐに西馬のことを見下ろしている。その白い肌が異様に眩しい……。
「にゃぁ~お」
場違いに猫の鳴き声がして、西馬は我に返った。すると、木は消失し、もとのバーの景色に戻った。
女は何もなかったかのように、黙って座っている。かと思ったら、まっすぐにこっちを向き、じっと見つめてくる。
赤い唇が艶やかだし、真っ白い喉から胸元にかけての肌なんか、超絶にキメが細かくて滑らかだ。西馬はまた、うずく感じを覚えて咳払いをした。グラスを磨くためのクロスが、手汗を吸って湿ってきた。
「にゃ。ふわ~あ」
黒猫があくびをした。猫なだけあって、人間の女の魅惑的なことなんか、とんとお構いなしなのだ。西馬は呼吸を整えて、女を見た。ばっちりと目が合う。すごい吸引力。
すると、まただ。バーの店内の光景が消え、女が座っていた場所に、再び、悪魔的に枝を伸ばした巨木が現れた。緑色の葉が生い茂り、その隙間から女が見える。匂いたつような色気、腹の底がどうしようもなく疼いてくる。
気がついたら、西馬は木の幹に取りついていた。意識がぶっ飛んで、見えない力に引きずりあげられるように木を登り出していた。
最初の枝に手を伸ばした。すると、ざっくり。手のひらに何かが突き刺さった。緑色の……木の葉のような形をしたもの。それが今は鋭い刃となって西馬の手に刺さっていたのだ。
(何これ!)
驚く西馬。ちょっとだけ正気を取り戻しかける。しかし、そんなことを覆すのは女のモーレツな色気。西馬は怪我のことを忘れ、再び上を目指した。その手に、腕に、腹に次々に刃となった木の葉が突き刺さってくる。それなのに腹の底から燃えたぎってくる炎がちっとも消えない。西馬は手を伸ばす。
その時だった。女の姿に変化があった。まるで電波の悪いテレビ画像のように乱れ始めたのだ。とたんに、西馬の底のほうで燃えたぎっていたものが、くすぶり始めた。手のひらに刺さっていた刃が、ただの木の葉に戻って行く。体中についていた傷がどんどん消えていく。
西馬が驚いて、ぼんやりとしていると、ビリッと頬に痛みを感じた。西馬はとっさに目をつぶった。
(あれ?この痛みには覚えがある――)
そう思いながら、ゆっくりと目を開けたときには、巨木は消え、元の店内に戻っていた。
「バカめ」
足元から黒猫の声がした。前足をぺろぺろと舐めてメンテナンスしている。西馬が頬に触れると、ひっかき傷が数本。黒猫にやられたのだ。覚えのある痛みだと思ったのは、そのためだった。
(やっぱりドSだ……)
恨めしそうに黒猫を見るが、そんなことは一切、気にもならないらしかった。




