未来の確率
恋愛を目指して書いたのにどうしてこうなったんだろう。って書き終えた後に思いました。全体的に暗いです。苦手な方はご注意ください。
背景にセミの鳴き声が聞こえる中、太陽が絶え間なく肌を焼いていく。その日差しの中のマンションの、所々ひび割れたあとがある地面の上に俺は立っていた。
俺はそのマンションの屋上で靴を脱いで、気づく。
俺と同じくらいの年の女が、柵の向こうに立っている。
その女は俺に気づくことはなく、ただずっと、遠くのほうを見ていた。
「なあ、やめろよ」
だからそんな言葉を、投げかけてしまった。
突然の言葉に驚いたのか、女はバッと振り返る。
そして表情を驚愕に歪め、次に、なにかに安心したかのような顔つきになった。
「……なんだ、またキミか~」
女は俺の顔を見てそう言った。これで、通算何度目だろうか。少なくともその回数は十回を越えているだろう。
「おまえ、また死ににきたのか」
「当然じゃん、私は生きていたくないんだからさ」
そう言う女は夏だというのに長袖長ズボンという格好で、非常に暑苦しかった。
……まあ、俺も同じような格好ではあるのだが。
同じマンションに住んでいるこの女は、驚くべきことに学校も同じ、クラスも同じという関係だった。
ただし、クラスで話をする事は滅多にない。いや、そんな偶にはあるみたいな言い方は止めよう。……俺とこの女がクラスで話すことなどない。
話す理由がないのだ。席も教室の一番右側の列の一番前と一番左側の列の一番後ろという、まさかの一番距離があく組み合わせだ。しかも俺の学力は普通程度だが、この女の学力はトップレベル。
よって、話をするのはこの場でのみということになる。
「ほら、話せよ。おまえに先を越されるのだけはごめんだ」
「えー? 何で話さなきゃいけないの?」
「……うっせえ」
「ごめんって、話すよ、話すからさ」
こいつはいつも、死ににくる。そして、俺はその原因で死のうとしてることはおかしいと論破して、こいつの死ぬ気を失せさせる。
そんなよくわからない関係性が、俺たちの間には出来上がっていた。
ふと、こいつと初めて会ったときのことを思い出す。
『……運命の人だと思ったの』
そう言う女は泣いていた。
柵の向こう側に立って、俺の方を見ずにそう言っていた。
俺はなんて返したのだろう。あまり、覚えていなかった。
「うん、じゃあ話そうか、私はね、クラスで孤立しているの」
……おい、嘘付け。
俺は心の中でそうつっこむ。この女は確か今日もクラスの女子たちと楽しそうに話していた。
クラスで孤立している人の行動ではない。
だが、こんなことはいつものことだ。
……俺は、最初にこいつと会ったとき以外の話はすべて嘘だと思っていた。なぜならそれは、こいつの話は時々矛盾していたりするからだ。
今まで、同じ死ぬ理由を話したことはないが、その話はずいぶんとごちゃごちゃで、無理があるものが多かった。やれものをなくしただの、そんな感じのことだ。今日はまだましな方だろう。
女は柵の向こう側で俺の答えを待っている。
その顔はニコニコしていて、それが少しイラついた。
「……たとえだ。……たとえお前がクラスで孤立していたとしても、どうせ家では親が暖かいご飯作って待ってるんだろ?」
目を合わせることなく、俺はそう言う。なぜ目を見れなかったのかはわからない。ただ、イラついた理由がわからなくて、それがなぜか恥ずかしかった。
沈黙がマンションの屋上に満ちて、俺は地面を見つめながら風の音を聞く。
俺は答えを返したはずで、まあ、普通の人なら納得できる理由だったと自分では思うのだが。
……なぜか、声が返ってこない。
いつもならすぐ「そうだね」とか言ってくるはずだ。自然と、俺の目はあの女の顔に向く。
――女の顔は、いたっていつも通りだった。
そう、いつも通り、バカみたいにニコニコして、その顔は今から死のうとしているようなものじゃない。生きていたくないとそんなことをのたまうような顔ではない。
……だが、なぜか違うと感じた。
