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光のもとでⅠ 第九章 化学反応  作者: 葉野りるは
本編
7/53

07話

 病院での一日は、何をするでもなく時間が過ぎていく。

 朝起きて、朝食を食べたら薬を飲み、顔をタオルで拭いてから歯磨き。身体を拭いてさっぱりすると、午前の治療が始まる。

 治療を終えると休憩と称してお昼まで休み、昼食を食べたら薬を飲む。音楽を聴きながらうつらうつらしていると、藤原さんに起こされた。

 どうやら、お風呂は一日置きで今日は髪の毛のみ洗ってもらえるらしい。浴室の脱衣所には美容院にあるようなシャンプー台があり、そこで洗ってもらえるのだという。

 髪を洗い終えたら午後の治療とのことだったけれど、午後いっぱいかかるわけではない。治療が終わればまた音楽を聴きながら過ごすことになるだろう。


 髪を洗い終え鏡の前に車椅子を移動される。と、久しぶりに自分の顔をしっかりと見た気がした。

 昨日お風呂に入るときにだって鏡を見たし、今朝だって歯磨きのときには見ていたはずなのに、自分の顔に関しては記憶が曖昧だった。

 でも今は、意識もはっきりとしていて自分を観察する余裕もある。

 それは、お父さんと会うのに司先輩が立ち会ってくれるという保険を得られたからだろう。

 そうじゃなかったら、何を話したらいいのか、と今もずっと考えていて、自分の顔をまじまじと見る余裕なんてなかったはずだから。

 自分の左サイドの髪に手を伸ばすと、

「そこだけ短いのね?」

 藤原さんが首を傾げる。

 不思議に思われても仕方ない。左サイドの一房分、ザックリと無造作に切られた髪が鎖骨のあたりにあるのだから。

 あの日、自分で切った髪の毛――。

 秋斗さんの前で切り、それを押し付けた。

 思い出すだけで、涙が溢れてくる。

「御園生さん、痛み?」

「……違います」

 私は――私はなんてひどいことをしてしまったのだろう。こんなことをされて傷つかない人なんていない。

 私――大切な人をとても嫌な方法で傷つけた。言葉よりもっとひどい方法で傷つけたのだ。

 どうしよう――。

 顔を手で覆うこともできずにいると、藤原さんにホットタオルを渡された。

「泣きたいだけ泣いちゃいなさい。その間に髪の毛乾かすから」

 タオルがとてもあたたかくて、ちょっと熱いくらいで、心と肌にチリチリと沁みた。

 車椅子で病室へ戻ると、

「ハーブティーが好きなんですってね」

 びっくりしながら「はい」と答えると、馴染みある缶を見せられる。

 私の大好きなハーブティー……。

「これ、午前中に上のお兄さんが届けてくれたの。どっちが飲みたい? 淹れるわよ」

 私は少し悩み、レモングラスとミントが爽やかなハーブティーを選んだ。

「じゃ、少し待ってて」

 藤原さんが病室を出ると、手が左サイドの髪に伸びる。

「五十センチくらい、かな……」

 すぐそこに携帯が見えたけど、手に取ることはできなかった。

 早く謝らなくちゃいけない。できるだけ早くに――。

 そうは思うのに、まだ人と接するのは怖い。

 今は比較的痛みも落ち着いているけれど、自分の感情は不安定なまま。そんな状態で謝ったとして、泣き崩れるだけでまともに謝れるとは思えない。

「……言い訳、かな」

 たぶん、まだ怖いのだ。秋斗さんに会うことが。

 あの日も、不意に現れた秋斗さんを見てものすごく動揺した。でも、だから……というのは言い訳にはならない。

 髪の毛を切ったのは自分だし、秋斗さんを傷つけたのも私なのだ。結果は何も変わらない。

「難しい顔してるわね」

 ハーブティーの香りと共に藤原さんが戻ってきた。

「誰かに聞いてもらいたい? それとも聞いてもらいたくない?」

 目の前にプラスチックのカップを置くと、そんなふうに問われた。

「聞いてほしくて、聞いてほしくない……」

「それは困ったわね」

 藤原さんは全く困っていない顔で言う。そして、何を話すでもなく、高カロリー輸液のライン消毒を始めた。

 高カロリー輸液はその名のとおり、高カロリーの液体。どんな菌も大好物の液体のため、何か菌でも入ろうものならすぐさま増殖し、それが体内へ入り込むと敗血症を起こす。だから、できるだけ早くに抜くことが望ましいそうだ。

