森陸!
目が覚めて最初に思ったことは、もうちょっと寝ていたい。だ。昨日は夜の10時にはベットに入った。でも緊張であまり寝つけなかった。だから僕は眠い。
保健室のベットは、僕がいつも寝ているやつより少し硬いけど気持ちいいことに変わりはなかった。
しきりのカーテンから部屋を覗いてみたけど、僕以外には誰もいない。僕は布団を少し上に持ち上げて、顔の半分を隠した。
やってしまった。六年生にもなって緊張して自分の名前を言えないなんて、恥ずかしいことだ。きっと今頃教室で笑いものだろう。
どうしようか。このまま何も言わずに帰ってしまおうか。あ、でもランドセルがない。困ることではないけど、ちょっと嫌だ。でも取りに行くには、教室にいかなきゃならないし。でも……。
「帰りたいな~」
「何で?」
「お前もう帰るのか?」
僕のベットは窓際に置かれている。だから横に窓がある。それは当たり前のことだ。
その窓から、女の子と男の子が僕を見ていた。男の子はさっき目があった色黒の子だ。女の子はどこかで見たことがある。僕は二人を冷静に分析して、布団の中に潜りこんだ。
やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい!
聴かれちゃった! どうしよう、怒られる? いや、そんなことは、でも怖そうな子だし。
考えを巡らせているうちに、布団が宙を舞った。正確に言うと、女の子の手によって剥がされたのだ。
「何隠れてんだ!」
「おい、詩愛!」
「ひぃぃぃぃぃ」
僕は情けない声をだしてしまった。
「転校生君!」
「ひぃぃぃぃぃ」
「あのね、さっきは」
「ひぃぃぃぃぃ」
「さっきは、その」
「ひぃぃぃぃぃ」
「さ」
「ひぃぃぃぃぃ」
僕の五回目の「ひぃぃぃぃぃ」で堪忍袋の緒が切れたのか、女の子は僕を軽々持ち上げて胸倉を掴んだ。
目の前に彼女の顔がある。前髪の真ん中で割った彼女は、見るからに元気そうだ。
「きーーーーーけ!」
彼女の一喝に僕は、頷くことしかできなかった。
「さっきはおでこぶつけちゃって、ごめんね!」
「おでこ……?」
いつの間にか、僕は涙声になっていた。
「君とぶつかったの私なの、それで私は何ともなかったけど君は倒れちゃったんだよ? 覚えてない?」
そういえばそうだった。僕が何も話せずいたあの場をぶち壊してくれたのは、彼女だった。ただあれは痛かった。
「ごめんね?」彼女が困ったように言った。しかし胸倉はまだ掴まれたままだ。
「うん、大丈夫……」
「ありがとう!」そう言って彼女は、ニカっと笑った。本当にニカという音が出そうなくらいの笑顔だ。
「うん……」
「私は林詩愛! 君は……」
「なぁ、お前」
窓から眺めていた色黒の子が言った。彼の声は少し低く、もしかしたらもう声代わりをしたのかもしれない。頬の傷が痛々しい。
「は、はい……」
「あのさ、ってその前に詩愛いつまで掴んでんだ」
その一言を待っていた。
「あ、ごめん」
服が少し伸びてしまった。
「んでさ、俺ら今からサッカーやるんだけど一緒にやらね?」
色黒の子はそう言って、サッカーボールを持ち上げた。
僕はこれまでサッカーをしたことがない。本当に一度も。体育の授業でも何回かあったが、僕はその全てを休むか見学してきた。
理由は明白だ。僕には到底無理だからだ。運動が苦手な僕にとって、ボールを持って走って蹴って入れるなんてのは、逆立ちしてパン加えてココアを飲めと言われているようなものだ。なので当然回答は。
「ごめん……僕はいいよ……」
「なんで?」
「僕下手だから……」
「別に下手でもいいよ。てか俺らの中で上手いやつそんないねーし」
「海下手だもんね」
「お前に言われたかねーよ」
海って名前なのか。海君は彼女と同じで、前髪を真ん中で分けている。ただちょっとぼさぼさだ。
「んで、くるか?」
「いや、僕は……いいよ」
「そっか」
彼は諦めてくれたみたいだ。でもそれを彼女は許さなかった。
「えーーいいじゃん! やろうよ!」
「え、でも……」
「できるって!」
「僕には……」
「大丈夫! 私も下手だから! 海なんか私の五万倍下手だし!」
僕は首を横に振った。僕には無理だから……。
「ちぇ~~」
「詩愛行くぞ」
海君がそう言うと、彼女は窓から外へ飛び降りた。
「じゃあ、また後でな」
「うん……」