「……おい」
それにどこか危うさを感じて、つい声をかけてしまう。
「……え? あ、ごめん。そうだね。うん、少し、おなかすいたかもしれない」
少しだけ、その目には涙が浮かんでいるような気がした。気がしただけで、実際は違う。涙などこれっぽっちも流れていない。
「……今日は帰ることにするよ」
柵を乗り越えて、こちら側に来る女。
――ほっとした。なぜかはわからないが、確かにほっとした。
「……あ、ああ」
俺の答えも聞かず、俺の横をすり抜けて女は歩いていく。カツカツという音が、後ろから聞こえていた。
後ろで扉が閉まる音がして、俺は改めて靴を脱ぐ。そして、その柵の向こう側に立った。
マンションに当たった風が吹き上がり、俺の頬を撫でていく。柵を掴んでいるこの手を放せば、今にも俺はその景色の先に落ちていくことができるだろう。
空から太陽が照らし、俺はその空を見上げる。どこまでも青い夏の空がそこにはあって、その明るさがまぶしかった。
「……チッ」
柵をもう一度飛び越し、内側へ。
俺は靴を履いて、マンションの中に戻った。
自分の家の前で、俺は立ち止まっていた。そんなことをしてしまう自分に、嫌気がさす。
「……くそっ」
吐き捨てるようにそうつぶやいて、俺はその家の中に入った。
途端に鼻を刺激するアルコールの臭い。目線の先には空き缶が転がっている。今日も今日とて、なにも変わらない。
「……おい、どこいってたんだよてめえはよお」
ゆらりと、視線の先で立ち上がる影。暗い部屋の中で飲みっぱなしの俺の父親。大っ嫌いな俺の父親。どこまで願っても変わらない現実の塊。
「……どこでもいいだろうが」
「……あ?」
聞こえないようにつぶやいたつもりだったが、どうやら聞こえてしまったようだった。
酔っ払いの癖に。……そんな思いが、俺の中を巡る。
見上げた巨体が、俺の胸ぐらを掴んだ。
「……おまえはなあ」
ズルズルと、俺の体は引きずられていく。抵抗はしない。そんなことは無意味だと理解している。それは、事態を長引かせる行為だ。
瞬く間に玄関から部屋の中に引きずられ、そこで、俺は持ち上げられた。
俺だって背が低い訳じゃない。なのに、こいつはそれをゆうに越してくる。
……化け物が。心からそう思った。
不意に、手を離され、俺は床に崩れ落ちる。
「……が……げほっ」
持ち上げられたことによる息苦しさから解放されても、まだなにも終わらない。
瞬間、俺の横から衝撃が襲った。
声も出ず、床を転がる。背中を壁に打ちつけ、そこでようやく肺から空気が外に出た。
「……てめえはよお、逆らってんじゃねえの」
ぎしっという音と共にあいつが近づいてくるのがわかった。痛みに構える。
肺から強制的に空気を抜かれ、また俺は床に転がった。
今回はそれだけで満足したのか、あいつはもう、俺を殴ることはなかった。
……くそったれが。
心の中だけでそうつぶやいて、俺はただ自分の無力に嘆いた。
「……チッ」
今日何度目かの舌打ちをしながら、俺はシャワーを浴びていた。鏡に映る自分の姿はひどく醜悪に見える。所々があざだらけ、傷だらけのそんな体に、お湯がよく染みた。
シャワーだけ浴びた俺は、倒れ込むように床に転がって、アルコールの臭いがする中、ただひたすらに眠った。
*
一週間後、その日は雨だった。俺はいつも通り、屋上に向かう。あいつは寝ていて、特になにもなく外に出ることができた。
屋上は雨に濡れ、いつもは明るいこの場所も、今日は暗い。夏特有のじめじめした空気に、少しだけイライラする。
傘も差さずに屋上に出ると、当然雨が服を濡らしていく。なんだかそれが、心地よかった。
靴を脱ぐ事もなく、今度はそれに気づいた。いつもは下を向いて歩いている俺が、今日という日に限って前を向いていたからだろう。雨が降っていたから、俺はそれを下を向いて避けることをしたくなかったのだと思う。
柵の向こう側ではなく、柵の近くにその姿はあった。赤色のボロい傘がその存在感を際だたせている。
屋上に多数存在している水溜まりを俺が踏みつけた時だった。
