1.
「何故だっ。何故……」
純白の花嫁衣裳を身に纏った、この世の者とも思えないほど美しい女性の前に膝を着き、傷だらけの手で縋ろうとする精悍な若者。その若者を花嫁から引き離そうと割って入る花婿。
絶望と怒りで顔を歪める若者は、今にも倒れそうなほど青ざめた顔で唇を戦慄かせている花嫁を見て、その場に手を着いた。
「カイル……」
祝福に包まれた幸せな場を、一瞬で修羅場に変えた彼をこのまま放置している訳にはいかず、強張った表情で立ち尽くしている列席者を掻き分けて進み出ると、身も心もボロボロになった若者の肩を抱く。
「……ルー?」
掠れた声で名を呼ばれて顔を上げると、花婿が呆然とした表情でこちらを見下ろしていた。
「お久しぶりです、ウォルティス様。……本日は、誠におめでとうございます」
込み上げてくる苦いものを飲み込みながら、自然と歪む表情を見られないように咄嗟に頭を下げる。そうしてそのまま、唇が触れそうな位置にあるカイルの耳元で囁いた。
「ほら、行くわよ」
「……嫌だ」
絞り出すような声で子供の様な我儘を言い、促しても動こうとしないカイルの耳に、私は心を鬼にして彼を更に追い詰める言葉を囁いた。
「もうお二人は、神に誓いを立ててしまったの。もう手遅れなのよ」
その言葉に呻き声を上げたカイルは、もう精神的にも肉体的にも限界に達してしまったのだろう。崩れ落ちる彼の大きな身体を受け止め切れず、共に床に倒れ込んだ私の目からも涙が溢れた。
可哀想なカイル。あんなに恋い焦がれていたのに。何度死の淵に立たされても、只一人の愛しい人を手に入れる為にもがき続けて、やっとその人を手に入れる権利を手にしたというのに。
私はあなたのそんな姿を、一番近くで見てきた。だから、あなたが愛しいエリス様と結ばれる日を心待ちにしてきた。例え、その日が私にとって人生最悪の日になろうとも。
でも、その日はもう、決してやってこない。何故なら、エリス様は他の男性と結婚してしまったのだから。今日、ほんの僅か遅かったばかりに、二人は神の前で結婚の誓いを交わしてしまった。
けれど、愛するカイルの帰りを待たずに他の男と結婚するなんて、とエリス様を責めることなんてできない。
何故なら、私とカイルは知らぬ間に、三年という時を跨いでしまっていたのだから。
片田舎の領主の館を守る警備兵の息子として生まれたカイルが、領主の娘であるエリス様と結ばれる為には、身分の差を覆すような功績を上げる必要があった。
カイルが十三で騎士団の平民枠に挑んだ理由を私は知っている。騎士となって平民から騎士階級となり、更に騎士団でも出世して隊長クラスになれば、領主の娘とも身分が釣り合うようになる。その可能性に、カイルは賭けたのだ。
現状で満足していれば、護衛として常にエリス様の傍にいられる。けれど、それではエリス様がいずれ他の誰かと結ばれるのを、指を咥えて見ているしかない。
それを良しとせず、努力し続ける一つ年上のカイルのことを、いつしか私は好きになっていた。決して私を振り返ることがないと分かっていても、進み続ける彼の雄々しい背中を見つめているだけで幸せだった。
折しも、大陸の中央ある魔の森に百年にも渡って潜んでいたという魔法使いが、禁忌の法を使って魔界の扉を開き、魔物を操って自ら魔王を名乗り、あっという間に周辺諸国を支配下に置いてしまった。
魔物の襲撃は食い止められても、魔界の扉から漏れる瘴気のせいで、どんなに屈強な兵士でも魔王を名乗る魔法使いがいる魔の森へ近づくことはできない。各国はこぞって神の加護を受ける勇者や聖戦士達を派遣した。
私とカイルもそのうちの二人だった。
私は、エリス様の父上が治める片田舎の地にやってきた旅の夫婦が、泊まった宿屋の部屋に置き去りにしていった赤ん坊だった。哀れに思った宿屋の老夫婦が孫だと思って育ててくれたお蔭で今がある。
