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第一章 明日への一歩 ―烏羽色―

 太陽も姿を隠した夜七時過ぎ。

 住宅街の一角にある質素な家に、その家の主が帰ってきた。

「ただいま」

 主の名は三日月護(みかづきまもる)。歳は四十を迎えたところである。

 護は玄関でベージュのトレンチコートを脱ぎ革靴も脱ごうとしていると、そこに女性が出迎えに来た。先程まで食器洗いをしていたのか、エプロンで濡れた手を拭きながら歩いてくる。

「おかえりなさい」

 そう言うと女性はサッとコートを受け取った。

 この女性は護の妻の(かおる)。歳は護と同じ四十。とてもほんわかとしたオーラを放つ優しそうな女性だ。

「一週間。今回は割と短かったわね」

「あぁ、いつも済まないな」

「ううん……良いのよ」

 薫は笑顔で返事をしたが、その口元を見ると、どこか無理をしているように感じ取れた。

「あっ、今ちょうどご飯を食べてたところなの。あなたの分もすぐに用意するからちょっと待ってて」

 両手の指を合わせ、ふと思いついたかの様にそう言と、妻はキッチンの方へと駆けていった。

 護は鞄と帽子を手に持ち、リビングの方へと歩いていく。

 リビングに入るとそこでは娘の(まい)が席に着き食事をしていた。

「ただいま」

「…………」

 挨拶をしても返事がこない。舞は黙ったままご飯を食べ続けている。

 そんな無愛想な娘に呆れながらも、鞄と帽子を部屋の隅に置くと護はまた舞に向かって話し掛けた。

「舞、進路は決まったか? お前の将来だ。父さんはお前の決めた事だったら何だって応援するぞ」

「父親面しないでよ」

 その言葉に面食らった護は、目を見開いたまま動きが止まってしまった。

「私達の事は放ったらかしでさ、ほとんど家に帰ってこないで、たまに帰ってきたと思ったら平然とした顔してるしさ。謝りもしないで……」

 舞は箸を置くと椅子から立ち上がり護に言った。

「あのさ、知らないと思うけど、お母さんは毎日三人分の晩ご飯作ってるんだからね? いつ帰ってくるか分からないからって。ほら、向こうに準備してあるよ」

 母親の居る台所の方を指差す舞。薫は作ってあった料理をテーブルに並べるための準備をしていたところだった。

「…………」

 返す言葉が無い護。

「せめて理由くらいちゃんと説明して欲しい。それが、家族としての義務でしょ?」

 舞の瞳は真っ直ぐと護の事を見つめていた。

 しかし、護は目を逸らし、返事をする事はなかった。

「もういい。ご馳走さまでした」

 そう言うと舞はリビングを去り、自分の部屋へと駆けていってしまった。

 護はただ見えなくなっていく娘の背中を目で追い続ける事しか出来なかった。

 自分の部屋に戻った舞はベッドに体を投げ出す。

 横を向くと机の上に置いてある写真立てが視界に入った。

 護、薫、舞の三人が笑顔で映っている写真。舞が小学三年生の時の物だ。

 枕をギュッと掴み顔を埋める。

(お父さん……)

 疲れていたのか、舞はそのまま眠ってしまった。

 涙で枕を濡らしながら。



     2



 日曜日の朝。

 部屋に響き渡る目覚ましの音で目が覚めた。

 目覚ましを止め、むくりと起き上がり開口一番、

「うわぁ……最悪」

 そう発したのは舞だ。

 大きくため息をつき、「うーん」とうめき声を上げながら布団から出ると、自室のドアを開けてよろよろとリビングの方へと歩いていく。

 テーブルにはいつものように朝食が用意されていた。

 本日のメニューはハチミツを掛けた食パンにスクランブルエッグ、ウインナーにサラダ、そしてデザートにリンゴという『THE 朝食』なものであった。

 だがこの朝食、舞にとっては食欲をそそる物では無い。朝が苦手なタイプにとっては朝食をしっかりと摂ること自体が辛いからだ。

 目を半分閉じたままよろよろとテーブルの方へと向かうと、キッチンに母の姿を見つけた。

「おはようお母さん」

 いつものように母に挨拶をし、いつものように椅子に座って朝食をとろうとする。

 そこで舞は違和感に気付いた。

 用意されている朝食が、いつもより一人分多いのだ。

(お父さん、帰ってきてるんだよね……)

