視線
ボジャン。
ふいに水音がして、物思いに耽っていた西馬は、ふと我に返った。彼は今、井戸の横にいて、水を汲むために桶を落としたところだった。しかし、直後――。
(あれ?なんかヤバい)
とっさに顔を上げる。そして気がついた。彼の顔面を突き刺す、針のように鋭い視線があることに。
黒猫だ。いつの間にか、井戸の縁に飛び乗って、今にも西馬に飛びかかろうと体を低く構えていたところだった。
この黒猫は、西馬が寝過ごしたり、ぼんやりしている隙をついて、悪魔の鎌のような鋭い爪で、情け容赦なく引っ掻いてくる、というややこしい趣味を持っているので辛い。
西馬が思わず身構える。
(――来るのか?)
すると黒猫は、ふっと体の力を抜いて、軽やかに地面に飛び降りた。いかにも、興を削がれた、みたいな顔だったのを西馬は見逃さなかった。
(気づきやがってクソ、つまんねー)みたいな感じだった。
なんて猫だ。そのまま、足音も立てずに行ってしまった。黒猫が歩いていく周囲の草だけを、サワサワと揺らしながら。
当分、黒猫が戻ってくることはないだろう。それでも奴に関しては油断できないところもあった。なんせ、もの凄い忍び足で近寄ってくるのだ。猫の忍び足は、ほんとうに「忍んで」来るので怖い。あの肉球が足音を吸収しているとしか思えない。あの、ぷにぷにしたやつが。ぱっと見かわいいやつが。
(あれ?)
ふと視線を感じたので振り返る。西馬の視線の先には、うねうねと奇妙に枝を伸ばした、名前も分からない木が何本も生えている。そして林を構成していた。
そこに、誰かがいる感じはしない。
(気のせいか……)
西馬は井戸から汲み上げた水を運ぶ。また、振り返る。誰もいない。木の葉がこすれるような音がしたような気がする。風が吹いたか?吹いたかなぁ……。
でも、気にしている場合ではない。今日も今日の分だけ埃が積もった店の中を、片っ端からキレイにしていかなければいけないのだ。使わないグラス、減らないアルコール。それらを並べたバックバー。
誰のために、こんなバーの真似事をしているのだろう。
カランコロン。
入り口のドアを開けると、ドアベルが鳴る。生きていた頃、現役でバーテンダーをやっていた毎日に、飽きるほど聞いていた音だ。妙な現実味が、返って嘘のような気持ちにさせる。
自分はもう死んだのだ。だからこそ今、いわゆる「あの世」にいるのだから。
床につもった埃を掃き出すため、ドアを開けておく。そしてまた、視線を感じたような気がした。今日はなんだか妙なことがありそうな気がする。
気のせいかもしれないけど。