領主の娘ながら、活発で街に下りてきては平民の私達と遊んでいたエリス様は、私の珍しい薄菫色の髪や、興奮すると血の色になる琥珀色の瞳をお気に召したのか、特に目を掛けてくださった。余所者な上、自分でも気味の悪い特徴を、もしかしたら高い魔力を持っているせいなのかも知れないと教えてくれたのもエリス様だった。
老夫婦が営む宿屋を手伝いながら、時折やってくるエリス様と、彼女を守る為常に傍に寄り添っているカイルと、それから数人の街の子供達と遊ぶ時間はとても楽しかった。
けれど、やがて十三歳になったエリス様が王都にある貴族達の通う『学園』に入学してしまい、その後を追うようにカイルが騎士団に入隊してしまうと、一緒に遊んでいた街の子供たちは途端に私の傍からいなくなってしまった。
……私も王都へ行きたい。
そう思いながらも、年老いた育ての親である夫婦のことを考えるととても言い出せなかったし、王都へ行ったところで私の居場所などない。王都で一人身を立てるとしたら、住み込みで働くしかない。けれど、それならエリス様やカイルに会えない今の暮らしと何も変わらない。
転機が訪れたのは、それから半年後のことだった。
階段から落ちた後、足腰がすっかり弱ってまともに歩くことができなくなった育ての母を助ける為、夫婦の本当の娘が夫と共に別の土地から移り住んできた。当然、私はこれまでより更に肩身の狭い思いをするようになった。
そんな時、エリス様の父上である領主様から突然領主の館へ呼び出された。それは、『学園』の分校として開校された『魔法学校』に生徒として推薦するという、思ってもみない話だった。
魔法の素質を持っている人はそう多くはない。もし仮にこの地から高名な魔法使いを輩出することができれば、領主としての箔がつく。けれど、例えどんな理由で領主様が私を推薦しようとしているとしても、王都へ行き、金銭的な面を気にせず生活できることは私にとって願っても無いことだった。
王都で、私はカイルと再会した。
魔法学校は、本校である『学園』とは離れた位置にあった。貴族の子弟が通う学び舎と、主に平民が通う魔法学校が同じ敷地内に設けられる訳がない。
その代わり、魔法学校は騎士団の訓練所と程近い場所にあった。ただ単に、新たな校舎を建てるのに適した空き地が騎士団の訓練所の隣にあったというだけの理由だった。
何の連絡も取り合っていなかったので、カイルは私が王都にいるなんて夢にも思っていなかったのだろう。校舎の裏庭の奥にある高い塀に足場を置いて、もしかしたらカイルの姿を見られるかも知れないと騎士団の訓練の様子を眺めていた私に気付いて駆け寄ってきた時の、驚いた彼の表情を思い出すだけで今でも胸が切ないくらいにドキドキする。
「隣にできた魔法学校から、いつも可愛い子がこっちを覗いていると噂に聞いていたんだけれど、まさかルーだったとは」
爽やかな笑顔でそう言われた時は、幸せの余り足場から落ちそうになってしまった。可愛い子だなんて、騎士団は余程女の子に飢えているんだ。
それから、私達は時々、時間を合わせては会って話すようになった。
田舎を出て一人騎士団で訓練に励むカイルは、よほど寂しかったらしい。田舎にいた時にはほとんど会話を交わすこともなかったのに、カイルは楽しそうにいろんな話をしてくれた。
彼によると、学園に入学したエリス様は、片田舎の下級貴族でありながら、その愛くるしい美貌と明るい性格で、上級貴族の方々からも気に入られているという。そう語るカイルは誇らしげながら、焦りも感じているようだった。
女性の結婚適齢期は早い。カイルが出世するより早く、エリス様が誰かと結婚してしまう可能性の方が高い。
それでも、彼が騎士団で出世する道を選んだのは、彼がエリス様の気持ちをすでに確かめているからだった。
二人は、私が出会うずっと前から小さな愛を育て、深く深く愛し合っていた。だからこそ、私は二人を応援したかった。例え、胸の奥に抱いた恋心を、壊死するまで抱え込むことになろうとも。
大陸で勢力を拡大する魔王を討ち取る為、各国は軍を派遣するのとは別に、魔の森に満ちる瘴気を突破して魔王を討ち取る『勇者』や『聖戦士』を探し始めた。