 少しだけ手が止まったが、すぐにまたいつもの様に朝食をとり始めた。

 そこに一人、足音を立てながらリビングへと向かう者が現れた。

「おはよう……」

 パジャマ姿の護だった。

 髪はボサボサ服はヨレヨレ、もちろんヒゲは放置。朝食後に整えるタイプなのだろう。

 護はあくびをしながらシャツの中に手を突っ込んで胸を掻く。

 帰って来るといつもこうだ。家を出る時にはキッチリカッチリとしているというのに、家の中にいる時とのギャップが凄まじい。

 そんな事を考えながら父親の姿を見つめる舞。

 昨日の事を気にしているのか、父親と目が合うとすぐに目を逸らした。

 護は「よっこいしょ」と声を出しながら席に着くなり、リモコンを手に取りテレビを点けた。

 そのまま舞達の方をチラりとも見る事なく食パンに齧りつく。

 テレビには朝のニュース番組が映った。番組のアナウンサーが真剣な面持ちでニュースを読み上げている。

「――という事です。次のニュースです。昨日、ショッピングモールで起こった凄惨な殺人事件に関連したニュースです。こちらは事件のあった現場からお伝えいたします。それでは現場の安部さん、お願いします」

 画面が切り変わると、こちらもまた男性リポーターがショッピングモールを背に真剣な面持ちでいた。

「はい、こちらが昨日事件のあった現場です。えー現在は警察により立ち入り禁止となっていまして、中の様子を伺う事は出来ません。えぇ、これ程までのですね、警察が動いているという事でとても深刻な事件だという事が伺えます」

 突然、画面が元のスタジオへと移り変わった。

「速報が入ってきました。被害者の一人、十八歳の男性が病院で意識を取り戻したとの事です。男性は昨日、現場で血を流して意識を失っていたところを発見され、病院へと搬送されていました」

 食事をしていた護の手が止まる。

「やった…………!」

 護はテレビ画面をじっと見つめながら、ポツリとそう呟いた。

「え、何?」

 そんな父親の事を見る舞。

 しばらくしても固まったまま護は動かないので、テレビへと視線を移し食パンを齧った。

 すると突然、護はバンッと机を叩き、音を立てながら席を立った。

 突然の事に驚き、舞は体をビクッと震わせる。

 そんな事は意に介さず、護は自分の部屋へと走っていった。

 舞はパンを口に咥えたまま目を点にさせ固まっている。

 護はドタドタと音を立てて戻ってきたかと思うと、コートを羽織ってパジャマのまま玄関を飛び出し何処かへと行ってしまった。

(何? 何なの……?)

 舞の目の前には、嵐が過ぎ去った跡だけが残っていた。



     3



 護が家を飛び出す一時間程前。

 少年が薄目を開けると視界一杯に暖色が広がっていた。

 辺りを見回す事で自分の置かれている環境が理解出来た。

 病院の個室の病室。腕には点滴。側には看護師が一人。

 体がダルい。力が入らない。まだ若干意識が朦朧としている。

「織部さん!? 意識が……!」

 看護師が気付いたようで、医師を呼ぶために廊下へと出ていった。

「先生! 織部さんの意識が戻りました!」

 少しすると白衣を着た中年の男性が病室へと入ってきた。

織部(おりべ)さん、織部理人(おりべりと)さん、分かりますか? ここは病院です」

 その問いに対し、理人はゆっくりと頷く。

「あなたは昨日ショッピングモールで倒れていたところを発見されて……あぁ」

 理人はウトウトと眠ってしまいそうな程、まぶたが重く感じられていた。

「すみません、起きたばかりなのに突然色々と話してしまって。お疲れでしょう、そのまま安静にしていて下さい。では、私達は一旦失礼します」

 その声が聞こえたのを機に意識が遠のいていった。



 息を切らしながら緊迫した表情で病院の受付を訪ねる男がいた。

「っすみません! 昨日、病院に運ばれてきた少年がっ、はぁ、目を覚ましたと、聞きまして、あのっ、私は……親戚でしてっ……!」

 あまりの緊迫感に圧倒され、慌てながら対応する受付の若い女性。

「あっ、はい! 織部さんですね。織部さんでしたら六階の六○五号室です」

「ありがとうございます!」

「い、いえ、どうも……あはは…………ふぅ」

 受付の女性はホッと胸を撫で下ろした。

(何、今の人怖っ! やめてよホント、ビックリするじゃない! ……あっ! 本当ならあんなに怪しい人は身元を確認するように言われてたんだった! まだ受付のバイト始めて一ヶ月も経ってないのよ、仕方ないじゃない! ……後で怒られないようにこの事は秘密にしておこう。ていうか今の人、パジャマにコートって……)

 そんなことを考えている間に男はエレベーターの方へと歩を進めていた。



 エレベーターの中でよれたコートをしっかりと整える。

(ショッピングモールの最寄りの病院で正解だったみたいだな)

