生前のこと・真実
真っ暗な部屋の中、枕元に置いたスマホに触れる。時計表示はまだ夜中を示していた。西馬はため息をついた。ごしごしと顔をこする。
まったく眠れない。
うとうとしても眠りが浅くて夢ばかり見た。いやな感じのやつばかりだ。夢から逃れるようにして目が覚めるのだ。
目を覚ます度に時間を確認した。こういう時に限って、なかなか朝がやって来ない。
ほとんど眠れないまま、ぼんやりと次の日を迎えた。シャワーを浴びてヒゲを剃る。鏡に映った顔にはクマができていた。ひどいものだ。
喪服に袖を通した西馬は部屋を出た。鍵をかけていると視線を感じた。振り返ると、隣の部屋の住人だった。コンビニでも行って来たのか、ビニール袋をぶら下げて、何か不気味なものでも見るような顔をして立っている。
そりゃそうだ。あれだけ警察が押し掛けたら、そうもなるだろう。やれやれ。ため息。
西馬が俯いて歩いていくと、これ以上ないってぐらいに通路を開けてくれた。その後は走っていく足音、ガチャガチャと鍵を開ける音、バタン、とドアが閉まる音。それらを背に受け、西馬は歩いた。
午前中の太陽の日差しが、健康の押し売りみたいに、いやに眩しかった。目を細めながら、ひとり歩いた。
叔父さんの葬儀は、質素なものだった。クミコさんの疲れた顔が見えて胸が痛んだ。部屋の隅に、彼の両親がいて、気難しそうな顔で、ひそひそと何かを話し合っていた。西馬の姿に気がついたらしい、しかし、すぐに目を逸らした。それからは、目を合わせようともしなかった。
そもそも、西馬がバーテンダーになることを最後まで認めようとしなかった両親だった。きちんと一流の大学を出て、立派な就職先を見つけることが最善だと疑わなかった人たちだ。
彼らの前を通る時に、西馬は少しだけ頭を下げた。彼らの顔を直視するような気持にはならなかった。ただ、心が冷えるような思いだった。
「ありがとう」
クミコさんが小さく言った。彼女は泣き疲れた目で微笑んだ。彼女のこんな顔を見るのは初めてだった。言葉が出てこなかった。彼の胸のうちを察したのか、クミコさんはふっと優しい表情になった。
「顔、見てやってくれる?」
叔父さんの顔にかけられた白い布が外される。その顔は眠るように安らかだった。口元が微笑んでいるようにすら見えた。でももう、この唇から言葉を聞くことはできないのだ。
白い布で叔父さんの顔が隠されると、西馬は線香を立てて、写真に頭を下げた。バーテンの仕事をしている時の叔父さんの写真だった。
「この後、いられるの?」
クミコさんが聞いてきた。
「すみません」
じっとりとまとわりつくような空気に耐えられなかった。両親がいる空間から、いち早く出たいという思いもあった。クミコさんもすぐに分かってくれたらしく、
「そう。ほんとうに、ありがとうね」
とだけ言い、西馬を送り出してくれた。
ただもう、やりきれない気持ちだった。
まっすぐにマンションに戻る気にはなれなかった。ふらりと叔父さんの店の前まで行ってみようという気になった。
叔父さんの店は、西馬が子供だった頃と何ひとつ変わっていなかった。ただひとつ、ドアの真新しい張り紙だけが寂しげに見えた。
お得意様に向けたメッセージで「閉店しました」というお知らせだった。
子供の頃から、叔父さんは西馬の味方だった。大好きだった。小さい頃にはジュースを飲ませてくれ、そのうちカクテルの作り方など教えてくれるようになった。興味深い話をいくつもしてくれた。叔父さんはいつだって笑顔だった――。
ふと、宮脇に、迷惑をかけたことを詫びなくてはいけないと思った。何の連絡もせずに数日間、欠勤してしまったのだ。そう思って、店に足を向けた。
そして、この角を曲がれば、もうすぐに店、というところで、西馬は立ち止まった。自分の意思で立ち止まったのではなく、ショックのあまりに足が踏み出せなかったのだ。
彼の視線の先に宮脇がいた。タンクトップを着た彼は、これ見よがしに腕のタトゥーをさらしていた。そして、いかにも楽しそうに喋りながら、女の肩を抱いていた。
女の顔は忘れようもない。
バーに通いつめ、西馬に「送って」と誘ってきた女。次の朝、こつ然と姿を消し、代わりにヤバいクスリが残されていた。
このふたりは、つながっていた――。
西馬は頭の中が真っ白になった。気がつくと、目の前に宮脇の顔があった。驚愕の表情だった。何かに突き動かされるみたいに、衝動的に殴っていた。
宮脇は倒れた。鍛えていると言っていた割に軟弱だった。
女は一瞬、酸欠の魚みたいに口をパクパクした後、つんざくような悲鳴を上げた。
その甲高い声で、西馬は我に返った。
宮脇の唇が切れて血が出ている。倒れたまま西馬を見上げた。その目には蔑みの色が浮かんでいた。屈辱だった。
「クビだな」
宮脇が言った。西馬はふたりに背を向けて、足早に歩き出した。
「ダッセェ」
宮脇の声と、女が何かを言う声が聞こえてきた。自分の足音がどんどん遠ざかっていく――。