ある国では、長年神殿に眠っていたという聖剣を抜くことができた者を勇者に指名し、またある国では伝説に従って異世界から勇者召喚の儀式を行ったという。
その中で、我が国では騎士団の若手、そして魔法使いから最も優れた者に神の祝福を授け、瘴気を祓うという神器を与えて魔の森へ向かわせるという方針が出された。
志願した候補者による勝ち抜き戦の結果、騎士からは優勝したカイルが選出された。
そうなれば、私も必死だった。生きて帰って来られるか分からない旅へ、彼と運命を共にする役割を、他の魔法使いに託すだなんて出来ない。
昔、エリス様に指摘されたことは正しかった。私は、魔法学校でも突出した魔力を有していて、教師や宮廷魔法使いからも将来を期待されるほどの実力を持っていた。おまけに、いずれ騎士団で要職に就くであろうカイルの役に立つべく、出世しようと努力を怠らなかった。お蔭で、難なくカイルの相棒の座を手に入れることができた。
神殿で顔を合わせた時、カイルは嬉しそうに笑ってくれた。ルーが相棒で良かった、と。
自分でも意外だった。その言葉を、素直に喜ぶことができなかったなんて。
生死を掛けて挑む任務の相棒として認められたということは、彼に信頼されているということだ。それは、本来ならとても喜ばしいことだった。
けれど、きっと男性なら、大切な女を死地には向かわせたくないはずだ。国に残って、安全な場所で暮らしてほしいと願うのが本当だろう。つまり、彼にとって私は、信頼に足る相手ではあっても、命を掛けても守りたい存在ではないということだった。
そして、彼は旅立つ前、国王陛下に願い出た。もし、魔王を倒すことができたら、その時はエリス様との結婚を認めて欲しいと。国王陛下はそれを認め、カイルとエリス様は居並ぶ人々の前で熱い抱擁を交わした。
その時、ついでのように私の願いも問われたけれど、何も答えることができなかった。
何故なら、私の望みはカイルだったから。けれど、二人揃って生きて戻れば、カイルはエリス様と結ばれる。どうせ、私の本当の望みは叶わないのだ。
そうして二人で旅に出て、他所の国から派遣された軍や勇者達と合流したり別れたり、厳しい旅が続いた。もう駄目だと思ったことも一度や二度ではなかった。
そんな中で、生きる希望はただ一つ、カイルの存在だけだった。彼を助ける為には、私は生きていなければならない。彼の為に、もっと強く、常にベストを尽くせる存在でいなければならない。
そして、挫けそうになる彼を鼓舞する為に、私は嫌でもエリス様の存在をちらつかさなければならなかった。エリス様と結ばれる為には、魔王を倒して生きて帰らなければならないのだと、時には頬を叩いて涙ながらに訴えなければならなかった。それほど、旅は過酷を極めた。
「……エリス様の為」
いつしか、私達はその言葉の元に心を一つにしていた。
それは、魔王を倒して帰れば、とてつもなく幸せな日々が待っているという幻想を私達に抱かせた。その未来を手に入れる為に、私達は前へ進み続けた。途中で脱落していく勇者達や、先に倒れた聖戦士達の屍を踏み越えながら。
魔界の力を手にした魔王は、驚くほど強い魔力を持っていた。共に魔王の下へと辿り着いた他国の勇者達が倒れていく中、私達は先に魔界の扉を閉める手立てを探した。
魔王城の奥で魔界の扉を制御しているらしき水晶玉をカイルが砕いた時、城全体が地響きを立てて揺らいだ。城内の空気が荒れ狂い、魔界の扉が周囲のものを吸い込みながら閉じていく。
それに気付いた魔王が、私達の目の前に瞬間移動してきた。もはや元人間だったとは思えない形相で凄まじい魔法を放つ魔王を前に、私達はあっという間に半死半生となった。
……あともう少しだったのに。
もう少しで、カイルの願いが叶えられたのに。
傍らでピクリとも動かない血塗れのカイルに手を伸ばす。彼の温かな血のぬるりとした感触に、ゾワッと全身の肌が粟立った。
カイルが死んでしまう……!