 六階に着くと男は胸を張りスタスタと歩き始めた。堂々と歩けば逆に怪しまれないというアレだ。

 目的の病室まではもうすぐといったところで、ナースステーションで話す看護師達の会話が耳に入ってきた。

「織部さんねぇ、服は血塗れで穴が開いていたのに体は無傷だったのよねぇ。一体何があったのかしらねぇ……」

 会話を盗み聞きしながらナースステーションの横を通り過ぎる。

(六◯五号室……)

 男は周囲を確認してからそっとドアを開け、中に入る。

 そこにはベッドの上で窓の外の景色をボーっと見つめる少年がいた。

「やぁ、こんにちは。すまないね、こんな格好で」

「え、えっと……どちら様ですか?」

 突然の訪問者に困惑する理人。

「あぁ、覚えていないか……昨日、ショッピングモールで、私と会った事を」

「ショッピング、モール………………つっ!」

 鋭い痛みが頭に走る。

 理人は両手で頭を抱え、呻き声を上げる。

 痛みと同時に、脳内では昨日の記憶のフラッシュバックが起きていた。。

 家族でショッピングモールへと行っていた事。

 突然化け物が現れ、人々が襲われた事。

 家族が襲われた事。

 自分自身も襲われた事。

 全て思い出した。

 あの時の凄惨な現場を。

 家族を失った時の絶望感を。

 自分の命の灯が消えていく感覚を。

 動悸が止まらない。呼吸が乱れる。

「思い出したかい?」

「あぁ、思い出した。昨日、最後に会った人……!」

 息を切らし俯く理人の目は前髪で隠れていたが、その隙間からチラリと見えた眼光はとても鋭いものだった。

「あんたは、何を知ってるっ……!」

 理人は突然、男の胸ぐらを掴みにかかった。

 が、その腕はいとも簡単に掴まれ、止められてしまう。その見て呉れからは想像も出来ない反能速度で。

「っ……!?」

「落ち着きなさい。興奮し過ぎると体に障るよ」

 理人は腕に入れていた力を抜き、ぐったりとベッドにもたれ掛かる。そして目を隠す様に左腕を額に押し当てた。

「あなたがアイツの腕を吹き飛ばした。でしょ? どうやったんですか? あと、あなたはアイツを見ても全然怖がっていなかった。それどころか立ち向かっていた。何故ですか? どうしてそんな事が出来たんですか? もしかして前にも同じような事があったとか、アイツの事を知っていたとか?」

 記憶がフラッシュバックする事で疑問が次々と湧いてくる。

「ねぇ、答えて下さいよ!」

 やはり冷静でなどいられない。

 そんな理人を無視するように男は言った。

「テレビを見てごらん。君のニュースが流れているよ」

「は……?」

 男はおもむろにリモコンを手に取り、テレビを点ける。

「――えぇ〜昨日の事件ですけれども、土曜日の昼間という、人がたくさん集まる時間帯にですね、ショッピングモールでの犯行という事で大っ変な被害が出てしまいました。ですが被害者の中の一人は奇跡的に回復されたという事です。しかし、その方の家族は全員お亡くなりになられてしまったという事で――」

 テレビに映るアナウンサーは昨日の事件を淡白に話していた。

(他人事みたいだな。いや、他人事か)

 理人にとってはとても大きな事件であっても、関係のない人にとっては事件の大きさなど関係無い。少し時間が経つと忘れ去られてしまう『ただの事件』なのだ。人間はそんな生き物なのである。

「いやぁ、ここに来るまで大変だったよ。君の事を取材しようと取材陣が病院の前にワラワラと集まっていたからね。あれじゃあまるで糞にたかる蝿だよ。あっ、別に君のことを糞だと言っている訳じゃないからね! ハハッ」

 笑いながら陽気に話す男。

(何を笑っているんだこの人は……)

「って、話を逸らさないで下さい!」

 再び男を睨みつける理人。

「そうだね、本題に入ろうか」

 椅子に座り、話す姿勢を整える男。

「私の名前は三日月護。キミとはあのショッピングモールで初めて出会った。キミを見た時は驚いたよ。何せ怪物に胸を貫かれていたんだからね。いやぁ本当にビックリしたよ」

「っ! 早く質問に答「キミはあの時一度死んだ」

「……え?」

 思考が一瞬止まる。

「自分の身体を見れば分かるだろう。キミ自身、胸を貫かれた事は覚えているだろう? しかし、キミの胸に穴は開いていない。完全に回復している。キミの身体はあの時一度活動を止めたはずなんだ。でもこうして生きている。それはどういう事か……」

 男は一度大きく息を吸い込むと、先程とは打って変わって冷めた表情になり言い放つ。

「そう、キミはもう、人間じゃないんだ」

 分からない。

「何を言ってるのか全然分からないです……」

 何を言っているのか本当に分からない。

「キミをそんな身体にしたのは私だ」

 脳の処理が追いつかない。

(本当に、何を言ってるんだ、この人は……?)