傘が揺れ、その女が振り返る。
雨の音の中、俺は聞こえるように少し大きな声で言った。
「お前、また死ににきたのか」
「当然じゃん、私は生きていたくないんだからさ」
今にも壊れそうな笑顔だった。いつもと違う、そんなことはわかっていた。
そもそも、こいつと会うこの時に、雨が降ったことはない。不思議と毎回、驚くほど晴れる。それが今日みたいな梅雨であったとしても。
「ほら、話せよ。おまえに先を越されるのだけはごめんだ」
いつもは渋るはずだった。「えー?」とか言って、「何ではなさなきゃいけないの?」とか言って、バカみたいなあの笑顔を見せるはずだった。
「……うん」
素直に女は頷いて、その顔を真下に向ける。声は力無く、何でこの雨の中俺に届いたのかわからないほどだった。
……やめてくれ。
頭の中で、誰かがそう言った。相も変わらず長袖長ズボンの俺は、体が重く感じてくる。それが、服が雨を吸い込んだだけだと、そう信じたかった。
思い出すのは、最初の事。
『……運命の人だと思ったの』
その言葉に、俺はなにも言わなかった。内心フザケンナと思っていた。だが、なにも言わなかった。
黙って話を聞いて、ただそれだけで、女は帰って行った。
『話したら楽になった』
そう一言だけ残して、俺の横を去っていった。
そう、そうだった。はじめ俺は、何も言ってなどいなかった。
本当に興味などなかった。ただ、落ちるなら落ちるで、好きにしてくれと思っていた。ただ、その場所を明け渡してほしかっただけだった。その、柵の向こう側から消えてくれと、そう思っていたんだ。
「私はね……」
雨の中、死ぬ理由を話し始める女。弱々しい声が、雨を切り裂いて響く。
そんな声が、俺を回想から引き戻した。
見ると、やはり今日も女は俺と同じ格好だった。
「……私は、家に帰るたびに増え続けるあざを、もう増やさない為にここにきたの」
赤い傘が震えている。その持ち手が、強く握られていることに気付く。
――わかっていたはずだ。
この女の答えなど、わかっていたはずだ。
理由など、とっくの昔に、知っていただろうに。
ヒントはいくらでもあって、俺はそれを見ないようにしていた。
「私はっ……! 生きたくないからっ、ここにきたのっ……!」
雨の音はもう聞こえなかった。聞いている暇がなかった。ただ、指向性の強いその言葉だけが、鼓膜に響く。
「……怖い、怖いよ。あの目が、あの声が、私を傷つけるあの手が……!」
ぐちゃぐちゃだった。もはや笑顔など存在しなかった。そこにはなにもなかった。明るい光など、どこにも存在していなかった。
「……あの時、一週間前のあの時、あなたは言った。私はそんなことにはならないの。私は家に帰っても、温かいご飯なんて、待ってないのっ……!」
……ああ、キッカケはそれだったのか。この告白のキッカケは、俺の言葉だったのか。
この現状は、俺が引き寄せたのか。
不思議と、そう思うだけで、他にはなにも思わなかった。
「……怖いよ、怖いよ、ねえ! お父さんの目は、最近気持ち悪い。なめ回すような、そんな目だった。嫌だ……、嫌だよ……。助けてよ……」
女は肩を抱いて、その声は徐々に雨に飲まれていく。
……しまいには、少しも聞こえなくなった。
最後の助けてという言葉だけが、耳にこびりついていた。
……ドクンと、心臓が波打つのを感じた。
胸の奥で、制御しようもないものが溢れ出してくるのを感じた。
……やめてくれ。
また誰かの声が聞こえて。その矛先が女なのか、それとも自分なのか、わからなくなって。
遂には、視界が歪んでいた。
「……うるせえ」
ずいぶんと遠くから声が聞こえた。
歪む視界の中で、女の目が見開かれたのが見えた。……それで、その声が自分の物だと理解した。
「……うるせえよ」
思ってもいない言葉だった。……思ってもいないと、そう思っていた言葉だった。
ただ苦しくて、女を見ているとつらくて、胸が強く締め付けられた。
「うるせえんだよっ……!」
ナイフを突き刺した。その、言葉という鋭利なナイフで突き刺した。