その時、私の中で何かが弾けた。
もう私達が死んでしまったものと、こちらに背を向け、閉じようとしている魔界の扉を再度開こうとしている魔王の背に、私は拾い上げたカイルの剣を突き刺した。
渾身の魔力を込めた剣は、突き刺さったところから青白い火を噴いた。そのまま、魔王は魔界の扉の隙間に吸い込まれ、それを待っていたかのように、直後扉は音を立てて閉じた。
沈黙が流れ、力尽きた私はそのまま床に崩れ落ちて気を失った。
優しく頬を撫でる感触に目を開けると、カイルが壊れそうな笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
二人ともボロボロで、生きているのが不思議なくらい大怪我を負っていたけれど、周囲の瘴気が晴れ、魔王を倒したという現実を認識し、私達は穏やかな空気に浸っていた。
「……帰らないと」
カイルは荷物を漁り、体力を回復する神器を取り出して使った。怪我は治らないけれど、それでようやく私達は歩けるようになった。
城内を歩き回っても、あれだけうようよいた魔物はすっかりいなくなっていた。壊れかけた窓の隙間から差し込む陽は明るく、瘴気はその気配もなかった。
城内で生き残りを探し、数人の勇者や聖戦士と合流した。彼らと共に城外へ出、魔物がすっかりいなくなった魔の森を抜けると、不思議なことに私達を援護するべく森を囲んでいた各国の軍は一人残らず姿を消していた。
その時、何かがおかしいと思った。
少し進んだところに、砦の跡地があった。私達が魔の森を攻略するにあたって拠点にしていたところだ。そこにいるはずだった各国の軍もいなくなっていて、砦の周辺にはそれまでなかった畑が広がっていた。
そこで農作業をしていた農夫たちが驚いて駆け寄ってきた。
そして、そこで私達は衝撃の事実を知らされた。
瘴気が晴れ、魔物が姿を消してから、もう三年になるのだと。
農夫たちに助けられ、近くの村へ運ばれた私達は、応急処置を受けた。この付近は魔王によって壊滅的な被害を受けていて、最近ようやく入植者が開拓を始めたばかりの荒地続きで、街までは相当な距離があるのだという。
一刻も早く祖国に帰りたいのは山々だ。けれど、体力を回復する神器を使って何とか命を繋いでいるものの、重傷を負った他の勇者達を、医者も薬さえないこの村に放置しておくことはできなかった。
ここから一番近い街まで、農夫たちの力を借りて移動する。私達の身の上を知った農夫たちは同情してくれ、荷車や耕作用の馬も惜しげもなく提供してくれた。
街へ着いて、そこで他の勇者達と別れた。彼らは回復し次第、祖国へ戻るという。
カイルと私は、その街に腰を落ち着けることなく、馬と旅に必要なものを手に入れて出発した。
せっかく魔王を倒したのに、それから知らぬ間に三年が経っていただなんて思ってもみなかった。水晶玉を砕いた時なのか、それとも魔界の扉が閉じた時なのか。何らかの原因で、魔王城の内と外で空間がねじ曲がり、私達城内にいた者だけが三年後の世界に飛ばされてしまったようだ。
私達が祖国を旅立った時、カイルは十八歳だった。魔王を倒した時には、十九になっていた。それから三年が経ったということは、カイルと同い年だったエリス様はもう二十二歳になっている。不安からか、カイルはあまり喋らなくなっていた。
治る暇もない怪我の痛みに耐えながら、ひたすら馬を駆る。熱が出て体力が削られると、神器で回復してまた進む。そうやって、必死に戻ってきたというのに、待っていたのはあまりにも非情な現実だった。
エリス様が待つはずの王都に戻ってきた時、王都の一角がやけに賑やかだった。聞けば、高名な魔法使いが花嫁を迎えたのだという。
魔法学校の教師でもあったその魔法使いウォルティス様が、何故エリス様と結婚することになったのかなんて分からない。ただ、その時にはウォルティス様のお相手がエリス様だとは夢にも思っていなかった。
エリス様の実家である領主様の王都の屋敷に辿り着くと、見知った顔の門衛が蒼白になった。彼は、今まさに神殿にてエリス様の結婚式が行われていると教えてくれた。
それを聞いたカイルは、全力で馬を駆った。そのあまりの速さに、私は彼を見失ってしまったけれど、彼の行く先は分かっている。
神殿に辿り着くと、カイルの馬が神官の一人に手綱を握られて、不安そうに頭を振っていた。
治りきらない怪我がズクズクと痛みを発する。けれど、この先で絶望しているであろうカイルを放っておくわけにはいかない。
そして、新郎新婦が誓いのキスを交わした直後に乱入したカイルが、花嫁に縋り付いたところに、私は追いついた。
神殿内は驚きに包まれていたものの、乱入者が世界を救った勇者だからか、誰も彼を止めようとはせず、ひっそりと成り行きを見守っている。