 開いた口が塞がらず、何ともマヌケな表情のまま固まる理人。

「今日はこのくらいにしておこう。君も情報の整理がしたいだろうしね」

 男は立ち上ると、コートの裾をなびかせながらドアの方へと向かう。

「また会おう、少年」

 理人はただ男の後ろ姿を見送るしか出来なかった。



     4



 翌日は身体に異常がないか調べるために精密検査を受けた。そのまま特に何かあるわけでもなく一日が終わった。

 依然としてマスコミは集まったままだが、病院側は一歩足りとも院内へ踏み入れさせる気は無いらしい。

 理人はただボーっとしているしかなかった。

 そのまた翌日、ボーっとしている事に嫌気がさした理人は病院を抜け出す事に決めた。

(ショッピングモールに……!)

 犯人でもなく寧ろ被害者であるというのに現場に戻ろうとする理人。自分の置かれている状況を少しでも変えるためだが、こんな方法しか思い付かなかった。

 ナースステーションにいる看護師達に見つからないように忍者の様な動きでエレベーターへと辿り着く。ここまで来れば後は堂々としていた方が逆にバレない。

 エレベーターを降り、真っすぐ歩き玄関を出たところでマスコミ達がこちらに気付いた。

「あっ! 織部さんですか!? 少しお話をっ!」

 マスコミという生き物の群れが理人に押し寄せる。

「うわっ!」

 驚き焦る理人などお構い無しに取材を試みるマスコミ。

「先日は一体何があったんですか!?」

「犯人の姿は覚えていらっしゃいますか!?」

 質問に答える気にはなれない。いや、それどころか質問が全く耳に入ってこない。人の群れには変な高揚感を覚えるが、これは例外だ。

 理人は一度しゃがむと勢い良くマスコミ達の間をスルスルとすり抜けていった。自分でも驚く程スムーズに。

 一旦立ち止まり、自分の身体を目で確認する。

(本当にどうしたんだ、俺の身体は……)

「あっ、織部さん! ちょっと待って下さい!」

 マスコミの注意がこちらに向いた事に気付いた理人は、追いかけてくるマスコミを尻目に颯爽と走り去っていった。



 ビルが立ち並ぶ道路の歩道を走る理人。

 後ろを振り返り、追手がいない事を確認すると、上がった息を整えるために歩き始めた。

(ここまで来ればもう大丈夫だな……)

