表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

主食はビーフウエリントン

面白い小説とは何か?――おらが街のラーメンのすすめ

 昔から考えていたことですが、芸術作品はつきつめると客観的評価はできません。

 ダ・ヴィンチの『モナリザ』が、子供が壁に書いた落書きより芸術作品として優れていることを、どうやって科学的にあるいは論理的に証明できるのでしょうか。


 工業製品ならスペックで性能を定量評価できます。この他、コスパも重要な評価基準です。

 スポーツの試合ならルールがあり、勝ち負けははっきりしています。

 ところが芸術作品の場合、その作品が論理的、客観的にどれだけすぐれているのか判然としません。

 ただ私たちが主観的に、あるいは直感的に、その作品をおもしろいと感じたり、つまらないと感じることはできます。

 

 これは広義のアート関係業界に従事している人にとって、少しおそろしいことかもしれません。芸術作品の価値など完全に虚妄や共同幻想に過ぎないとしたら、商売上がったりになってしまうかもしれないからです。

 あらゆる芸術作品は真に無価値なのか――ここではポストモダンかぶれの文芸評論家たちが得意とする、哲学、美学、形而上学を駆使した抽象的かつ”言葉遊び的”芸術論に陥るのは避けましょう。

 ただ芸術作品の価値は評価が曖昧だと言及するにとどめておきます。



1.”学校文学”は面白いのか


 さて、話を芸術作品全般から小説に限定します。

 数年前、イタリア人のエンジニアが書いた電子工作の技術書を読んでいたら(もちろん私の仕事関係です)、自分たちイタリア人は子供のころ、学校の国語の授業で、くそつまらないダンテの『神曲』を無理やり勉強させられる、と嘆いていました。エンジニアだけに文学への興味は低いのかもしれませんが、これを読んで私は思わず苦笑してしまいました。

 イタリア人のダンテの『神曲』に相当するものが、日本人にとっての紫式部の『源氏物語』あたりでしょうか。

 私たちは義務教育の学校で半ば強制的に古典文学を学ばされます。

 古典文学は長い間、権威ある組織や人たちに高い評価を受け続けた歴史がある作品です。

 古典だから面白い作品のはず。面白くなかったら、読者がまちがい。読者の理解力が乏しいから、面白さがわからないだけ......。

 私に言わせれば、こういう理屈で学校や社会が、”面白さ”を強制してくるのが古典文学です。

 ところが古語で書かれた古典文学が、今の若者に素直に受け入れられるか疑問です。

 この他、学校の国語で学ぶ文学として、明治以降の近代日本文学があります。これは現代語で書かれているので、こてこての古典文学より、かなり読みやすい小説と言えるでしょう。でも基本原理は同じです。

 夏目漱石の『こころ』や太宰治の『人間失格』などの文庫本は、現在でもベストセラーで、出版業界の貴重な収入源になっているようです。

 私もこの二つの小説はそれなりに面白いと思いますが、よく売れている理由は、国語の授業で学校の先生から”名作”のお墨付きが出たことがプラスされて、売り上げに寄与しているからだと思います。つまりアカデミズムのステマ効果が働いているのです。

 また近代日本文学同様に十九世紀、二十世紀の欧米の文学作品も、学校のお墨付きを受けた”傑作”があります。課題図書でおなじみのヘッセの『車輪の下』などが有名でしょうか。


 私はこのような”学校文学”をすべてつまらないとは言いません。むしろ個人的にはラノベより好きです。ただし読みたい人は読めばいいし、読みたくない人は読まなくていい。その程度の面白さしかないと思います。

 『こころ』も『人間失格』も、面白いと思うかつまらないと思うかは読者個々人の好みでよく、面白さがわからなければ、まちがえだ、などと上から目線で講釈すべきものだとは思えません。

 


2.文学賞は作家でなく編集者を選考委員に


 さて、権威が面白さを喧伝するものに、いわゆる文学賞受賞作品があります。

 芥川賞、直木賞、本屋大賞などが有名ですが、全部列挙するには枚挙にいとまがありません。

 権威ある評者が選んだ新刊小説だから面白いはず......。でもよく考えれば出版業界側のステマであることは明白です。ただし他の新刊にくらべ、業界が広告料をプラスして売り出している分、”ハズレ”は少なそう。読者側からはそう推定できます。

 私は以前から考えていたのですが、こうした文学賞の選考委員は作家でなく、編集者でいいと思います。

 通常、選考委員はベテラン作家が選出されますが、実質的に受賞作を選ぶのは出版社側なのです。出版社側があらかじめ受賞作を選び、それで了承してくれるか選考委員に頼むのが最終選考会議の実態のようです。

 選考委員の作家たちも出版社側からお金をもらって出席している手前、”やらせ”に参加するしかありません。

 文学賞の選評を良く読むと、そのへんを暴露している作家がいたりします。

 読者としてもベテラン作家でなく、一流の編集者たちが一押しで選んだ作品を読みたいでしょう。

 文芸誌の編集長、出版社の社長、あるいは出版事業部長など、彼らは日頃、マーケティングを行い、出版不況と闘いながら、ベストセラーの原稿を求めて果敢に奮闘しているプロ中のプロ。だから彼らはの鑑識眼は本物であり、文学賞の選考委員にあたいします。

 