 そこへカートを押しながら昇さんが入ってきた。

「お、サッパリしたな」

 カートの上に、治療にそぐわないものがひとつ……。

「ウォーカーズのクッキー……」

「あぁ、秋斗からだ。食べられるようならって置いていった」

「ほれ」と無造作に渡され、また涙が出る。

 この涙腺、どうにかしてほしい……。

「……俺、なんかまずいことしたか?」

「いえ、少し情緒不安定みたいね」

 藤原さんの答えに、

「なんだ、そんなに親父さんと会うのがプレッシャーなのか?」

 心配そうに訊いてくるバリトンの声に、首を振って否定を伝える。

「それは、司先輩が来てくれるから、大丈夫……」

「じゃ、なんだ?」

 先生は途方に暮れた様子でベッドにギシリと腰掛けた。

「その髪の毛、秋斗くんが関係しているのかしら?」

 藤原さんの言葉に反応して顔を上げる。と、重力に従って涙が零れた。

「清良女史、ビンゴっぽいぜ?」

「でも、聞いてほしくて聞いてほしくないのよね?」

「もうなんでもいいから話しちゃえよ。意外とすっきりするかもしれねーぜ?」

 でも、まだ頭の中はぐちゃぐちゃしていて人に話すのは難しい。

 もう少し涙を流したくて、待機しているであろう涙たちも流しきってしまいたくて、

「先生、治療――治療、して」

 そう言葉にするのが精一杯だった。

 治療が一通り終わると、藤原さんはカートを押して病室を出ていく。残った昇さんはスツールに腰掛けた。

「痛いとこないか?」

「ないです……」

「嘘つきは狼少年なんだぞ」

 言葉を省略しすぎな返答と共に、頬をつつかれる。

「ここ、痛いんじゃないの?」

 指差されたのは胸だった。

「いえ、治療をしてもらったので――」

「違う、そうじゃない。物理的じゃなくて心理的なほう」

「…………」

 ただ少しつつかれただけ。それだけで涙が出てくるこの目は壊れているのだと思う。

「話してみれば?」

「……昇さん、私……自分で髪の毛切っちゃった……」

「おぉ……この左サイドな?」

 先生は軽く髪の毛に触れた。

「しかもそれ……秋斗さんに押し付けちゃった」

 しゃくり上げるものが止まらず、それ以上話すのは無理だった。

「俺の事前情報。アメリカにいるときに栞から聞かされていたのはさ、秋斗と翠葉ちゃんが付き合ってるって話だった。でも、帰国したら側にいるのは秋斗じゃなくて司ときたもんだ。でも、司とは付き合ってないって言うし……。何がどうなってんだ?」

 何がどうって……そんなの私が知りたい。

「色々あって……」

 止まらない涙に困っていると、

「ゆっくりでいいから」

 大きな手に、頭をわしわしと撫でられる。

 その手はナールコールに伸び、

「清良女史、茶っ! おかわり要請っ」

 何もかもが豪快な人だな、と思いつつも、私の涙は止まらない。

 よしよし、と撫でてくれる仕草も、蒼兄や唯兄と比べると豪快で、でも、不思議と安心感を得られる重みだった。

 藤原さんがお茶を持ってきてくれると、

「ほら、ゆっくり飲め。少しずつ、何回にも分けて飲んでいればしゃっくりは止まる」

 断言されると本当にそんな気がしてきて、飲むことに集中することにした。

 昇さんはその間、頭ではなく背中を撫でてくれていた。

「今、五時か……。おい。少し落ち着いたら院内散歩だ」

「神崎医師、三十分以内には戻られてくださいね」

「了解。念のためにタオル持たせて。途中で泣かれたら困るから」

 昇さんの言葉に藤原さんがクローゼットからタオルを出してくれた。

「おら、行くぞ。外の空気吸って、身体中の空気も入れ替えろ」

 車椅子の用意をすると、

「中庭の大きな木が好きなんだろ? 楓から聞いてる」

 楓先生……。

 その名前を聞くと、ほかの人たちの名前が浮かび出す。

 秋斗さんに楓先生、栞さんに湊先生――どうしよう、涙が止まらない。

「あらあら、大丈夫かしら?」

「大丈夫大丈夫」

 昇さんが何を根拠に答えたのかはわからない。

 私は自分で動く前に、昇さんに抱え上げられ車椅子に乗せられた。

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