俺はナイフなど持っていないつもりだった。だからきっと、今生まれたのだろう。
自分の言葉でありながら、その声のあまりの鋭さに背筋が凍った。
――女は、見開いた目を静かに閉じて、下を向く。
俺は頭が真っ白になって、何も言うことは出来なかった。
女はその赤い傘を強く握って、そのまま俺に投げつける。
俺は動くことができず、迫る赤に目を閉じた。風が、一段と強く吹いた。
頭が動き始めるのに、多少の時間を要した。いつの間にか雨は弱まり、雨音は優しいものへと切り替わっていた。だが、やはり日が射すことはない。
気がつくと目の前から女は消えていて、視界の端にちらりと赤が見えた。
目を向けると、そこにはあのボロボロの傘が転がっている。ひらかれたまま投げられたそれは、風にあおられて俺に当たることはなかったのだろう。
赤い傘は柵に引っかかり、小雨がそれに降り注いでいた。
「……ぁぁあああっ!」
顔を空に向けて叫ぶ。胸の奥の何かが気持ち悪くて、それを吐き出したかった。
「……ぁあ! あああ! ぁあ゛!」
何度叫んでも、その何かは消え去ってくれることはなくて。
「ああああああぁぁ……」
のどが痛くなって、すぐに俺は声を上げるのをやめた。
雨が、口の中に入り込んできていた。空は、黒い雲に覆われている。その向こうには太陽があるはずで、確かに照らしているはずなのに、光が届くことはない。
当然だ。あの雲は、俺がどうこうできるものではない。……そんなことはわかっていても、それを受け入れたくない自分がいた。
家に帰ると、あいつは寝ていた。相変わらずアルコールの臭いが部屋を覆い、転がっている空き缶はその数を増やしている。
変えられない事実は、確かに存在する。それこそ腐るほどに、存在している。
だから俺は死のうと思って、あの場所に足を運んだのだ。
自殺者は、別に死にたいから死ぬ訳じゃない。生きているのがつらいから、仕方なく死を選ぶのだ。
死ぬ理由など、生きたくないとそれだけで十分な筈なのだ。
……なら、俺は死ねるはずだ。あの柵の向こう側で手を離せるはずだ。
事実、俺はあの場所で恐怖を感じなかった。きっと手は離せたし、なんの障害もなく落ちていくことができた。
――ならばなぜ、俺は手を離さなかったのか。
考えても答えは出ない。たぶんこれは心の問題で、答えなんてないのだろう。
理由なんて、なんとなくでいいのだと思った。
外から雨の音は聞こえなかった。あの小雨も止んだのだろう。俺は靴を履いて、扉から外に飛び出した。
*
俺は、赤いボロボロの傘を手に持って、あの女の家の前に立っていた。
不思議なことに傘は風に飛ばされることはなかったようで、屋上にまだ転がっていた。俺はそれを持って、ここにきたのだった。
俺は生きていたくはない。
それはきっと、死にたいとイコールではないが、それでも、結果的に死ぬことになるだろう。
どうせ死ぬことになるのなら、最期くらい抵抗してみてもいいだろうと思った。あの女には、俺に助けてと言ったことを後悔させてやろうと思った。
あの女はきっと、助けてくれると期待しているわけではないのだ。ただつらくて、それを吐き出したかっただけだ。慰めでも欲しかったのだろう。
どうにもできない現状を知っていて、それを吐き出す相手が俺しかいなかっただけだ。
そう思うことにした。真実なんてわからない。言葉だけで全てが伝わるなら、きっと世界はもう変わっている。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れ出てきた。辺りに人の気配はなく、俺の笑い声だけが響いた。
「……っ、………や……っ! ……てっ!」
すると、声が聞こえてきて――。
……俺はその扉に向かって、赤い傘を振りかざした。
バンっという音と共に声が途切れる。傘は折れ曲がり、ボロボロだった傘は遂に寿命を終えたようだった。
「まだ、やれるだろ?」
そう、何かに声をかけて、俺は折れ曲がった赤い傘を握りしめる。……視界の隅に、窓が見えた。