 などと考えていると何かにぶつかってしまった。

「痛っ」

 目の前に立っていたもの、それは人だった。しかし、ガタイの良い、明らかに不良といった姿をしている男が。

「おい兄ちゃん、何やってくれてんの?」

 男の周りにいた二人の取り巻きが詰め寄ってくる。

 それに合わせるように、理人は一歩後ずさる。

「待てよ。ぶつかっといてスイマセンも無しか?」

 ガタイの良い男が理人の肩を掴んで言った。

「えっ、あっ、すみません……」

 男は顔を近づけながら笑顔で言った。

「ん〜〜、許さない」

 そして理人は人目のつかない裏路地へと連れて行かれた。


五津井(ごつい)さん、コイツ全然金持ってないっすよ」

 取り巻きは理人の財布から千円札一枚と数枚の小銭を手に取りながら不満げにそう言った。どうやら、ガタイの良い男の名は五津井と言うらしい。

「はぁ〜、注意力も無けりゃお金も無いってか。お前それで生きていけんのかよ」

 五津井はため息をつきながら理人に向けて言った。

 不良に心配をされてしまった。皮肉だとは思うが、そんな台詞を言われてしまう自分が情けなく感じられる理人。

 いや、この不良が無駄に煽りセンスが高いだけかも知れない。

「あの……お金返して下さい……」

 理人(りと)のこの言葉に取り巻きの一人が反応した。

「お前話聞いてたのか? 許さないっつってんの!」

「五津井さん、いつものアレ、やっちゃいましょうか」

「おっ、良いっスね。やりましょうやりましょう!」

 二人の取り巻きは息を合わせて答える。

「「サンドバッグタイム!!」」


 もうどれくらい殴られただろうか。

 二人の取り巻きに羽交い締めにされ、五津井の大きな拳に何度も襲われている理人。

 顔はボコボコになり青タンが出来、血塗れになっている、はずだった。それくらいに殴られていたはずだ。

 だが、理人の顔にその様なダメージは見られない。せいぜい掠り傷程度だ。

 殴っている側の五津井が恐怖の色を見せ始め、額には冷や汗が滲んでいた。

 理人自身も驚いていた。

 痛くない。まるで小さな子供にペチペチと叩かれているかの様だ。

「くっ……くっくっくっ…………」

 突然笑いがこみ上げてきた。何故かは自分でも分からない。

 突然笑い始めた理人に恐怖を抱いたのか、理人を羽交い締めにしていた取り巻き達はその手を放し、五津井の陰に隠れるように離れていった。

「あっはっ、あっはっはっはっ……!」

 顔を左手で覆い、笑いながら天を仰ぐ理人。

 一通り笑い終わり、「ふぅ」と一息つくと、今度は笑いではなく好奇心が湧いてきた。

(今コイツらを殴ったらどうなるんだろう?)

 純粋な疑問。身体に変化があった事は理解した。

 ではこの身体で一体何が出来るのか。何が起こるのか。試してみたくなった。

 好奇心が抑えられない。感情が剥き出しになるような、そんな感覚に陥る。

 理人は右手にグッと力を入れると五津井に殴りかかった。

「ひゃあっ!」

 ガタイの良い五津井が、か弱い女の子の様な悲鳴をあげる。

 それと同時に鈍い音が響いた。

 顔を腕で覆い、ガードしたままの五津井。その腕は傷付く事はなく、ただガタガタと震えていた。

 殴られていない事に気付くと、状況を確認するように腕の隙間からそっと理人の様子を伺う。

 理人の右ストレートは五津井の右に逸れ、後ろの壁を貫いていた。

 拳を引き抜き、軽くスナップする理人。

 その表情は数分前までのものとは全く違い、まるで悪魔の様な悪い顔をしていた。

 五津井達は悲鳴を上げながら、走ってその場から逃げていった。

 直後、どこからか声が聞こえてきた。

「これで分かっただろう」

 声のした方を向くと、そこには先日病室を訪ねてきた男が立っていた。

「君はもう人間じゃない。その身でしっかりと理解出来たはずだ」

 男の声を、言葉を聞いた理人はふと我に返りそして、体から血の気が引くような感覚に陥った。

(あれ……何であんな事したんだ、俺は…………)

 少しの間、ハイになって自分を見失っていた。それは事実だ。

 事実だからこそ怖い。自分が何故そうなったのかが分からないからだ。

「人間じゃ……ない……」

 自分の右手の手の平を見つめる理人。

「お腹空いてないかい?」

「えっ……?」

 突然そう切り出された理人は困惑する。場の空気、話の流れをぶった切る護。

「取り敢えずラーメンでも食べにいこうか」

「は?」

 本当にこの人は何がしたいのか分からない。



     5



 目の前に置かれたラーメンからは湯気が立ち昇っている。醤油ラーメンの出汁の良い匂いが食欲を刺激する。

 護と理人は屋台のラーメン屋に来ていた。

 ここ最近、病院食ばかり食べていた理人の目にはラーメンはとても美味しそうに映った。

 レンゲでスープを一口。

 そのまま無言で麺を啜り始める。その勢いは凄まじく、まるで砂漠で喉がカラカラの時にオアシスの水を飲むかの様に。

 理人はあっという間に完食した。

「美味かったかい?」

「えっ? ……まぁ」

「それは良かった」

「そんなにオススメのラーメン屋だったんですか?」

「いや、君の身体が変わってしまって人間でなくなっているとしても、味覚は元のままで良かった、と。あと、ラーメンを美味しいと思える心もね」

 とても満足そうな表情の護とは対照的に理人の表情からは何も納得出来ていないような雰囲気が溢れていた。

「僕をこんな風にしたのはあなたじゃないですか! それなのに「良かった」なんておかしいでしょ。しかも本人に向かって言うなんて……」

 護は話を聞いていないのか、理人の方をチラリとも見ずにコップに入った水を飲んでいた。

「……っ、もういいです! ご馳走さまでした!」

 護の態度にイラついた理人は乱暴に礼を述べてから、その場を走り去った。

 コップに入った水を飲み干した護はそっと机にコップを置いた。

 その時の護の眼は明後日の方向を、いや、鋭く何かを、遠い未来を見つめているように見えた。


 気が付くと商店街まで来ていた。

 息を整える理人。身体が変化しているおかげか、そこそこの距離を走ってもそんなに呼吸が乱れない。

(何か今日、走ってばっかだな……)

