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光のもとでⅠ 第九章 化学反応  作者: 葉野りるは
本編
9/53

09話

「御園生さん、大丈夫ですか?」

 涼先生が優しく声をかけてくれた。

「大丈夫です」

「昇はストレートな物言いをするし、少し無骨なところもありますが、御園生さんが嫌いであんな言い方をしているわけではありませんよ」

「はい……」

「ひどい吐き気は治まりましたか?」

「はい」

「では、そろそろ夕飯の時間ですから、楓に病室まで送ってもらいなさい」

「はい……」

 ずっと俯いていた私の手を涼先生が取った。

「御園生さん、ゆっくりと時間をかけて考えませんか? 誰かに言われて大切なことに気づくこともあります。ですが、気づいたからといって、すぐにどうこうできるとは限りません。少しずつ、自分の行く道を探してみてはどうでしょう」

 手を離されると、肩に優しく触れてから涼先生は席を立った。

 楓先生は一度ベッドに腰掛け、

「大丈夫?」

 と私の顔を覗き込む。

「大丈夫です」

「じゃ、病室に戻ろう」


 昇さんの言葉はストレートでノックアウト、という感じ。

 それに対して涼先生の言葉はとても抽象的で――でも、どこに足をつけたらいいのかわからなかった私を、ストン、と地へ下ろしてくれた気がした。

 ――まずはお父さん、かな。

 会うことが決まっているお父さんには、会ったらごめんなさい、と謝ろう。

 今の話をしてみようか……。どんな答えが返ってくるかな……。

 怖いけど……怖いからといって逃げてばかりでもだめで――。

 人と関わるのは難しい。人と接するのは難しい。すごく難しいけど、目を背けていたら何も進まないのかもしれない。

 お父さんやお母さんを傷つけたくないから、というのは本音。でも、言ったあとに自分が絶対に後悔するのがわかっているから言いたくない。側にいられると困る――これは自己防衛。

 難しい……側にいたら傷つけちゃうかもしれないのに、遠ざけることはそれ以上にひどい行為だなんて……。難しい……。

 悶々と考えているうちに、九階の病室へと着いていた。

「翠葉ちゃん、そんなに考え込まなくても大丈夫だから」

 楓先生が優しく声をかけてくれた。そこに夕飯のトレイを持った藤原さんが入ってくる。

「食べられる?」

「……食べます」

「翠葉ちゃん、さっき戻したばかりだから無理はしなくていいよ?」

「いえ……食べます」

 私が元気になればなんの問題もないのだ。なら、食べるしかないじゃない。がんばるしか、ないじゃない……。

 ご飯を食べてお薬飲んで、治療もがんばって――元気になるしかないじゃない。ほかの方法なんて思い浮かばないもの……。

 ベッドへ上がり、テーブルに置かれたトレイに手を伸ばす。

 重湯やお豆腐、スチームされた野菜と薄味のお吸い物。何度も口へスプーンを運び、何度も何度も咀嚼して、喉に力をこめて飲み下す。目の前にあるものがなくなるまで、私は何度も同じ行動を繰り返した。

 正直、胃はムカムカしているし食べたい気分ではなかった。それでも、食べないよりは食べたほうが身体にはいいのだ。

 わかっていてもできないことがある。知らなくてもやれていることがある。

 きっと、そんなことが自分の周りにはたくさん転がっている。そのひとつひとつを拾っていかなくてはいけない。

 人の一生は障害物競走みたいだ。

 走るのは自分なのに、周りの人たちがどんなふうに障害物を越えていくのかが気になる。ほかの人とは体格も走るペースも障害物も、何もかもが異なるのに。なのに私は人と自分を比べてしまう。

 隣の芝生は青く見えるとわかっているのに、それでも比べることをやめられない。だからつらくなる……。

 自分と闘わなくちゃいけないのに、その自分が雲隠れしている気分だ。今、自分がどこに立っているのかもわからない――。


 夕飯が食べ終わり、藤原さんに薬を渡される。

「藤原さん、これから父が来るので、お薬はあとでもいいですか?」

 最近は薬に慣れてきたこともあり、飲んですぐに眠気に攫われるようなことはなくなった。それでも、頭に霞がかかったような状態にはなる。そんな状態で話をするのは嫌だった。

 藤原さんは何も言わずにピルケースに薬を戻した。

「少しは落ち着いたの?」

「落ち着いたというか……向き合わなくちゃいけないことをずっと避けていたらいけないって……昇さんが教えてくれました」

「……あなたは人の言葉を真っ直ぐに受け止められる子なのね」

「え……?」

 どういう意味……?

