しょうこりもなくやってくる朝
バシャバシャ。
斜めに叩きつけるような激しい雨の中、しぶきを上げながら西馬は走っている。あたりは真っ暗。人っ子ひとり、いやしない。西馬は走り続ける。止まりたくても止まることができない。
やがて、ぽつん――高いところに灯りがひとつ。灯りの向こうには高い塀。西馬は立ち止まる。ここで立ち止まることが決まっていたみたいに、極めて自然に。
頬を打つ雨が、ひたひたと柔らかくなってくる。
やがて、ピリッと痛みを感じた。景色がぼやけてくる。強力な何者かの力によって、意識が、ゆっくりと遠のいていく――。
(……)
藁に木綿の布をかぶせたような粗末な寝床の中で、西馬は眠りから覚めた。夢の中で意識を失うと、現実の自分が目を覚ますシステムらしい。
さっきビリッと感じた痛みは――夢であり、夢でなかったらしい。目が覚めた今も、頬が痛い。ひりひりする。
(なんだってこんな……)
ため息をつきながら、そっと、傷口に触れようとして――。
(あれ?)
いや、体が動かない。これってもしかして金縛り!?しかも、何かが胸の上に乗っかっている感じがある。
怖っ!何これ怖っ!
心臓がバクバクする。ような気がする。なんたってもう1回死んじゃったあとなんで。こっちはいわゆる「あの世」なんで。
すると――。
「やれやれ、まだ起きないのか……」
ため息交じりの、しかし、どことなく嬉しげな声がする。
(ん?この声……)
ぼんやり寝ぼけた頭が、ちっとも役に立たない。
ただ、胸の上のそれがもっそりと動き、胸にかかる圧が四か所に分散されたのを悟ると、西馬の脳は一気に活性化した。
それで、これでもかってぐらいに、カッと目を見開いて叫んだ。
「ぅ起きてますっっ!」
彼の目の前には、一匹の黒猫が、前足を高々と振り上げた状態で固まっていた。
パッと見、ご主人に、
「ねぇねぇ、遊んで~遊んでよぉ~」している猫の可愛い姿に見えなくもない。
しかし、西馬の目は見逃さなかった。黒猫の前足にキラリと光る、悪魔の鎌のような鋭く凶暴な鉤爪を。
あと1秒、叫ぶのが遅かったら、西馬の頬のひっかき傷がさらに増えていた。
西馬の頬を、冷や汗が一筋たらり。
目の前の黒猫は、というと、シラケた半目で西馬を見ている。と思いきや、彼の胸を蹴って、トッと床に飛び降りた。
「爪とぎしたばっかりだったから、もっと試してみたかったのに、クソ。運のいいやつめ」
吐き捨てて、とっとと歩いて行ってしまった。
(辻斬り!?それ辻斬りの言い分と同じじゃなくて!?)
西馬はもそもそと寝床から降りた。ぐずぐずしていて、黒猫がぷんすか怒り出したら面倒だ。また痛い目にあうかもしれない。今朝だって、ちょっと寝坊したってだけで頬をひっかかれたのだ。
しょうじきなところ、今日が初めて、というのではなかった。藁の寝床は思いのほかに寝心地がよくて、ついつい寝坊しがちになっていたのだ。
頬の傷はもう固まり始めている。
この先また何かの縁があって人間界に再び行くことになったとしても、絶対に猫だけは飼うまいと心に決めた西馬だった。