鉄格子のようなものがその窓を守っているものの、その隙間はそこまで狭くはない。
俺は目の前の扉の鍵など持っていない。だから、その扉は内側から開けられる必要があった。
ならば、簡単だ。この扉の先にいるクソヤロウに扉を開けさせればいい。窓でも割れば、きっと俺を止めにくるだろうから。
俺は標的を窓に定め、その折れ曲がった傘を突き立てる。
ガギッと音がするが、その窓が割れることはなかった。
それでも、手を止める理由にはならない。
ガギッ、ガリッ、ガッ。
等間隔に響く音に、目の前の扉の先はおろか、周りの扉からも反応はなかった。
それが、何分続いただろうか。
まるで今目が覚めたかのように、突然ドタドタと慌ただしい音が聞こえた。
そして、待ちに待ったその音が俺の耳に届いた。
――ガチャリ。
俺は音の方向に視線を動かす。
「――君! 何やってるんだ!」
目に映るのはひょろりとした体型の、めがねをかけた男。そして、開け放たれた扉は最初に一撃を加えたその扉だった。
ニヤリと自分の口角がつり上がるのがわかった。
もう一度、手を握りしめる。そこには、あの傘の確かな感触があった。
「――うああああ!」
その男に向かって傘を叩きつける。手加減などしない。死んでもかまわない。ただ最低でも、意識は奪ってやる。
突然の俺の行動に男は反応することはできなかった。
「うわあっ」
ずいぶんと間抜けな声だ。人を傷つけておきながら、自分が傷つくのはいやなのか。
「――死ねぇ!」
なぜかはわからない。ただ確かに、死んでほしいという思いを叫んでいた。
……暴れまわる自分の中に、それをどこか客観的にみている自分がいた。
あぁ、歪んでいる。この考えも、この行動も、驚くほどに歪んでいる。ひどく曖昧な理由と、どうしようない自己満足。こんな状態で動いて、後でどうするつもりだ。
そうそいつはつぶやいて、かききえる。
俺はまだ、未来を考えているのか。
瞬間ガツンという音と共に、感触が返ってくる。およそ人を殴った音ではなかった。まるで先ほどの窓や、扉のようで、現実味はどこにもなかった。
俺は倒れ込む男の横を走り抜けて扉へ駆け込む。
靴を脱ぐこともせずに、その中に押し入った。扉を片っ端から開けていく。
混乱した頭の中で、俺はあの女の姿を探し続けていた。
三つ目の扉。おそらくトイレや風呂ではなく生活空間に通じるであろうその扉を開ける。
もうほかは全て開け放っていた。ほかの扉の先にあの女はおらず、それはつまりこの先にいるという事実を示していた。
開け放った扉の先、何かが争ったようなあとがあり、そこには女はいなかった。
あの女はいない。そんな事実に頭をぶん殴られたような衝撃が俺を襲った。
散乱する物は、確かに誰かと誰かがここで争った事を伝えている。片方はおそらくあの男で、もう片方は十中八九あの女だと思った。……そう思うのに、女はいない。
少しずつ落ち着いてきた頭が、現状の分析を始めた。
散らばった物はたくさんある。テレビのリモコン。教科書。そして、服。
その服は、どこかで見たことがあるものだ。あの女がたびたび着ていた服。それと同じもののように思えた。
俺は、それを手に取る。
――その時だった。ガタッという音が後ろから聞こえた。
咄嗟に振り返るが、そこには誰もいない。
耳を澄ましても、もう音は聞こえなかった。
少し玄関を覗くがあのひょろりとした男が起き上がったわけでは無さそうだ。
では、今の音は……。
全ての扉は開け放ったし、そこには誰もいなかった。
聞き間違いだろうかと視線を元に戻そうとしたとき、それは視界の隅にうつった。
押し入れ。その扉は閉じられており、俺はあけた覚えがなかった。
つまり、確認していない場所。
見つけた。そう心の中で呟いた。
そこにいると決まったわけではない。だが、俺には確かな確信があった。
何の根拠もない。ただの思いこみでしかない。それでも、確かに自分勝手な確信がそこにはあった。
俺は手に持った服を戻すことも忘れ、その押し入れに近づく。