 では文学賞受賞作品は絶対面白いでしょうか。

 それは上記の”学校文学”と同じです。読んで面白いと思うかつまらないと思うかは読者の自由。作品の面白さがわからなくても、読者個々人は選考委員に恥じ入る義務はありません。

 むしろ小説を読んでつまらなかったら、この文学賞には”ハズレ”もあると覚えておくべきでしょう。

 


3.書籍の売り上げは小説の定量評価法


 小説の面白さを擬似的に定量評価する方法として、たとえば書籍の売上げを観察する方法があります。

 発行部数、実売部数、売上、利益......。これらの数字は出版社の経営に直結します。

 いわゆるベストセラー小説が価値ある小説、という考え方です。

 この評価基準は上記の”学校文学”や文学賞受賞作品のそれに比べ、より客観的かつ合理的な指標に思えます。

 あなたがもし出版業界関係者であれば、これらの数字を常に意識しているのは言うにおよばず、上記の”学校文学”や文学賞受賞作品より、本の売れ行きが重要な指標であることに同意するでしょう。


 昔、新聞の文芸評論蘭に、小説の価値は売れ行きだけで決まるものではない、という論調の文章がありました。よく読むと彼は純文学系の文芸評論家で、純文学を擁護する目的でこんなことを述べているのです。

 つまり純文学作品は、ベストセラーのミステリー小説に発行部数では後塵を拝するが、純文学の方が真の読書通にはおもしろい、といった内容です。

 落語の寄席で、いちげんさんの客には古典落語より漫才や紙切り、奇術といった色物が受けるが、通の客になると一番面白いのが古典落語であることを理解している、という価値観に似ています。

 しかし私に言わせれば、これも純文学系の小説の文芸誌や書籍を販売している出版社側のステマの一種だと思います。

 出版業界をビジネスで考えたとき、本の売り上げの数値が重要であることを彼は少しも論破していません。


 では業界関係者でない一般の人の場合、ベストセラー小説を読むべきでしょうか。あるいはベストセラー小説は絶対、面白いでしょうか。

 そんなことはありません。ベストセラー小説も”学校文学”や文学賞受賞作品の場合と同様です。

 あなたが読んで面白ければその作品は面白いし、つまらなければその作品はつまらないのです。

 ただ会合や集会の場で、流行の話題についていくために、ベストセラー小説をチェックしておいた方が人間関係がスムーズになる、ということはあるかもしれません。



4.おらが街のラーメンのすすめ


 たとえば、あなたが友人と場末のラーメン屋に入り、同じ醤油ラーメンを注文したとします。

 あなたは醤油ラーメンをおいしいと思い、友人はまずいと思いました。

 どちらが絶対的に正しい評価なのでしょうか。実はどちらでもありません。そのラーメンはあなたにとっておいしく、友人にとって、まずかったのです。

 もしかしたら、あなたもその日の気分によって、同じ醤油ラーメンをうまくないと感じる日もあるかもしれません。

 あなたがプロのグルメ評論家だったら全国の有名ラーメン屋を食べ歩き、ラーメンに関する薀蓄を勉強した上で、原稿を書かなくてはならないかもしれません。しかしながら普通の人にとって、ラーメンは「おらが街のラーメンが最高!」といった評価でいいのです。

 たまたま自宅のそばにあったラーメン屋や、通勤や通学途中にあったラーメン屋に入り、気に入ったので、行きつけの店になった。だから、おらが街のラーメンが一番おいしい......。

 小説もこれと同じ価値観でいいと思います。



5.小説家でなく、”街の小説屋さんに”なりたかった栗本薫


 90年代の話でしょうか。テレビ番組で栗本薫がグラフィックデザイナーの横尾忠則と対談していました。

 この中で、栗本薫はこんなことを語っていました。


 自分は本当は小説家でなく、”街の小説屋さん”になりたかった。街のパン屋さんが「おいしいパンが焼けましたよ」と近所に焼き立てパンを配るように、「おもしろい小説が書けましたよ」と言って小説を近所の人たちに読んでもらう”街の小説屋さん”......。


 当時、全国どこのコンビニに行っても、文庫本棚の半分以上は『グイン・サーガ』シリーズが占めていました。

 職場の飲み会に行くと「自分の知り合いに『グイン・サーガ』全巻読んでいるやつがいる」という話題でよく盛り上がりました。

 今から思えば、『グイン・サーガ』は国内限定のプチ・ハリーポッター現象といっていいでしょう。

 作者、栗本薫は日本ファンタジー文学界の女王のみならず、小説界全体の女王のといっていい、大ベストセラー作家でした。

 その彼女が”街の小説屋さん”になりたかったという発言の真意は、テレビ番組を途中だけ見た私には正確にはわかりません。

 ただし推測するに、小説界の女王様も、上記の「おらが街のラーメン」と似たような価値観や心境にたどり着いていたということではないでしょうか。


 他者の評価がどうであれ、読者個々人が面白いと思う小説が面白い小説。反対につまらいと思う小説はつまらない小説......。


 女王様ともあろう方が何をおしゃいますか、と周囲がやきもきしそうな発言ですが、業界の頂点に君臨するがゆえに、かえって栗本薫は小説の本質を見破っていたのではないでしょうか。

 どうもそんな気がしてなりません。


                                           (了)

 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