「私は真っ直ぐ以外の受け止め方をして、よく捻くれてるって言われるわ」

 薄く笑うと、藤原さんは病室を出ていった。

 今の言葉にはどんな意味があったのかな……。

 何を考えるでもなくピルケースに入った薬を見ていると、開いたままのドアをノックする音が聞こえた。

「はい」

 視線をそちらへやると、私服姿の司先輩が入ってきた。

 黒いシャツに濃い目のブルージーンズ。いつもと変わらず細身のパンツ。

 先輩がカーゴパンツをはいているところは想像ができないかも……。

「薬……」

 先輩の視線はテーブルの上にあるピルケースに向けられていた。

「お父さんと会ったあとにしようと思って……」

「そう」

 時計を見れば六時五十分。あと、十分――。

 お父さんは時間厳守で約束した時間の前にもあとにも来ない。ピタリ、とその時間に来る人。

 約束の時間前にその場に着いていたとしても、待ち合わせの時間まではほかで時間を潰す、そういう人。遅れるなんてことは絶対にない。

 あと十分……。

「何かあった?」

 司先輩はスツールに座ると、観察するように私の顔を覗き込む。

「どうして、ですか?」

「昼間に見た顔と違う」

 それは表情が、ということだろうか。

「言いたくないなら別に言わなくていいけど」

 先輩は気に留めない様子でお尻のポケットから文庫本を取り出した。

 きっと話し始めれば話を聞いてくれる。そして、何も話さなければ、気まずくならないように本を読み続けるのだろう。

「……あのね、昇さんに言われたの」

 先輩は本を閉じて顔を上げた。

「言葉で傷つけたくないって人を遠ざけている私は、遠ざけた時点ですでに周りの人たちを傷つけてるって……」

 先輩は何を言うでもなく聞いてくれていた。

「――ノックアウト。その言葉にノックアウトだよ。傷つけたくなかったのに、もうすでに傷つけてるなんて……。しかも、一番ひどい傷つけ方だって言われた」

 自分の非を認めると、身体にぎゅ、と力が入った。すると、左手に先輩の手が重ねられる。

 その手を見ながら口を開き、

「あのね、人を傷つけたら私が傷つくの。人を傷つけたことに負い目を感じるの。だから、大切な人をみんな遠ざけた。自己防衛をも含めて遠ざけてきた。そしたら、私は傷ついていないのに、遠ざけた時点でみんなを傷つけていた――知らなかったの……」

「……気づけて良かったんじゃない?」

 重ねた手はそのままに、先輩は本を読み始める。でも、それでよかった。

 何か言葉が欲しかったわけではないし、慰めてほしかったわけでもない。そういうことではなく――ただ、昇さんに言われたことを自分で口にして、改めて自分に刻み込む必要があった。しっかりと認める必要があった。だから、先輩はそれを聞いてくれるだけでよかった。

 聞いてくれたのがこの人で、よかった……。

 七時まであと三分。

「司先輩、屋上に連れていってくれますか?」

「……あと少しで七時だけど?」

「……うん、だから」

「わかった……」


 ナースセンターの前を通るとき、藤原さんに声をかける。

「父が来たら、屋上にいると伝えてもらえますか?」

「それは司くん付きでって言ってもいいのかしら?」

「……えぇと、内緒で」

「わかったわ」

 エレベーターに乗ると、

「俺、透明人間でいいんだ?」

「……はい。ひとりでがんばってみます。でも、だめだったら助けてください」

「了解」

 エレベーターが屋上に停まり、ドアが開く。

「先輩……」

 肩越しに後ろを向く。と、先輩は「何?」という感じで私を見ていた。

「ありがとうございます……。側にいてくれて、ありがとうございます」

「……そう思うなら敬語やめて」

「え……?」

 外に出る目前の自動ドアが開く。

 山の稜線には沈んだ太陽の残光があり、陰影がとてもきれいに浮かび上がる。

「せめて夏休みの間だけでも。……ここは学校じゃないだろ?」

 つまり、敬語を使わなかったとしても年がばれることはない、だろうか。

「……慣れなくて変な気がするけど」

「タメにずっと敬語を使われている俺の身にもなれ」

 そう言われると強く言い返すことはできない。

「先輩……私、先輩のことも傷つけちゃったよね」

 言葉で罵詈雑言を浴びせたのは先輩だけだ。

「そうだな……。大嫌いとかムカつく程度のものだったけど」

 先輩はまるでどうでもいいことのように言う。

「ごめんなさい」

「……名前」

「え……?」

「敬語をやめるのと、プラスアルファ。名前に先輩つけないで」

「は……?」

「それで許してやるって言ってるんだけど」

 ずいぶんと突飛な交換条件を出されている気がする。

「……司、くん?」

「敬称禁止」

「……ツカサ?」

「よくできました」

「ツカサ……」

「何?」

「……ツカサ」

「だから、何」

「……なんでもないです」

 ただ、どうしてか何度も呼びたくなる。

 そんなことを言ったら呆れられそうだから、これは秘密……。

 今頃、お父さんはナースステーションで私の居場所を聞いているだろう。

「先輩、ハーブ園のところがいいな」

 希望を口にすると、先輩はそこまで車椅子を押してくれた。

 ここはミントの背丈が高くて、裏側に人がいても見えない。

 私、確信犯だ。

「俺は裏ってこと?」

「ピンポンです」

 そんな会話をして別れた。

 別れた、といってもハーブ園の裏と表。距離にして二メートルもないくらい。

 正面から来るお父さんには私しか見えないだろう。

 お父さん、話をしよう……。話を、しよう――。

 世間話ではないかもしれない。笑って話せる内容でもないかもしれない。

 もしかしたら泣いてしまうかもしれない。でも、逃げないから……。だから、話をしよう。

 お父さん、私、いい娘になれるかな……。

 そんなことを不安に思っていると、背後から静かな声が聞こえてきた。

 それは数字。一から十までの数――。

 一クール聞きおわると、今度はその声に合わせて自分も口ずさむ。低く落ち着いた声に自分の声が重なった。

 大丈夫――きっと、大丈夫。

 ツカサという大きな保険を得た気がして、なんだか気を強く持てる気がした。

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