ある夢の話
目が覚めると浜辺にいた。波が寄せては返していた。空には大きな満月が視界を照らしていた。あんまりにも明るくてランプや松明なんかいらないくらいだ。水面にも月が映り込んでいた。ここにいると、嫌な事なんか無くなってしまうくらいだ。辺りに人もなく静かな場所だ。
ふと、水に自分の素足を入れる。冷たい。キンとする冷たさではなく、心地よい爽やかな冷たさだ。海の中に入っても足首までの深さのまま、どうやらかなり浅い海のようだ。ふいに、私はあの大きな満月へ近づいてみたいと思った。私は一歩ずつ海の中を歩いていった。
進んでも進んでも、周りには海が広がり島影や船の姿、魚影さえも見えない。海鳥が鳴くことも無く、ただ静かに波の音が聞こえるだけだ。空は大きな満月が照らしら星は月光の届かない空を埋める様に散りばめられていた。このまま、あの月までずっと歩いていたい。私はその気持ちのまま、疲れも知らずに海を歩いた。
ふと、ピアノの音が聞こえた。満月の見える方からだ。私ははやる気持ちで海を進む。月が最も大きく見える所まで来た時に、私の視界に入って来たのは、月影に照らされたグランドピアノと、そのピアノを弾く白い影だった。白い影の姿形ははっきり分からず、ただ、ドビュッシーの月の光を弾いていた。
白い影が、ピアノを弾く手を止めた。
「やぁ、どこから来たんだい。」
若い男性の声だった。表情は分からないが穏やかな印象だった。私は浜辺から歩いて来た、と答えた。
「そうか、僕はずっとここにいたんだ。目が覚めたらこのピアノがあって、あんまりにも音が綺麗だから、ずっと弾いてたんだ。」
私は率直に、彼の弾くピアノが綺麗、と思った。それを感じ取ったのか、彼は尋ねる。
「僕のピアノ、気に入ってくれたのかい。」
私は頷く。
「へぇ、嬉しいな。せっかくだからコンサートをしようかな。君がお客さんだね。」
彼はそばにあった安楽椅子に私を座らせると、ピアノを弾き始めた。
安楽椅子は程よくリラックスできる、座り心地のいい物。曲はベートーヴェンのピアノソナタ、月光だ。静かな、厳かな音が辺りを包む。私はそんなにクラシックを聴く性分では無かったが、彼のピアノには聴き入った。さらに言えば、ずっとここにいて聴いていたい、そんな気持ちだった。
ピアノを弾く彼は、穏やかな空気はそのままに、弾く楽しさと真剣さを漂わせていた。先程は1人で気の向くまま弾いていたのを、私という観客がいる事で聴いてもらえる歓びと、舞台の演奏者の姿勢を、音楽と弾く振る舞いで魅せていた。表現するなら、真剣な笑顔、と言えば伝わるだろうか。
演奏が終わり、彼は立って私に一礼した。私は精一杯の拍手で称えた。
「ありがとう。なかなか聴いてもらえる機会が無いから嬉しいな。」
彼はとても嬉しそう笑った。
「僕はもう、自分の演奏を誰かに聴いてもらう事は出来そうに無いからね。」
彼が寂しそうな笑みを浮かべた瞬間、ドキッとした。同時になぜ彼の演奏が聴けなくなるのか気になった。
「聞いてくれるかい?」
私の意思を汲み取ったのか、彼が言った。私は頷いた。
「僕は物心ついた時からピアノが好きで、暇さえあれば弾いていた。子供なのに、国際的な大会にも出れて、トロフィーももらえて。たくさんいろんな人の前で演奏したよ。」
彼はにこにこして語るが、次の瞬間にまた笑顔が寂しくなる。
「けど、ある日具合が悪くなってさ。治らない病気で、余命半年の宣告だった。入院して外出許可が出た時はひたすら弾いてた。家でも観客の前でも。けど、ダメだね。身体が辛くて思った演奏が出来ないことが多くて、辛かった。僕がピアノ弾く意味を初めて考えた。」
ふと、何か確信を掴んだ顔になって、彼は語る。
「僕は見つけた。ありふれてるかもしれないけど、自分の演奏で誰かに喜んで貰えれば、それでいいって。病気と闘いながらピアノを弾く姿に感動してもらえたり、笑顔になってくれたり。そしてその為に演奏の技術を磨く。それが短い命でもピアノを弾く意味、生きる意味だって。長生きしたって、虚しく生きる人はいる。僕は幸せなんだね。短い命の生きる意味を見つけたのだから。」
彼は満面の笑顔で私に言った。彼の後ろから朝日が昇り始めている。
「実は今日、身体が動かなくなって来てるから、もう僕の寿命は終わりかなって思ったんだ。この月明かりの海で弾けて、君という最後の観客が来てくれたから嬉しかったよ。朝日が昇れば、僕はこの世とお別れだ。君の前で弾けて嬉しかった。悔いはないさ。ありがとう。いつか生まれ変わって君にまた会いたいな。」
朝日が姿を見せた瞬間、私の視界は真っ白に変わり、いつものベッドの上にいた。
あの夢の後の昼頃に、近所の斎場で葬式があった。私は彼だと確信した。白い影のピアニストの彼が忘れられなかった私は、いつか彼に会えるかと、満月の度に夜空を見上げるのだった。
ただの思いつきのまま書き並べて見ました。