「はぁ~」廊下を歩いていると、自然とため息がこぼれてしまった。
昼の休憩が終わるまで、後10分くらい。ギリギリまで保健室で過ごしていたかったが、二人が出てった後先生が来て僕も追い出された。
保健の先生は、男の人で。髭が目立っていた。どことなくお父さんに似ている。
「お前転校生か?」保健の先生が僕に聞いた。
「あ、はい。今日から……」
「なんで、いきなりここ来てんだ?」
「あ、えっと……」
震える声で、事の顛末を話すと保健の先生は「ガハハハハハ」と笑った。
やっぱりお父さんに似ている。
「詩愛はバカだからな。あいつに目つけられたら終わりだぞ」
多分もう手遅れだ。
「お前名前は?」
そこで保健の先生の携帯が鳴って、僕は保健室を後にした。
自分の教室の前に立って、僕は深呼吸をした。それでもやっぱり心臓はドクン、ドクンとうるさいし、どんどん加速していく。汗も掻いてきてなんだか体調も悪くなってきた。気がする。保健室戻ろうかな……。でも先生に怒られたら嫌だし、それにここで引き返したらなんだかダメな気がする。でも……。
「あーーーーーー転校生!」
「ヒィ!!」
声の方向を向くと、林さんと海君が立っていた。サッカーをしてきたのだろう、全身泥だらけだ。林さんにいたっては顔まで汚れている。鼻先の汚れがちょっとだけ可愛く見えた。
「もう寝てなくていいのか?」海君がサッカーボールをまわしながら言った。
「あ、うん。大丈夫……」
「そうか。ならよかったな」
「うん……」
さっき断ったこと怒ってるかな? そう思うと僕は海君の顔を見られなかった。そうやって俯いてると、林さんが更に下から覗き込んできた。
「ヒィ!!」
「教室入らないの?」
彼女はそう言うなり、僕の手を無理やり引っ張って教室へ入った。
僕はいきなりそうされたので抵抗する暇もなく、クラスの皆の前に引っ張り出されてしまった。
彼女が僕の腕を掴んだまま、教室中に響き渡る声量で言った。
「皆! 転校生君治ったって!」
今まで友達と喋っていた子、読書をしていた子、寝ていた子、全員の視線が僕に集まった。
今この瞬間、この教室だけが世界から切り離されてしまったみたいに、静寂が僕たちを包んだ。
朝先生と一緒に入ってきた時のが、何倍もマシに思える。
視線が怖い。怖い。見てる。僕を。怖い。
下を。
俯こうとした時、誰かが叫んだ。
「うおおおお、生きてたか!」
「詩愛の頭突きをくらって生命を維持できるとはやりますね」
「おでこ腫れてない?」
「凄いね~君~あ、でも僕は肉まん食べたいかも~」
「おはよ~ってデチ肉まん関係ないでしょ?」
僕は目の前の光景に、唖然としていた。
わずかに聞きとれたのは、五人程の声。でも皆が僕に向かってなにか言っている。色んな言葉があるけど、僕はその中に悪い意味を見つけられなかった。
「もー皆一斉に喋らないでよ!」と林さん。
「詩愛は黙っていてください。元はと言えばゴリラみたいなあなたの頭が原因ですよ」と眼鏡をくいっと上げていった男の子は、ちびまるこちゃんに出てくる丸尾君そっくりだ。
「そうだよ~詩愛は僕みたいに~大きいんだから~気おつけないと~あ~肉まんある?」
「デチ君今肉まん関係ないよ? おでこ腫れなくてよかったね」
そう言った二人は、隣の席同士で男の子は太っていて額に汗をかいている。女の子はなんだかどこかのお嬢様みたいだ。黒くて長い髪が綺麗で、ニコッと笑う笑顔に僕は口元が緩むのを必死に我慢した。
「なんだよ! 皆して! 私が悪いって言うのかよ!」
皆は顔を見合わせて、林さんを指さして言った。
「お前が悪い」
「なんでだよーーーーーーーーーーーー!」
彼女がそう叫んだ所で、チャイムが鳴って先生が入ってきた。彼女は僕を席まで連れて行くと、手を離して自分の席に座った。
僕は算数が苦手だ。というか嫌いだ。だって難しいから。前の学校でのテストで、35点をとってから更に僕の中で苦手意識がついたそいつは、どうやら皆も嫌いらしかった。
その証拠に授業中だと言うのに、こそこそ喋ったりしている人達が多い。
あ、さっきのお嬢様みたいな女の子、隠れて本読んでる。なに読んでるんだろう。
気になって覗こうとした時、後ろから肩を叩かれた。
たな、違う。林さんだ。
振り向くと、彼女はにやにやしていた。デジャヴってこういうことかな?