……カタンと、もう一度音がした。
木と木が擦れる音が部屋に広がる。
「君……!」
俺が開けた押し入れの扉の先。確かにそこに、上半身下着姿のあの女がいた。
俺は無言で手に持っていた服を投げつける。女は目を見開いていた。
「……逃げるぞ」
そして、いつの間にか俺はそう口にしていて、そのまま女の手を取って走り出していた。
「――ちょっと待って、待ってよ!」
そんな声が後ろから聞こえた気がしたが、俺はその言葉を理解しなかった。
玄関に出て、あの男の横を通り過ぎる。
「……待て、クソガキ……!」
俺はその言葉に反応して振り返った。
――殺せ。
そんな感情が流れ込んでくる。左手にはまだ、赤い傘の感触があった。
男は言葉は発したものの、まだ動けない様子だ。殺すのは、アリを潰すように簡単なことに思えた。
俺はあの女の手から右手を離し、両手でその役目を終えた傘を握りしめる。本来の役目以外で寿命を終えた傘。その姿を見て、俺は少しだけ罪悪感を覚えた。
傘を大きく振り上げる。傘の赤が視界から消え去り、次の瞬間には傘とは違う別の赤が視界に加わるかに思えた。
依然として辺りは静寂が包み込んでいて、男の表情が感情としてダイレクトに伝わってくる。
音が無ければ、人はこんなに時を長く感じるのだろうか。それとも、こんな状況だったからだろうか。
不思議と人を殺すことに抵抗はなかった。
「――っ!」
力を込めて、俺はその傘を振り下ろす――
「――だめぇ!」
女の絶叫がこだまして、俺は首を後ろに引っ張られた。バランスが崩れ、傘はあらぬ方向にぶち当たる。カーンと甲高い音がして、それで傘が手すりにぶつかったのだとわかった。
俺は尻餅をついて、自らを引っ張った存在を見つめる。
……女は、何ともいえない表情をしていた。
歯を食いしばり、目からは涙が溢れ、手は強く握られている。それと同時に困惑も垣間見え、感情を読みとることはできない。
なのに、そのはずなのに、わかってしまった。なんとなく、その時の感情が理解できてしまった。
ギリッという音が頭の後ろの方から聞こえた。いつの間にか俺の手は強く握られていて、握っている手そのものが痛いくらいだった。
そのことに気づいた俺は手の力を弱める。
そしてもう一度、女の手を取った。
それから先はよく覚えていない。
走り出して、街を駆け巡って、いつの間にか俺たちは電車の中にいた。
空に浮かぶ雲はいつの間にかその数を減らし、夕日のオレンジが眩しいくらいに目に突き刺さる。
望んでいた筈の光が、じんわりと痛みを広げていく。
俺たちの間には人一人分とまではいかないが、確かな距離があった。
周りに誰もいない電車の中、前を見たまま突然女が声を発する。
「――私たち、これからどうなると思う?」
すぐに答えることはできなかった。そんな俺の答えを待つことなく、女は続ける。
「私は思うんだよね。未来が幸せか不幸せなら、幸せになる確率は二分の一……」
多少の沈黙があって、女は俺のほうを向いた。
「……ねえ、十分分のある賭けだと思わない?」
笑顔だった。だが、俺が見たその顔は空元気という言葉がよく似合っていた。
……聡明なこいつのことだから、わかっているはずだ。クラスでトップレベルの学力を持つこの女なら、わかっているはずだ。
確立なんてものはそこまで単純じゃない。きっと不幸になる確率の方が高いし、幸せになる確率なんて、もしかしたら少しもないのかもしれない。
それでも、女は言ったのだ。分のある賭けだと、そう言ったのだ。
……ならば、俺は信じよう。未来はきっと幸せになる。世界は光に満ちあふれている。
「……そうだな」
俺はそう答えて、その言葉にもう一度女は笑った。
……やっぱり歪んでいる。
これで俺は死ねないだろう。理由ができてしまったから。自分のやったことには責任を持たなければならないから。父親のようになるわけにはいかないから。
雨が建物を濡らし、それを夕焼けが綺麗に見せている。
――たとえどんな世界でも、俺は生きていかなければならない、そう思った。