 呼吸を整えると共に冷静になった理人は、ふとそう思った。

 冷静ついでに周りの景色を見渡した。

 色んな人がいる。その中でも特に理人の目には家族連れの人達が映った。平日に家族連れとは珍しいので余計に目が行ってしまう。

 家族が楽しそうにしている姿に何故か惹かれる。その理由は何なのか。

 理人は昨日家族を失った。家族を失う事で生じる寂しさや孤独感、喪失感は計り知れないだろう。そんな気持ちを埋めるための代償行為なのかも知れない。間接的に『家族』を感じているのだろう。

 そのはずだった。

 しかし、理人はただ家族を見つめ続ける。

(あれ……)

 理人は異変に気付く。

(全然、寂しくない……)

 自分の心の変化に。

 右手で胸の心臓の辺りを掴む。

(全然苦しくない……普通はこんなもんなのか……?)

 そんなことを考え続けていると、理人の耳に悲鳴が聞こえてきた。若い女性の声だ。

 直後、大勢の子供達の泣き喚く声が商店街中に響き渡った。

 理人や、その周りの人達は何が起こっているのか分からず困惑している。

 周囲の様子を伺っていると、人の群れが理人の方へと向かって来ている事に気付いた。

 人々の顔は恐怖に満ち、我先にと他人を押し退け走る。

 この光景には見覚えがある。

(あの時と同じ……!)

 理人はその場に呆然と立ち尽くしていた。

「どけ!」「邪魔だ!」という怒号を浴びせられ、肩に体をぶつけられ、それでもその場に立ったままでいた。

 人の群れが過ぎ去ると視界が開けた。

 そこには呻き声を上げ、血を流しながら横たわる大人達とその姿を見て泣き叫ぶ子供達、そしてその中心に、黒い『何か』の姿があった。

(ヤツだ……)

 心臓が激しく脈打つ。

 手脚が震える。

「逃げろ、逃げろ」と言葉が聞こえる。

 本能がそう叫んでいる。

 一歩下がる。

 黒い『何か』がこちらの方を見たような気がした。

 それを引き金に、理人は逃げ去った群集の後を追う様に、その場を全力で走り去った。


 三十分程経ったか。

 理人は街をブラついていた。

 忘れよう、見なかった事にしようと特に行く先も決めずに。

 だが忘れられる訳がない。こんな目に二度も遭っていたなら尚更だ。

「あぁあっ!」

 感情が爆発し、声を荒げ、頭を掻きむしる理人。

 このまま何もせずただ逃げているだけでは何も変わらない。

 この心のモヤモヤも晴れることは無い。

「クソっ!」

 理人は汚い言葉を吐き捨てた。

 その後、商店街のある方角をしばらく見つめると、覚悟を決めたかの様に走り出す。

 この先にあるものは地獄。

 一度足を踏み入れればもう戻ることは出来ない。そんな気がした。

 だが理人は足を止めない。

 進む先は光か闇か。それすら分からずに、ただ走り続ける。


 商店街に戻ると、現場は警察と野次馬で溢れていた。

 理人は野次馬集団の後ろで現場の様子を伺う。

 救急車で運ばれていく人の姿が見えた。

 大きな声で母親を呼ぶ子供の姿も見える。子供は血塗(ちまみ)れだが怪我をしている様には見えない。他人の血だろうか。もしかしたら目の前で親が殺され、その血を浴びたのかも知れない。願わくば他人のものであって欲しい。

(俺と、同じだ……)

 理人は悔しさのような感情を押し殺すように拳をグッと握り締める。

「戦わなかったんだね」

 背後から男の声がした。

 振り向くとそこにはコートを着た護が立っていた。

「君はあの怪物に立ち向かえるだけの力を持っていたのに戦わなかった。こうなったのは君のせいだとも言える」

 手を広げ現場の方を示しながら、傾いた帽子の陰から片目だけを覗かせる護。

「違うっ! 俺のせいじゃない! 第一、俺の力じゃあんな怪物倒せやしない!」

「やってもないのによく分かるね。その力は私が授けたものだ。君より詳しいはずなんだが……。それに、そんなに強く否定すると、まるで自覚があるように受け取れてしまうよ?」