「な、なに?」
「これ、海から」
受け取ると、それはノートの切れ端を二つに折ったものだった。開いてみるとそこには、「今日学校終わったらサッカーするけど来るか?」と書かれている。
本当にサッカーが好きなんだな~。
海君の方を一瞬見ると、目が合って彼は微笑んだ。僕はなんだか恥ずかしくて、目を逸らしてしまった。
また誘ってくれた。
嬉しいな~。
僕も一緒に……。
回答を書いて、後ろの林さんに渡した。
また肩を叩かれた。今度はちょっと強めに。
「な、なに?」
「なんで来ないの?」
「え、だって、迷惑……かけちゃうし」
「別にいいじゃん」
「ダメだよ、僕下手だし……」
「だ~か~ら~海も言ってたように、皆下手だから大丈夫だって~」
「でも……」
「……わかったよ~」
彼女は諦めてくれたみたいだ。先生にばれないように、海君の所に紙が回っていく。
海君は僕の回答を見て、どんな表情をするだろうか。怒るかな、やっぱりって感じの顔かな? それとも……。
今日僕にはチャイム運がないらしい。つまり僕は海君の表情を見れなかった。
今日の授業が全部終わった。初めての学校、教室での授業はいつもの何倍も疲れた。肩がもの凄く重い。こんなことお母さんに言ったらきっと「お父さんみたい」って言うだろう。
帰り際海君が話しかけてきた。
「なぁやっぱり無理か?」
きっとさっきの紙のことだろう。
「うん、ごめんね。迷惑……かけちゃうから」
「そっか……」
そう言った海君の表情は
本当に心の底から、悲しんでいる顔だった。
僕はそう確信した。なんでかわかんないけど、
この人は本当に僕と遊びたいんだ。
そう思うと、申し訳なくなって今すぐその場から逃げ出したくなった。
でも先に海君が教室を出て行ってしまった。
あ……待って。言いかけた言葉を、僕は飲み込んで俯いた。
スパァァァァン!!
何の音かわからなかった。困惑した。顔を上げると林さんがいた。彼女は両手を組んで、鼻の穴を膨らませている。なぜか片手にはスリッパを持っている。
あ、そうか。今の音……僕叩かれたんだ。
あんまり痛くはなかった。多分スリッパだから、あんな綺麗に音が響いたんだろう。
彼女は僕を睨んでいる。眉間に深い深い皺ができている。
「え、え、?」
「無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理って何回言えば気が済むんだ!!!!!」
彼女の唾が僕の顔をにかかった。でもそんなことどうでもいいくらい、僕は驚いていた。
「何回も言ってるでしょ!? 下手でもいいの!」
「でも……」
スパァァァァン!
また……叩かれた。
「でも……禁止!!」
「え、で」
スパァァァァン!
まだ言ってない……。
「痛いよ!」
「でも禁止なの!」
「言ってないじゃん!」
「うるさい! でもも無理も、全部禁止!」
「なんで君にそんなこと言われなきゃいけないの!」
「いいから、禁止ったら禁止なの!」
無茶苦茶だ。全くもっておかしい。自分で何を言っているのかわかってるのか?