カイルが縋るように伸ばした手を凝視するエリス様の瞳は、まるで亡霊を見ているかのようだった。そこには、待ち続けた愛しい人が戻ってきた喜びなど欠片もなく、後悔と絶望だけが浮かんでいた。
ああ、遅かったのだ……。
きっと、カイルにもそれが分かったはずだ。だから、縋ろうとした手を下ろしたのだろう。
けれど、彼は諦めきれなかった。彼女を手に入れる為に、何度も死にたいと思った苦しい日々を乗り越えてきたのだから。
そして、私は、エリス様の為に生きろと彼を煽り続けたその口で、彼に絶望を叩き付けた。もう、手遅れなのだと。
きっと、その言葉が、彼の気力を繋いできた最後の糸を断ち切ってしまったに違いない。私が、彼に止めを刺してしまったのだ。
気を失ったカイルは、神官達の手によって神殿の一室に運び込まれた。同様に傷だらけで熱もあった私も、隣の部屋で治療を受けることになった。
カイルは昏々と眠り続けた。きっと、魔の森を抜けてからずっと、よく眠れていなかったに違いない。おまけに、あんな絶望を味合わされたのだから、目覚めたくないのも仕方がない。
一向に目を覚まさないカイルのことが心配で、私は日中のほとんどを彼の傍で過ごした。
もし、私だけが魔王討伐の旅に出ることになり、その成功報酬としてカイルとの結婚を望んでいたのに、魔王を倒して戻ったらカイルがエリス様と結婚していたとしたら。その場面を想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。
カイルに片思いをしている私でも辛いのだから、エリス様と愛し合っていたはずのカイルの絶望は計り知れない。
「カイル……」
薬臭い包帯が巻かれた手を伸ばし、包帯から出ている僅かな指先でそっと日焼けしたカイルの頬に触れる。
カイルが目を覚ましたら、私達は王宮に呼ばれ、魔王を倒した報奨を賜ることになるのだという。カイルは騎士として最高の栄誉である勲章を与えられ、副隊長以上の地位は約束されていると神官たちは語る。
けれど、カイルは目を覚まさない。
もし、私が彼を煽らなければ。彼がもう駄目だと呟いた時、エリス様の為だなんて言わずに、彼の心が回復するまで休ませてあげていれば。
私は、彼の願いを叶えてあげたかった。他の誰かに倒される前に、魔王を倒させてあげたかった。例え相手がエリス様でも、カイルが幸せになる姿を見たかった。
「……ごめんなさい」
全部、私のせいだ。彼の為だと追い詰めた挙句、絶望の淵に叩き落してしまった。
カイルの包帯に包まれた手を取って、そっと唇を当てる。こんなことは彼が眠っているからこそできるのであって、これまでの旅でも戦闘中や怪我の治療などの必要に駆られたときでなければ、彼に触れたことなどなかった。
カイルは、あくまで私の事を、同郷の友としてしか見ていなかった。私達を繋いでいるのは、エリス様の存在だった。エリス様がいなければ、私達は同じ片田舎の街で暮らしていても、顔は知っていても名前は知らない存在でいただろう。
カイルが目を覚ましてくれることを願いながら、心のどこかでこのまま眠っていてほしいと思う自分がいた。
今は穏やかに眠っているけれど、目を覚ませば辛い現実が待っている。エリス様はもう他の人と結ばれていて、カイルの願いが叶えられることはない。
「……もう、いいんだよ。頑張る必要なんてない。気が済むまで眠っていればいいんだから」
騎士団に入ったのも、出世を望んで努力し続けたのも、魔王を倒す為にこんなに傷だらけになりながら死の淵を潜り続けてきたのも、全部エリス様の為だった。それが全て無駄になった今、目を覚ましたカイルが自暴自棄になって生きていく希望を失うことが怖かった。
彼の傍らには、体力を回復する神器が置かれている。眠ったまま、食べることも飲むことも出来ない彼は、日に日に痩せ細っていく。神器の力を借りて命を繋いではいるものの、このまま目覚めなければそう遠くないうちに命の火が燃え尽きてしまうのではないかと言われていた。
もしそうなったら、私も生きてはいられなかった。
何故なら、私は最初こそ彼やエリス様の傍に行きたくて魔法学校へ入学したけれど、その後はずっと、将来騎士団で偉くなるだろうカイルの力になりたくて努力を続けていたのだから。カイルが幸せを掴む為に、共に死地を潜り抜けてきたのだから。
「ずっと、一緒だから」
彼がこのまま死を選ぶのなら、私も共に逝く。
けれど、もし彼が目を覚まして、再び私ではない誰かと幸せになろうとするなら、静かに彼の前から去ることなどできるだろうか。
そう思うと、再び私の心は冷たく凍り付きそうだった。
だから、私は心のどこかで、カイルに目覚めて欲しくないと願わずにはいられなかった。