「……! か、仮にですよ、仮にヤツを倒せる力を持っていたとしても、それが俺が戦わなきゃならない理由にはならない。俺にそんな義務は無いはずです!」

「そうか。まぁ、戦わずに逃げてしまっても構わないよ。君と同じような人が増え続けても良いのならね」

 護は視線を移す。それに釣られるように理人も視線を移した。

 その先には先程の子供がいた。横たわってピクリとも動かない女性の体をを揺すり、声を上げ泣いている。

 理人はまた拳を強く握り、歯を食いしばった。

「ズルいですよ……あなたは俺の事を、何にも考えてない!」

 理人は声を荒げた。

 周りの野次馬達が理人の方に注意を向ける。

 我に返り周りの状況を確認したのか、冷静になろうと頭を振り、肩を落とした。

「もう俺に構わないでください……」

 そう言うと理人はまた商店街を後にするように走り出した。

 その背中を見つめながら護は呟く。

「自分の世界を良い方へと変えられるのは、自分だけだ」

 その言葉は理人の耳には届かない。


 日が暮れ始めた頃、理人は病院へと戻る道を歩いていた。

 俯き、悩みを抱え、憂鬱としたオーラを放っている様にしか見えない姿勢で歩く。

 芝生で覆われた広い公園の中を通っていると、公園内に立ててあるポール型の時計に目が行った。

(あれから丸三日か……)

 ぼーっと時計を眺めていると子供達が楽しそうに遊ぶ声が耳に入ってきた。

 公園で遊ぶ子供達。遊具で遊ぶ子。鬼ごっこをして遊ぶ子。サッカーをして遊ぶ子。皆楽しそうにしている。

 そんな楽しそう遊子供達の側には、保護者と思われる人達が立ち、子供達を温かい目で見守っている。

 つい先日近所であんな事件が起こったというのに、まるで何事も無かったかのように過ごしている。

(やっぱり他人事か……。でも良いな、こういうの)

 今まで当たり前だと思っていた光景がとても大切に感じられた。

 子供達が楽しそうに笑っている。ただそれだけなのに。

 いつの間にか理人の口元は緩んでいた。

 理人は右手の手の平を見つめ、その手をグッと握り締めた。

「良い顔をしてるだろう?」

「またあなたですか……。もう俺に構わないでくださいって言ったじゃないですか……」

 背後から現れた護を見た後、理人は深くため息をついた。

「戦う理由は何でも良い。自分の為でも他人の為でも。あの子達を護る為でも」

「どうして、そんなに俺を戦わせたがるんですか?」

「君のその力は世界を救えるかも知れないモノだからだよ」

「フッ、世界を救える? ヒーローか何かになったって事ですか?」

 口元を手で隠し、嘲笑うように尋ねる理人。

「いや、その資格を手にしたといったところかな」

 理人を煽るかのように答える護。

「ヒーローというのはね、自分で名乗るものじゃない。気付いたら誰かにそう呼ばれているものだ。君はまだ何もしていないから、そう呼ばれることは無いだろうね」

「構いませんよ。俺だって好きでこんな身体になったんじゃない。ヒーローなんてこっちから願い下げ――」

 視界の端に何かが映った。言葉が詰まり、背筋が寒くなる。

 黒い、黒い塊。

 その姿を確認するため、視線を移す。

 ポール型の時計の上に黒い怪物が立っていた。

 怪物の視線は子供達の方に向けられている。

 発破をかけようと護は理人(りと)に向かい言い放つ。

「また逃げ出す「逃げろ!」

 護の言葉を掻き消すように、理人は咄嗟に叫んでいた。

 そして、声を挙げると同時に、子供達の方へと走り出していた。

 しかし、それよりも速く黒い怪物は翼を広げ滑空し、理人の横を猛スピードで通り過ぎる。

 滑空するその姿はまるで烏の様に見えた。

 一人の母親が、子供を庇うように怪人の方へと向かう。

(駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ!)

 理人の表情が一層険しくなる。

(逃げろよ! 立ち向かうなよ! それじゃ、死ぬだけだぞ!)