「僕は、皆に迷惑かけたくないから無理って言ってるの!」
「別に迷惑なんて思わないし」
「思うよ! 僕は下手だもん! 下手くそはそういう遊びしちゃいけないんだよ!」
「なにそれ、誰が言ったの? 先生?」
「それは……」
田中君だ。でもそんなこと彼女に言ったって、どうしようもないし伝わらない。
「誰が言ったの!」
「その……」
「ねぇ!!」
「田中君だよ!」
思わず言ってしまった。でも彼女がしつこいから……。
「田中? このクラスに田中なんかいないけど」
「前の学校の人だよ」
「その田中ってやつは、なんの権限でそんなこと言ったの?」
「権限とはないけど、僕は昔から運動が苦手なんだ。それを彼は知っていてだから……」
「ふ~ん。君はどうなのよ」
「僕?」
問いの意図がわからない。僕がどうなんだ?
「だーかーらー君は、私達と一緒に遊びたいのかって」
「僕は……」
いつだったかお父さんとお母さんが喧嘩をした。理由はお父さんが会社の人と、キャバクラとかいう所に行ってしまったから。僕は未だにそこがどんな所かは知らないけど、その時のお母さんは正に鬼のように怒っていたのできっと悪い場所なのだろう。
お父さんは最初から、お母さんに謝っていた。何度も何度もペコペコ頭を下げて、僕はそれが可笑しくて隣で笑っていた。
お父さんはお母さんに、こっぴどく叱られた後僕の頭を撫でながら言った。
「男ってのは、女に弱いんだ。わかったか陸?」
「じゃあお父さんは、お母さんの尻にひかれてるってやつだね!」
「おま、どこでそんな言葉覚えた!? まぁでもそうだな」
「お父さんはいいの?」
お父さんはちょっと考えて、言った。
「男ってのは女の尻ひかれてるくらいがちょうどいいんだよ。それに」
「?」
「好きな女の前じゃ、男は阿呆みたいに素直なんだ」
そう言って、ニシシとお父さんは笑った。
僕は好きかどうかは置いといて、きっと素直になったのだと思う。でも後から思えば僕は……。
「あそ……び……たい」
「聞こえん!」
「あそび……たい」
「きーこーえーん!」
「遊びたい!!」
大声を出したのはいつぶりだろう。僕の唾が速しさんの顔にかかってしまった。それなのに彼女は嫌な表情もせずに、やっぱりニカっと笑うのだ。夏に咲くヒマワリみたいに。馬鹿みたいに明るく。
「よし! 行くぞ!」
彼女が僕の腕をまた引っ張って、走り出した。ランドセルの鍵を閉めていなかったので、背中でバスンバスン音が鳴ってる。
なんだか可笑しいな。笑っちゃいそうだ。
彼女が階段を三段飛ばしで行くので、僕も飛ばなきゃいけない。ちょっと怖いけど、ちょっと楽しい。
「海ーーーーーーーーーーーーーーーーー」
詩愛がそう叫ぶと、先を歩いていた海君が振り返って立ち止まった。
「なんだよ、二人して」
海君の横には昼に林さんと言い合いをしていた、丸尾君と太ってる子もいる。
走ったせいか、緊張かどっちかわからないけど、心臓がドクンドクン鳴ってる。
海君の眼を見ると、俯きそうになる。
でも。
「ああああああああああの!」
「?」
「海くん!」
「おう」
「サササッカー! 僕も混ぜてください!」
思いっきり頭を下げた。勢い余って林さんが、ちょっと前に飛び出した。きっと彼女には僕の震えが伝わってるだろう。それは……恥ずかしいかもしれない。
二秒くらいの沈黙の後、海君が笑った。
「ハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
顔を上げると、口を大きく開けて腹を抱えている。
僕は笑われると、思ってなくて困惑してしまった。
どうしよう。やっぱりダメだったかな……。
「は~腹いてぇ~いきなり大声で走ってくるから、何事かと思ったよ」
「ご、ごめん……」
「海でいい」
そう言って、彼は僕に右手を差し出した。
たまらなく。
たまらなく。
嬉しかった!
僕は両手で、それを握った。涙がでそうになるのを、ぐっと堪えて。
「これからよろしくな。えっと……」
今に思えば、きっと彼は僕の名前を知っていたんだと思う。僕があの時名前を言えなくても、きっと先生が言っていただろうし。
でも彼は言わせてくれたんだ、僕の口から。そして、ここまで連れてきてくれたのは、彼女だ。
僕は震える声で、彼の眼を見て言った。
「森陸!」