 理人の脳裏には三日前の光景が蘇っていた。

 家族を護ろうと立ち向かった父。

 父を護ろうと立ち向かった健人。

 理人を護ろうと立ち向かった母。

 母親の言う事を聞かずに逃げ出さなかった理人自身。

 その記憶は、怪物に立ち向かう事の無意味さを物語る。

 烏の怪物の足の鋭い鉤爪が母親に襲い掛かる。

 母親の胸から血飛沫が舞う。

 その血は周りに居た子供や大人達に飛び散った。

 戦慄し、声を出す事も出来ない大人達。恐怖に圧倒され、泣きじゃくる子供達。

「あぁっ」

 弱々しい声を上げる理人。

 間に合わなかった。護れなかった。

 走る脚から力が抜けていく。

 怪物に畏怖する子供達の姿を見た理人の脳裏には、あの言葉が蘇っていた。

「立ち向かえる力を持っていたのに戦わなかった」

「こうなったのは君のせいだ」

「君と同じような人が増え続けても良いのならね」

 護の言葉が何度も脳内に響く。

「違う、違う違う違う違うっ……!」

 理人は脚を止め、脳内に響く言葉を振り払うかのように頭を振る。

 烏の怪物は次の獲物を狙うため、鋭い爪を立てながら子供の下へと歩み寄った。

 鋭い爪に力が込められ、心臓を貫こうと勢い良く突き出す。

 その爪が女性に届く前に怪物の姿勢がガクッと傾いた。

 全力で駆け込んできた理人が怪物にタックルをかましたのだ。

「全部、全部お前のせいだっ!」

 すかさずマウントを取り、烏の怪物の顔面を思い切り殴る。

「お前のっ、お前のぉっ!」

 怪物の顔を殴り続ける。何度も。何度も。

 その様子を見守る子供達と母親達。その表情は恐怖で引きつっているわけでもなく、ただただ呆然とし、戦いの様子を見つめていただけだった。

 理人が拳を振り上げた隙を見計らい、怪物は理人の脇腹に自らの腕を叩き付け吹き飛ばす。

 烏の怪物はサッと起き上がると漆黒の翼を広げ、勢い良く空へと飛び上がった。

「逃がすかっ!」

 吹き飛ばされた理人は体勢を立て直すと、近くにあったポール型時計を思い切り掴んだ。

 手に力を入れると、ギリギリと音を立てポールが変形する。

 理人はポール型時計を根元から引き千切ると、それを烏の怪物に向かって投げつけた。

 時計は怪物の翼を貫き、怪物を地面に叩き落とした。

 右腕に力を込める理人。どこまでも、どこまでも力が入る様な感覚がした。

「消えろ消えろ消えろ消えろ……」

 ぶつぶつと呟く理人。

 よろめきながらもなんとか立ち上がろうとする怪物。

 そんな怪物に向かって理人は走り出した。

「ここから、いなくなれぇぇぇぇぇ!」

 全身全霊を込めた右ストレートが怪物の腹に直撃する。そのあまりの威力に怪物の腹は吹き飛び、その先の空気までもが吹き飛んだように見えた。

 腹に穴の開いた怪物は膝を着き、地面に倒れ込んだ。怪物の身体から黒い塵が舞い始める。

 肩で息をしながら怪物の姿を見つめる理人。

「逃げ出さなかったね」

 遠巻きに戦いを見ていた護が声を掛けてきた。

 しかし、理人は護を鋭い眼光で睨みつける。頭に血が上っているのか、まるで自分の内面の攻撃的な部分が剥き出しになっているような感覚だった。

「君が救ったんだ、この人達を」

 護が指した方向では、子供達と母親達がいた。緊張の糸が切れたのか、涙を流しながら抱き合っている。

 理人は心を落ち着かせようと深く呼吸をした。

「全員じゃ、ない……」

「十分だよ」

 自分の右手を見つめる理人。

「俺は、一体何なんですか……」

 弱々しい声で問いかける理人。

「その答えは自分で見つけるんだ」

「どうやって……?」

 護は被っていた帽子を取り、胸の辺りに構えながら理人の質問に答える。

「戦え。敵と、自分自身と。戦い続けて答えを見出すんだ」

 一瞬止まった空気の流れを動かすように公園に風が吹く。

「敵とって、まだあんなのが居るって事ですか……?」

「どうかな? ……それより、君は帰るところはあるのかい?」

「えっ」

「まぁいい。取り敢えず、今日は家に来ないか?」

「どうして?」

「君と話がしたいんだ」

「…………」

「どうだい?」

「……分かりました」

 何となく流れで返事をしてしまった。

(本当に、この人は何を考えているのか予想出来ないな)

「直に警察が来るだろう。ここに居ると面倒な事になる。さっさと行こう」

「……はい」

 理人達はうずくまる子供と母親達を横目に公園を去ろうとする。

「あっ、あの……」

「?」

「織部、理人です……」

 突然名乗り始めた理人に困惑する護。

「いや、その……名乗って、いなかったので……」

「そうか。じゃあ行こうか理人くん」

 フッと笑い、護はまた歩み始める。

 その背中を追うように、理人は一歩を踏み出した。

「お母……さ……」

 背後から聞こえたその声は、烏の怪物から発せられていた。

 理人の背筋が凍る。

 間もなく烏の怪物は黒い塵となって消滅した。

「どうした?」

 立ち止まった理人を心配したのか、護が声を掛けてくる。

「い、いえ、何でもないです」

「そうか」

 何も見なかった、何も聞かなかったと自分に言い聞かせながら、理人はまた歩き出した。


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